第30話 臨海地下道
男の姿は見えないが、声がしたのは自分が行く予定の方向とは逆側からだった。
なら無視して進みたい気持ちにかられる。
さっきまで家にいたのに、そこを狙ってこれない奴に何ができるというのか。
ただ相手は街を牛耳る呪いの一族だ。
安全策を取るのなら、引き返して地上に出たほうがいい。大雨の地上のほうが自分に優位だからだ。
自分には非実在の呪いの水と、本物の水を操る能力がある。
本物の水を操る能力の方は、まだ大量に自在に動かせるわけじゃない。空中にある雨粒のほうが重力に逆らわず利用しやすい。
「どこにいくつもりだった?」
「…………」
「ま、行先はともかく何をするかは確実か。こっちも脅したくはないし、止めてもらえると助かるね」
「脅す?リードが繋がってない犬と道端で会ったときのほうが、今より怖かったくらいだ」
恐怖とは生理的なもので、理性で制御できるものではない。
むしろ理性では警戒したほうがいいと思っている。だが本能が告げているのだ。
こいつは生命を脅かすほどの相手ではない、と。
「お前こそオレの邪魔をする理由がない。
こっちは街を洪水から助ける気があるんだから。ついでに犯罪者も消えて一石二鳥だ。
それとも、幼気な子供だけ犠牲にしないといけない理由があるのか?」
「………………残念ながら、な」
残念ながら、理由があるのか?
男の言葉の続きを待って、その場に止まる。
電話の時といい、こいつは多分お喋りがしたいのだと踏んでの判断だった。
肩で何かが蠢く感触がした。
とっさに手で払いのけてしまうと、その何かは手首に巻き付いた。しまったと舌打ちをする。
細い紐状のモノが上から垂れてきたようだった。
目線を上げると、天井には植物の蔦か根らしきモノが網のように、男のいる側から伸びている。いつからあった?
「残念ながら交渉決裂ってことかよ」
「まぁ、解釈はご自由に」
少しでも期待した自分が馬鹿だった。
手首から次第に腕へと巻き付いてくる、うっとうしい草に向けて念じる。
「失せろ」と。
すると現れた赤い水が自分の体から草、それを伝って天井の方へと一瞬で、重力に逆らって流れた。
そして酸に溶けるように草はすぐに消え、消化し終えた呪いの水は、赤い雨のように天井からボタボタと落ち、足元の水と混ざって消えた。
巻き付かれた腕には薄く痣が残っている。
一瞬だが力を吸われた感覚があった。
やはりあれは蔦ではなく根で、対象のエネルギーを吸い弱める類のモノだろう。だが植物そのものの耐久性は弱い。
そのまま振り返り、逆方向へと走り出す。
目的地のC3出口は地上の工場をくぐり抜けた反対側にあり、途中で大通りに一度合流する。
この地下通路の構造は、入口と同じアルファベットの出口を使うのでなければ、大通りに一度は出ることになる。
やはり、そこで仕掛けてくるか。
一息つき、大通りへ一歩踏み出す。
じゃり、と濡れた砂を踏む足音が響く。
そう、靴が地面に触れている音だ。
冠水がはじまっていた地下通路の水位が、大通りに近づくと浅くなっているのは、流石にすぐ気がついた。あの男が現れた時に、乾いた足音がした違和感にも。
地下道に元から傾斜がついているわけではない。
おそらく何らかの手段で水を吸い上げている。
「は?…………気持ち悪…」
その変様を一言で言うなら、熱帯雨林をグロテスクに詰めた温室だった。
うねる板のような太い根を伸ばす樹木、奇妙に大きいシダは天井まで届き、滑り気のありすぎる多肉植物が微かな灯りを反射して、てらてらと光っている。
そこかしこには花弁の直径が1mはゆうに超える巨大な花が咲き、腐った肉の匂いを漂わせていた。
普段の大通りは整備されていて照明も明るく、怪しい雰囲気はまったくない場所だ。
長さ150m程の直線の空間は、道幅も天井高も他の通路の倍近くあり、地下の閉塞感を感じさせない造りだった。
だが、今やそこは異界と化していた。
じっとりと下水の匂いがする湿気が満ちているのに、空気は冷え冷えとしている。
奇怪な蔓や根が通路の奥の方から、壁に床に這って異常な量と速度で伸び続けている。
今もより巨大に広がっていく異常の光景に、さすがに圧倒されてしまう。
自分だってオカルト的光景に少しは慣れたつもりだった。だがこれは何だ。
すると、通路の中央で行く手を塞ぐ樹木の、暗闇よりも濃い黒の幹の後ろから、一人の男が姿を見せた。
「せっかく屋敷で綺麗に咲いていたのに、汚い水を吸わせたらすぐにこれだ」
そいつの風貌はマサキに似ていなかった。
スーツ姿、思ったより年上、場に似つかわしくない緊張感のない雰囲気。
いや、既に交渉は決裂している。
こいつとのお喋りに気を取られてはいけない。
直感で確信したが、今この場で自分に危害を加えうる存在なのは、こいつではなく後ろの植物のほうだ。
先ほど自分から力を吸った根が、勢いよくこちらに迫ってくる。
後ろに下がれば逃げられる速さだが、問題はその量だ。床を瞬く間に覆い、面を制圧されていく。
遠ざかっていく本体と男の足元は、既に成長してうねる根で下のコンクリートが見えない。この上を走り抜けて突破は難しいだろう。
下がりながら目的地とは別の出口から地上に逃げるか、呪いの水で障害を消すかの二択。
いや、逃げ道は罠だと思ったほうがいいのか?自分の能力は、この異常を飲み込めるほどなのか?
