第3話 僕の名前は
泉から下って細い道を進むと、少し開けた野原に、朽ちた屋根や苔の生えた石垣の一部が見えた。ここがお兄さんの言っていた廃村なのだろうか。
僕はもっと廃墟らしい、昔の人の生活の名残をうっすら期待していたが、そこはすでにほぼ森に飲み込まれ自然へと還っていた。
生い茂る枝で辺りは薄暗く、靄もかかっていて空気は冷えていた。僕は少し怖くなった。だって、この場所の寂しさと薄寒さは墓場に似ている。
「お化けがでそう?オレは見たことないけどなぁ」
お兄さんはそういって怯えが顔に出ていた僕の手を握ってくれた。あたたかい。恥ずかしくて自分から握ってくれなんて言えなかったけど、ずっとこうして欲しかった。僕はぎゅっと握り返して、足元かお兄さんだけを見ながら歩くことにした。
それからは休みながら色々なおしゃべりをした。昨日見た動物のこと、僕の知らなかった森のことを、お兄さんは面白おかしく教えてくれた。他にもいろいろ、好きなゲームや帰ったら食べたいもの……
体はへとへとなのに、口はいくらでも回った。僕はもうこのお兄さんといるのが、他のどんな家族や友達といるよりも楽しくてしょうがなかったのだ。
「見える?あの黒い屋根がオレの家。あとちょっとだ」
お兄さんの家は、まだまだ山の途中のような所にある瓦屋根の古い平屋だった。しかし最後の斜面を降りると、その家の前から先にはちゃんと車が一台は通れる広さの道があって、ここが人里と繋がっている事に心の底からほっとした。
「お邪魔します!」
玄関の向こうから返事はなく、家の中は静まりかえっていた。
「誰もいないから楽にしてていいよ。祖母と二人暮らししてるけど、今は病院だから」
お兄さんの後を追って少しきしむ廊下を歩くと居間に通された。畳の和室で、年季の入った低いテーブルと、ぺたんこの座布団がある。
なるほど、この古民家の落ち着いた雰囲気は『田舎のおばあちゃんの家』らしさに溢れている。
テレビで見たイメージで、僕の実家は全然こんな暖かさは無いのだけれど。
「まず電話を……って、あれ?いや、こんな大事なことを聞き忘れてたのかオレは?」
お兄さんは嘘だろうという顔をしたあと、ちょっとすまなそうに尋ねてきた。
「……今更ごめん、君の名前を教えてくれるかな?」
お兄さんはちっとも悪くない。僕から名乗らなかったんだし、そのほうがずっと良かったんだから。昔から自己紹介は嫌いだった。
「……まさき。つづきまさき」
「都築?」
街からは遠いけど、僕の名字はここでも有名のようだった。
都築正城、それが僕の名前だ。
都築といえば、ここ八淵市の住人ならまず、都築化学を中心としたグループ企業と、その創業者一族を思い浮かべる。
僕の場合はそれで正解なのが名乗りたくない理由だ。
昭和の高度経済成長期に乗って成功した都築化学は、全国で公害問題に火がつく一手前に、住民の理解を得るため、市内に病院や学校をたくさん作った。さらには道路や通信、治水事業や下水処理などのインフラ整備までも支えて、市の発展に大きく貢献した。
海と山に囲まれた陸の孤島でも、世界に輸出できる産業があるおかげで、県内のよその地域よりもずいぶんと人口が多く、税金も安いらしい。
このため都築グループは、全国的な知名度よりも限定的な影響力は遥かに高い。八淵は市である以上に、都築という城主のいる城下町なのだ。
僕の家はその都築化学を経営する本家とは違うが、お父さんはグループ企業のいくつかの代表をしている。
お兄さんはそれ以上聞いてこないが、あの都築関係か、同姓の別の家か気にしているのが顔に出ていた。こういう時はちゃんとこっちから話すべきだろう。
「……都築化学じゃないけど。建築とか、そっちのほう」
「……じゃあ君のお父さんって」
「ちょっとめんどくさい人だから、まぁ、関わらない方がいいと思うよ」
「そんな……このままにしておくなんて!」
お兄さんは理不尽さに声を荒らげた。まっすぐに胸を打つ、正しい怒りだった。
「もしかして、普段からこういう事はあるのか?他に何か、嫌なことをされたりは」
「あー、うん。そこまででは…昨日は特に運が悪かっただけ」
言葉を濁しているが、虐待を疑っているんだろう。これに関しては、殴られる等は本当になかった。物を捨てられるとか飯抜きなどが基本だ。あとはやり方を強制しておいて僕がその通りにやって失敗したら、全部僕が悪いことにされるのが毎度お決まりの流れだ。
もう好き嫌い以前に面倒で疲れる。あの人が謝ったところを見たことない気がする。
お兄さんは僕の返事の続きを、本当はどうなのかを待ってくれている。でも僕は巻き込む気にはなれなかった。
そんな重い空気の流れを切るように、お兄さんは笑顔で話し出した。
「もう!先に風呂入って飯にしよう!ゆっくりしていけばいい。少しは心配させてやれ。
オレは迫水辰。改めてよろしく、マサキ。
ところで、食べられないものあるか?焼きそばって好き?」
「ない!焼きそば食べる!」
腹ペコの僕は最高に勢いよく返事をした。