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第31話 そこで何をしていた?


 その展望台は市内で最も広い公園の中にある。


 盤城山自然公園、山の中腹(ちゅうふく)に作られた緑豊かなこの公園は、中央の芝生(しばふ)部分の面積もさることながら、様々な木々が植えられた長い外周が、ハイキングコースとして市民から親しまれている。


 そんな立派な公園だが、大雨の夜の駐車場には1台の車も止まっていない。

 僕が降りたタクシーが道を引き返すと、いよいよ人の気配が完全に消えた。

 

 駐車場の白い街灯は、まだギリギリ点いている時間だ。

 しかし展望台までの道は真っ暗だった。

 目的地につくには、外周のコースを左から回り、坂を登っていくことになる。


 意を決して、暗闇の中に踏み出す。

 舗装(ほそう)されていない、ぬかるんだ地面がぶにょ、と靴にまとわりつき、すぐに靴の中に冷たい水が染みてきた。

 既に傘を指していても濡れているのだが、転んだら最後泥まみれだ。急がず、足元に気をつけて歩いていく。

 

 暗闇では山の中と公園の境目が分からない。

 僕は暗い山の中はきらいだ。あの遭難の後は近づきもしなかったから、どれだけ苦手になっていたか今日まで自覚できなかった。

 息が喉で詰まり、呼吸が浅くなる。暗闇の中に恐ろしいものを想像してしまう。

 さっきは人がいなくて寂しいと思ったが、こんな時に人がいたほうが恐ろしい。

 

 黙々と登っていると、木々の隙間から市街の景色が見えた。

 雨でぼやけてなお光が分かる市街と都築化学の工場群。晴れていればさぞ夜景が美しいだろう。

 その光から人の温かみを感じて、僕はようやくほっと心を落ち着かせた。

 展望台からはもっと美しく見えるはずだ。足取りも少し軽くなる。


 目的地の展望台は、高さのあるやぐらではなく、デッキが張り出しているタイプのようだった。

 もう少し道の先にあるのだが、木々の隙間から、白色灯に照らされたデッキの上をうかがい知ることができる。


 誰かがいる。


 大雨の中、赤い傘をさして、街を見ている。


 全身の鳥肌がたった。

 驚いた反射で動きそうになる。

 それを「絶対に動くな」という意志で押さえ込み、指ひとつピクリともさせず、その場で止まる。


 息も(こら)え、ただ目だけは見開いてその人影を追った。

 白く長い髪、男性の身長、僕は一人だけこの特徴がよく当てはまる人を知っている。


 堰根(せきね)先生。

 縁宮学園保健室の養護教諭だ。


 距離があって顔がしっかり見えないため確信は持てないがおそらく先生だ。

 得体の知れない誰かではなかった。こわばった体から少し力が抜ける。

 

 何をしているのだろう?声をかけようか?

 そういえば、お見舞いの時の裏口の件は、お礼をまだ言っていない。

 少し考えていたその時だった。

 

「な………!?」


 衝撃の波がドンと、全身を飲み込む。

 驚いてその方向へ顔を向ける。


 市街、海岸近く、赤く巨大なうねりが“見える“

 それは植物園で見た古地図の“血管“と同じモノだった。

 現実ではあり得ない鮮やかな赤、夜闇にも雨にも(かす)まない別次元の存在。

 最初の衝撃も今感じる圧力も空気の振動ではない。


 それが竜巻のように、街から立ち上っていた。

 あれは第三工場のあたりか?ここからでは見え難い。

 そうだ展望台、あそこからなら。僕は走り出そうとして、

 

「………!?」


 堰根先生がそれを“見ている”

 体の向きを変えて、明らかに赤いうねりの方向を見ている。


 血の気がさっと引いていく。

 アレが見えるという事の意味を推測(すいそく)する。 


 声をかけてみようなんて冗談じゃない。

 あの男に決して見つかってはならない。

 本能が警鐘(けいしょう)を最大音量で鳴らしていた。


 動いた。

 目当てのモノを確認したからか、展望台を去ろうとしている。

 こっちへ来る?


