おとなりさんは魔法使い
「よし、ルネ! 今日からお前をおれの弟子にしてやるっ」
ふんぞり返ってぼくの鼻先に指を突きつけてきたのは、隣に住むニコだ。くるくるした茶色の髪の毛の下で、大きくて力のある緑色の目がきらきらしてる。
ぼくはとりあえず、竿から取り外した洗濯物を「どっこいしょ」とかごの中に移し、問い返した。
「ごめん、ニコ。なんだって?」
「だーかーら! お前をおれの弟子にしてやるよ、ルネ! お師匠様が今回の仕事から戻ってくるまで、暇だしな!」
「……あー、なんの弟子?」
「もちろん、魔法だ!」
ニコは得意げに、腰に手を当てて胸を反らせた。
そうだと思ってたよ。うっかりそう言ったらきっとニコはむっとする。だからぼくは黙っていた。ニコはそれで満足したらしい。
さっそく『塵を集める魔法』を教えてくれると言いだしたが、ぼくは洗濯物を取り込むことを口実に、家に避難することに成功した。
正直なところ、ぼくはあの子が苦手だ。
× × × × ×
うちのお隣さんは有名な魔法使いだ。
クラウス・クラーヴェといって、国を代表する大魔法使いとかなんとか。でもちょっと変わり者で、こんな田舎の村に小さな家を構えている。有名人なんだから都でおっきなお屋敷に住めばいいのにとぼくは思う。
そのお隣さんは、ときどき思い出したように、村の学校に魔法の基礎を教えにくる。魔法使いには、魔法の才能のある子供を発掘する義務があるんだって。最近法律が変わって、魔法使いの登録をしている人たちは、そういうことをしなきゃいけなくなったんだってさ。昔は義務じゃなかったんだ。
そしてお隣さんは少し前、弟子をとった。都出身のニコという名前の、十歳の男の子だ。魔法には才能が必要だけど、ニコにはそれがあるという。ニコ本人がそう自慢していた。
ぼくはニコが苦手だ。それは別に、背中に毛虫を入れられたからじゃない。ああいう強引な子が苦手なだけ。その強引なのに逆らうと、面倒なことも知っている。そっちのほうがよけい嫌なので、だいたいのことをぼくは受け入れていた。はいはいと従ってしまったほうが、楽な人生を送れるのも知ってるんだ。
だから、ニコがぼくを弟子にしたときも、逆らわなかった。どうせ、あの子のことだから、あしたになれば忘れていると思ったから。
× × × × ×
馬鹿でかいノックの音で、ぼくは目を覚ました。部屋は薄暗い。寝ぼけまなこをこすりつつ、カーテンをめくると、窓の外はまだ夜明け前だった。
そのまま下を見る。玄関のドアを叩いている小さな影が、うっすら見えた。
……いやな予感がするなあ。
そのままちょっと待ってみたけど、ノックは止まなかった。
仕方なくぼくは一階まで降りて、玄関横の小窓から、顔を出した。
「ルーネーっ、いつまで寝てるんだ! 修行だ修行!」
寝巻き姿のニコだった。寝癖だらけの頭だ。なんでか枕を抱えている。
ぼくがしぶしぶドアを開けてあげると、ニコは遠慮もなくずかずかと上がりこみ、階段を登った。
そのさきはぼくの部屋だ。さっきまで寝てたぬくぬくのベッドがある。
「ねえニコ、寝間着でなんの修行するの?」
思わず、あくびがもれる。
ぼくの質問に、ニコはにかっと笑った。勝手にぼくの部屋にも踏み込む。
「今から『よく眠れる魔法』の修行をする!」
宣言すると、ニコはぼくのベッドに転がり込んだ。枕を抱えて丸くなって、
「寒いから早くしろ!」
と、怒った。毛布をかけろと言わんばかりに、手でベッドを叩く。
ぼく知ってる。こういうの、理不尽って言うんだ。
渋々、ぼくは狭くなってしまったベッドの半分に寝転んだ。
「ルネ、お前はかーちゃんもとーちゃんもいないだろ」