その時、急に膝に力が入らなくなった。
後退する体の重心が崩れる。壁に手をついて倒れるのだけは回避したが、その隙を敵は見逃さなかった。
壁に伝う根が手を抑え、両足を抑えた。
なぜ力が抜けた?捕まっていなかったのに。
「そうやって、見えやすいモノにばかり気を取られる。
この業界では、手の内は見せないのがセオリーだ。覚えときな」
男は悠々と歩いてきながら、口には出していない疑問に余計な説教をたれた。うるさい。
「手の内も外も汚いって救いようか無いな。
おまけにセンスが気色悪い。
オレのこと頭おかしい奴扱いしてくれたけど、おかしいのはどっちなんだか」
「この状況がおかしいって思うなら、元の普通への帰り道を教えてやろうか?」
男は眼前に立ち止まり、意外なことを口にした。
はじめて表情がはっきりと見える。眉をひそめ、冗談を言う態度ではない。
そして瞳には、嘲りでも敵意でもない感情を浮かべていた。
「もちろん、もう何もしないことと引き換えに。
子供を呪い殺す夢だったか?それは今後見ないように取り計らえる。悪かったね」
その言葉を聞いたとき、腹の底から溶けた鉄のような、熱くどろどろとしたものが込み上げてくる感覚がした。
「…………は?人殺し扱いしといて何だ」
そうだ。お前もオレも、だ。
『悪かったね』?何に謝っている?誰に赦される?
なぜ、その罪の清算を一つも取り合わないくせに、こっちを憐れみの目で見てくる?
「別にいいさ。末期の年寄りや犯罪者に同情してるわけじゃない。まぁ適当にこっちで処理するよ。お疲れ様」
「そう、お前は、オレが散々苦しんでした選択を、お前は…………!」
怒りと憎しみではち切れそうだった。
それこそが呪いの本質だ。
今なら足りる。間違いなく。
「邪魔だ、失せろ」
赤い水が溢れる。
濁流の河川のように、道を飲み込み、禍々しい草花を捻り散らして消化していく。
全て失せたあとの通路には天井に壁に床に、凄惨な殺戮現場のような赤い跡が残った。
「はぁ、はぁ…」
いや、都築の男は残っている。
倒れて気を失っているようだが、こいつは死んでない。殺しきれなかった。どうするか。
次の生贄はこいつでもいいんじゃないか。
「チッ…」
マサキの顔が浮かんだ。どうしても。
彼のもとに戻れるという誘いは自ら蹴ったのに、それでもマサキに嫌われたくなかった。
その躊躇いを上回り、呪い殺すには憎しみが足りなかったのだ。
ならば物理的にやるか。
呪いと暴力の間にもはや差など無い。
「…………」
腹を思いっきり蹴り飛ばしてやる。
反応がない。男がしばらく起き上がれる様子じゃないことを確認して、目的地の出口へと走った。
階段を上がり、雨が降る外に出る。
その瞬間だった。
雨音の中に乾いた轟音が、工場地帯に響いた。
その音が何かを認識するより前に、熱が脳漿を貫く。
視界が消える。
真っ暗になるのではない、見る機能そのものが、吹き飛んで消失している。
痛い、痛い、痛い
どうして楽にならない。なぜ傷口が熱い。
許さない。許さない、絶対に。
撃ったやつは工場の上。見えなくても見えてるよ。
お前の顔は知ってる。昨日あいつと一緒に家の前にきてたね?
逃げても無駄。もう呪った。
別にお前の方はどうでもいいけど。
水が動いた。
地上に溜まる雨水が、工場の排水が、濁った用水路から、本物の濁流が意識を持って地下道に流れ込んでいく。
そして手応えがあった。
決して逃さないよう、一瞬で終わらせてなんてやらないよう、そいつの体を端から順番にちぎってやった。ざまあみろ。
視界が戻る。
ゆっくりと起き上がる。
水没した地下道の入口は、たぷたぷとゆれる茶色の水面になっている。
ふさわしい汚さだと思う。