 体を伏せて隠れろ、早くしろ。

 そう命令する生存本能に従って、僕は傘を閉じて木々の影に置いた。


 すぐに雨が顔を濡らす。隠れるのに一番近い(しげ)みへ、そっと慎重に潜り込む。

 あっという間にシャツの中までずぶ濡れになり、体温が奪われていく。

 冷たい、だがまだ足りない。もっと体を低くして、見えないように。

 僕はぬかるんだ泥の地面に胸も顔もつけて、息を殺した。


 男は案の定、こっちの道へ下ってきていた。

 豪雨に混ざる足音を、絶対に聞き逃さないよう神経を研()()ます。

 心臓はバクバクと高鳴っているが、雨はこちらの気配を少しはかき消してくれるだろう。


 男の足音は一定の調子のまま、こちらに気がつくことなく通り過ぎていった。


 一瞬、顔を泥につけたまま視線だけを上げて見た男の顔は、間違いなく堰根先生だった。

 その口元は満足気に笑っていた。

 


 いつ起き上がればいいか分からず、同じ体勢でい続けた体が痛みを訴えて、耐えられなくなるまでそうしていた。

 泥と雨で冷え切って力の入らない指先や関節に苦労しながら、茂みから出て坂を下る。

 傘はどこにあるか分からず拾えなかったし、途中で何回も転んだがもう今更だった。


 赤いうねりは消えていた。

 だが空気には重さというか、匂いというか、圧力というか、呼び方がよくわからない変化が起きている。

 状況がより深刻に変わったことは間違いない。


 駐車場の明かりは消えていて、もちろん誰もいなかった。

 僕は雨をしのぐために公衆トイレの小屋に入った。センサー式の明かりがつき、トイレの鏡に泥だらけで(みじ)めな僕の姿が映る。

 しかし口には笑みが浮かんでいた


 僕は一つの重大な情報を得たまま、この場をやり過ごすことができたのだ。

 実行犯の元へは幹也さんが向かったから、自由に動いていた堰根はこの事件の黒幕側で間違いない。

 僕に顔を見られたことに、堰根は気づいていない。

 これは有利に働くはずだ。情報を持ち帰れた達成感に心が上向きになる。


 僕は手と顔を水道水で洗って、携帯を取り出した。

 こんなに濡れても平然と動く最新の防水性に心から感謝する。

 まずタクシーを手配して、それから、この情報を一番最初に伝えたい人に電話をかけた。

 

 コール音は空虚(くうきょ)に響くだけで、幹也さんは出てくれなかった。

 ダメで元々と思ってかけたのに、出ないのがわかると不安が押し寄せる。

 僕は唇をかみながら数回かけなおした。


 発信履歴に並ぶ無駄の数を見て、僕はようやく諦めがついた。

 先に夕子さんに連絡したほうがいい。


「え、先輩?」


 電話帳に切り替えようとした時、ふとした違和感に気がついた。


 今日の午前中、迫水辰への発信記録。

 僕はかけていないし、この時間は携帯が手元になかった。

 そもそも先輩との通話は基本的にトークアプリで、キャリアの電話番号は使っていない。

 偶然かかってしまうことはあり得ない。


 午前中、この携帯に触れた人間が、意図的に連絡を取った。

 つまり幹也さんは僕に携帯を返す前に、迫水先輩と話す必要があった。


 点と点が繋がる。

 違和感のある個々が一本の筋道ある流れに収束していく。


 夕子さんの「聞いてないのね」の中身

 昨日の夜に先輩の家の近くで起きた殺人


 そして、堰根は先輩の体調不良の件をよく知り、去年から相談を受けている親しい間柄だ。


 やめろ、推論に過ぎない。

 まだ、状況を繋ぎ合わせただけの僕の勝手な思い込みだ。


 さっきまであった高揚感が反転して、落ちるところまで落ちきる。

 腹の底から凍りつきそうな寒気で、携帯を持つ手がぶるぶると震えてしまう。


 迫水辰に何があった?

 いや、あの人は何をしてしまった?

 

 夕子さんへの通話ボタンは押せなかった。

 たった一言聞けばいいだけの、答え合わせをする勇気が僕にはなかった。





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