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第33話 堰を切るように


 地下道の外に出たとして、地上も厚い雲に(ふた)をされ、雨が降り続く悪夢のような閉塞(へいそく)感は変わりなかった。

 雨粒が、傘を落とした僕を容赦(ようしゃ)なく打ち付ける。

 

 僕が自力で足早に歩くと、先輩はもう手を引きはしなかった。

 だが逃げられないという圧は伝わってくる。


 今はただ、彼の家にいるはずの子猫が本当に無事なのかを気にして、ほぼ一本道の工場地帯を進む。

 やけに静かだ。日曜日であることを差し置いても、人影がないし、車も通っていない。 


「停電……?」


 ふと見上げると、信号機が点いていなかった。

 

 先輩のアパートは、水溜りの中の廃墟のようで、もちろん電気はどの部屋もついていなかった。

 ニーちゃんはもう駄目かもしれない。


 最悪の予感に追い打ちをかけるように、先輩の家の中はもっと荒れていた。

 床には濡れた赤黒いシミ、恐る恐る見上げた天井には、同じ色のにじんだ輪郭(りんかく)が広がっている。

 上で血まみれの殺人現場があって、その血が下の階にまで垂れてきたかのようだった。

 

 ようだ、ではない。”そのもの”だ。

 

 この赤は警察には見えない呪いの色だった。

 吐き気がする。冗談じゃない。もうたくさんだ。

 

 にー、か細く高い鳴き声。

 

 ニーちゃんはベッドの上、タオルケットの中、乾いている空間に縮こまるように丸まっていた。

 

「ニーちゃん!」

 

 急いで駆け寄り抱き上げる。

 ちゃんと暖かくて、手足を動かして()り寄ってくる。


 本当に、本当に良かった。

 ニーちゃんが濡れないよう、タオルケットにくるんで抱きかかえる。


「エサは……今日の分はまだだな。昨日はやったっけ……?まぁ、元気そうだし」


 きゅっと腕の中の小さな命を強く抱きしめ、自分の中にまだ残っていた怒りを震え立たせる。


「……どうして、こんなことするんですか?

 あなたは迫水さんなんですか?」

 

 眼の前にいるのは、明らかに正気ではない何かだ。

 馬鹿正直に問いかけても仕方ないのかもしれない。

 それでも、これは迫水辰なのか、その皮を被った怪物なのかを確かめておきたかった。

 僕の知っている優しい彼の名誉のために。


「……それって、つまり」


 その声の低さに、空気が豹変(ひょうへん)する。

 

「……オレが他の誰かに操られてやってるって、マサキもそう言いたいの?」

「……っ!」

「オレがやったことそんなにおかしい?

 なぁ、どうなんだ。正気じゃない悪人がやったことにしないと、都合が悪い?」


 彼の口から、これほど鋭く棘のある言葉を浴びる日が来るとは。


 だが耳に覚えはある気がした。

 そうだ、あの遭難から助けてもらった一件で、僕を置き去りにした父の嘘を非難した時だ。


「卑怯だよお前たちは。逃げてばかりだ」


 その怒りの瞳が僕に向けられる。

 きっとあの日、彼の実家の廊下で、僕を迎えに来た父を(にら)みつけた時も、同じ眼差しをしていたのだ。

 迫水辰の激情は彼の中に元からあったものだ。


「…………せんぱ……い、ちが……」


 僕は耐えられず、うつむいて視線をそらしてしまった。

 ニーちゃんを抱きかかえる僕の腕が震えている。次の叱責がくる。


「……マサキは、べつに、関係ないから、ここにいてくれれば、大丈夫だよ」


 僕の頭の上から降ってきたのは、怒声の鉄槌(てっつい)ではなかった。

 殴るため振り下ろした拳を、ぎりぎり止めて、そのまま指を開いて頭を撫でるような、不思議な感覚。 

 

「オレそろそろ行くから、あとは」

「待って」

 

 僕の指は、逃げるシャツの端をそっと(つま)んだ。

 振り向こうとしていた先輩が静止する。

 引っ張るときはあんなに強かったのに、振り解く動きはプログラムされていないような、ぎこちない動き。

 

「なら教えてください。

 本当のあなたはこれまで、何をしてきたのか。何を思ってきたのか」


 まっすぐにその目を見て話をしたいと思った。

 察しの悪い僕がずっと気が付かなかった、彼の本心の怒りを受け止めるため。

 そして信じたい。本当の彼は何かに(あらが)おうとしていると。


「あなたが雨の日に苦しんでいたのは、洪水を防ぐ犠牲になる子どもたちのため?」

「…………そうだよ。あの子達の最期をオレは知っている。ずっと声を聞いていたんだ。

 みんな後悔していた。事故じゃないのに、何も悪くなかったのに……」


 他でもない、これは僕の家が背負うべき罪だ。

 

