Rルート
右のドアを選んだ場合。
ぬるま湯の中で溺れるような感覚。
夢と知りながら、心地よい温かさとわずかな息苦しさを感じる、目を覚ますまでのわずかな時間。
早く目を覚まして息苦しさを終わらせるか。
まだ夢の世界で温かさに浸っているか。
まだ、起こさないでほしい。
もう少し眠っていたい。
……けれど、息苦しい。
ああ、もう、うるさいな。
誰かの呼ぶ声に、仕方なく目を覚ますことにする。
そう、決意したことで、《俺》ではない誰かは、ホッとひと息ついたみたいだ。
ふと、《俺》を呼んでいた誰かに、突き飛ばされるように離れていく感覚。
おい、ちょっと、待ってくれよ。
呼び掛けても、応えはなく。
ただ、急速に、落ちていく感覚。
夢の世界から、現実へと。
落ちていく。
呼び掛けてくれていた誰かは、昇っていく。離れていく。
安堵したように、昇っていく。
光差す方へ。
逆に《俺》は落ちていく。
光差す方へ。
今日のところはさようなら。
また、会うときまで。
・・・
・・
・
目が、覚める。
視界には、白い天井。
ここがどこか、しばし呆然として……。
「おはようございます、市川さん。私が分かりますか? 指何本立てているか見えます?」
「……えっと……」
ああ、そうか。
おれは、市川 順一。
三十代男で、社会人で、一人暮らしで家族はいない。
いつも通りに出社して、一日を終えて帰宅中に、刃物を持った男が暴れていて、とっさに小さい子供をかばって刺されたんだっけ……。
……あー、意識したら、身体中痛くなってきた……。つらい……。
「市川さん、大丈夫ですか?」
……大丈夫ではないです……。
むっちゃ痛くて泣きたいです。
※※※
目が覚めてしばらく経ってから、担当の医師が病室を訪れる。
手術は成功。今日は時間外ということで、翌日以降に検査をするという話だったが……。
当時の様子を思い出してみれば、なんで生きてるかよく分からないくらい刺されたはず。
しかし、現に俺はこうして生きてるわけで。
……正直、今のこの状況が、今際の際の妄想と思えて仕方がない。
「……執刀医が言うには、傷は、命に関わる深いものもいくつかあったそうですが、全体的に見ると浅いものが多く、内臓を始め危険な箇所は刺されていなかったそうです。その代わり、急所をかばった左腕はズタズタで、握力が戻るかどうかはリハビリの成功にかかっているそうです」
……リハビリ。どれくらいかかるのだろうか? 仕事、あんまり長くは休めないんだけどなぁ……。
「ひとまず、明日以降の検査とその結果次第です。では、お大事に」
そういって、疲れた様子の男性医師は去っていってしまった。
ろくに身動き取れない状態では、寝るくらいしかやることがなく。
「……ああ、会社に、連絡…………くかー……」
のんきにイビキかいて寝てしまった。
翌日以降は、検査したり会社に電話したり警察が来て話をしたりリハビリを始めたりと、バタバタとした日々を過ごす。
仕事の方は、なんとか代理を確保して進めているそうだ。
……そりゃあ、三週間も意識不明となれば、その間仕事を止めるわけにもいかないから、どうにかして代理を立てないといけないだろう。
……あー、会社には悪いことしたな……。
戻ったとき、居場所があればいいんだけど……。
まあ、無きゃあ無いで、身軽な独り身。適当に仕事を探すしかない。
片腕がダメなままなら、あまり腕を使わないような仕事とか探さなきゃならんか……。はぁ……。
コンコンと、ノックの音で現実に引き戻される。
失礼しますの声に、どうぞと言いつつはてと首をかしげた。
食事の時間ではないし、検査とかの予定もないのに、なんの用事だろう? と。
「こんにちは、市川さん。私はこういうものです」
○○建設常務取締役 東城 茜
……うん、家族経営してる親会社の偉いさんじゃないですか。
そんな人が、なにゆえ?
「本来であれば、当人とその家族が来るべきところですが、代理の挨拶で失礼します。
この度は、姪の命を救ってくださり、感謝いたします。感謝の意を伝えることが遅れてしまい、誠に申し訳なく……」
三十路手前に見える親会社の偉いさんが深く頭を下げるのを見て、慌てて止めようとして、まだ包帯ぐるぐる巻きの左手が強く痛む。
「だ、大丈夫ですか? 今ナースコールを」
心配ない、の言葉をなんとか捻りだし、痛む左手に触られるのをなんとか防いだ。
「あ、も、申し訳ない……です……」
「いえ、お気になさらず」
怪我人が、それも、少し前まで意識不明の重体だった人が突然苦しみだしたらどうするか。その気持ちも分かるので、心配する気持ちだけ受け取ることにする。
「ところで、親会社の常務さんが、どういったご用件でしょう?」
「姪を救ってくれたことの感謝と、お見舞いです」
そういって微笑む常務さん……東城さんは、茶封筒を差し出してくる。
ご確認くださいといわれたので、なんの気なしに中身を確認すれば……小切手? 額が空欄の小切手だった。
「どうぞ、好きな額を。……もっとも、限度はありますが、そこはこちらで頑張らせてもらいます」
グッと両手を握りしめて鼻息荒くする年下の女性相手に、しばし、彼女の顔と小切手を交互に見て、ボソリと本音が漏れた。
「…………金より、こんな紙切れより、……その、………… 」
やっべ、今の聞こえなかったよな?
これじゃまるで、関係を強要しているみたいだ。
親会社の偉いさんに、しかも、若い女性に対して言っちゃあならんことを呟いてしまった。
どうしたものかと東城さんの顔を見上げてみれば、
「…………ぇっ? …………ぁ、………… …………」
なんと、顔を真っ赤にして、セクハラ発言にイエスを返しちゃったよ。
あかんて、そこは難聴系ヒロインを演じようよ。なんか言いました? でいいんだよ。
「……あ、あの……。ふつつか者ですが……。仕事人間の行き遅れですが……。めんどくさい喪女ですが…………。こんなんでよければ………… …………」
もしもーし、大丈夫ですかー?
いやまあ、俺もさ、一目見たときからきれいな人だなとは思ったけどさ。
左手がこんなんじゃあ、抱き締めることもできないですよ?
「……えー、では、まずは、お知り合いからってことで、よろしい?」
リハビリして、ボロボロの左手が元気になったら、本格的にお付き合いしましょうかね?
……その際はぜひ、そのおみ足で踏んでもらいたい。
…………つったら退くかな?
ジョークとして笑い飛ばしてもらいたい所存。
三十過ぎて魔法使いになった俺氏。女豹な年下上司に捕まりましたとさ。
……まあ、その年下上司、二人きりのときは子猫ちゃんになってくれるのですが。