「あなたが上の階の人を……殺したことも?」

「そう。いつもみたいに大騒ぎして同居の女の人を殴って追い出して、いい加減にしろって言いに行った時に気づいた。

 今ならやれるって。こいつに代わりに死んでもらおうって」


 代わりの犠牲。命の選別の是非は今は問わない。

 でもこれだけは確かだ。


「………代わりができるって、あなたに教えた人は、子供が犠牲になることも、街が洪水で沈むことも、なんとも思っていません。

 上川にダムを作る計画があった事は知ってますか?」

「知ってるよ。オレの家もダム湖に沈むかもしれなかったし」

「そのダムが完成していたら、もう八淵川の水を地下に落とす必要はなかったんです。

 全て終わりになるのを邪魔した者が、あなたの味方のふりをして近づいてきたんです」

「…………ふぅん、そう」


 興味がなさそうに彼は言った。

 

「それで、ダムが作れなくなって何年たった?

 その間に死んでく子どもたちは見てみないふり。

 工場だけは立派に作って人を集めてさ」

「そ……れは……」

 

 唇を噛む。言い返すことができない。

 今、彼に分かって欲しいのはそこじゃないのに、それた話を戻す正当性が僕にはない。

 

「マサキは好きって言ってたけど、やっぱりこの街、気持ち悪いよ。

 こんなところにあっちゃいけない。

 気持ち悪い。ああ、もう!許せない!」

「先輩……!?」

「許せない、許さないから」


 黒い髪をかきむしり、うわごとのように繰り返す拒絶の言葉。憎しみに(ゆが)む表情。

 それはあなたの感情なのか?

 

「それで、あなたは、街をどうするんですか」

「沈めばいい。全部、流されて消えてしまえ。それが正しいこの土地のあり方だ」

「なぜ!?なんでそうなる!?」

「間違ってないだろう。何も!

 あり方を歪めた側に否定する権利があるとでも!?」

 

「ちがう!矛盾してるって言ってるんです!

 先輩、街には何の罪もない子供も大人も大勢いるって分かってたでしょう!?だから、あなたは最善を探して罪を被ったんだ。助けたくてやってたはず!

 それがどうして、みんな死んでしまえなんてことになるんですか!!」

「…………あ……ああ……!」

 

 彼は声にならない声でうめきながら、後ずさっていく。たまらず追いかけようとした瞬間、


「動くな!!!」


 その迫力に体が固まる。

 恐怖のせいではない。

 その言葉に宿っていたのは憎しみではなく、きっと本当の彼の想いだったから。


「先輩、困ってることあるなら力になりたいです。

 今更(いまさら)でも。今からでも……!」 

「じゃあここにいて。絶対動かないで。

 流し込むのは簡単だけど、()けたり止めたりするのは大変なんだ。もう行かなくちゃ」 

「いかないで……、先輩も一緒にここにいればいいじゃないですか」

「君を選んだから他は仕方ない。分かってくれる?」

「…………ぜんぜん、わかんないです……」

「だよね。オレも自分がよくわからないや」


 彼が扉を開けると、横殴りの雨が部屋に吹き込んだ。

 先輩は嵐の中に踏み出し、最後にもう一度だけ振り返って、

 

「さよなら」

 

 それだけ言って部屋を出ていった。



  

 ドアが閉まる。急に何もかも静かになる。





 

「……う……ひっく」


 静寂を破ったのは、僕の口から漏れる情けない泣き声だった。

 せきを切るように、抑えきれない涙があふれる。

 冷えきった(ほほ)幾筋(いくすじ)もの熱が伝う。


 去り(ぎわ)の表情、先輩の瞳からこぼれ落ちた一筋の(しずく)は、雨だったのだろうか、涙だったのだろうか。


 僕はずっと、ただの一度も、あの人の辛さに寄り添えてなどいなかった。

 この街が好きだと、誇りだとすら思っていた。背負う重さなんて想像もついていなかった。

 僕には何も出来ない。幹也さんも迫水先輩も、危ない所に行かないでと、引き止めることすらできない。

 だからこうして一人で泣いている。 


 ……約束したのに。雨が止んだら、あなたを悪夢から連れ出したかったのに。


 この街と、僕たちの運命をふさぎ続ける、灰色の雲がはれる日は、もう来ない気がした。


 




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