ぼくは頷く。ぼくはこの家でひとりで暮らしているのだ。
「そういう奴のために『ぐっすり眠れる魔法』がある」
「さっきは『よく眠れる魔法』って……」
「細かいことはどーでもいいんだよ! とにかく! こうして枕を抱えて、目を閉じてだな……」
言われるとおりにして、少し。隣からすぴすぴと寝息が聞こえ出し、ぼくはため息をついた。
……どうせこんなことだと思った。
以前、お隣さんから聞いたこと。ニコが恐い夢を見て泣くんだって。だからもし、ニコが一人のときに寂しそうにしていたら、遊んでやってとさ。でもそういうのって、ぼくじゃなくてお隣さんの仕事なんじゃないのかなあ。夢見をよくする魔法とか使えばいいのに。
ふと見ると、ニコが肩を出していたので、毛布を掛けてやった。するとニコはくすぐったそうに身じろぎした。幸せそうな寝顔。
いつもこんな風に静かならいいのに。ぼくのため息は、ニコの寝息より小さい。
結局そのままぼくは起きだして、洗濯物を干し、朝ごはんの支度を始めた。飼っている鶏が産んだ卵を二つ焼いて、ベーコンとチーズ、レタスと一緒に、買っておいたパンに挟む。ありあわせの香草でスープも作った。
支度が終わるころ、匂いをかぎつけたのか、二階から、だだだだだっと大きな足音が聞こえてきた。
「おお! さすがおれの弟子! 美味そう!」
「これはぼくのだよ。ニコは自分の家で、自分で作ってよ」
「馬鹿、なに言ってんだよ。弟子が師匠のご飯を作るのは当たり前だろ!」
師匠らしいこと、何一つしてないくせに。
そう思ったけれど、口には出さない。
どうせこうなると思って、あらかじめ二人分作っておいた。
やたら上機嫌でせっせと料理を口に運ぶニコを見て、ぼくは複雑な気分だった。
まさか、毎食、ぼくにたかりにこないよね。
× × × × ×
ご飯を終えると、いったん、隣に戻ってニコは服を着替えてきた。
「学校行ってくる」
別に報告なんかしなくていいのに。
なんとなく見送ってると、ニコが走っていく道の途中で、別の子とすれ違った。ニコと同じ十歳のミマ。あの子は学費が払えないから、学校に行けない子。
ニコみたいに、村の誰もが学校に行けるわけじゃないんだ。お金や両親の仕事や自分の病気、いろんな理由がある。ぼくだって学校へは行ったことがない。読み書きもろくにできない。
たまに、学校ってどんなところなんだろうと思い描くことはあるけれど……ニコみたいな子がいっぱいいるんだとしたら、行かないほうが幸せかもしれないとは思う。疲れそうだし。
ニコは学校でどんなことをしてるんだろう。あの子のことだから、きっと、魔法が使えることを自慢して、たくさん子分を作っているんだろうなあ。
やっぱりあんまり、関わりたくないなあ、と結論して、ぼくは洗った食器を片付けはじめた。
裏の家畜小屋で羊が鳴いている。餌をやる時間だった。
× × × × ×
夕方、いつものように洗濯物を片付けているぼくの前に、ニコが現れた。
また何か面倒ごとかなとぼくは身構えたが、ニコの顔を見て驚いた。
あのニコがしゅんとしていた。半ズボンからのぞくむき出しの膝小僧が擦りむけて、血が出ている。顔にもあざがあった。
けんかだ。きっとそうだ。
「ニコ、血」
なんて言っていいのか分からず、ぼくはとりあえずありのままに伝えた。
「知ってる!」
ニコは怒った様子でそう言うと、ずんずんと自分の家に歩いていってしまった。
ぼくは包帯と消毒薬を持って、家を出た。
「ニコ、ぼくだよ、開けて」
お隣の玄関をノックしても返事がない。心配になって、玄関の横にある窓を覗き込もうとしたとき、
「何してんだよ……」
不機嫌そうなニコの声がした。玄関を少しだけ開けて、ぼくを睨んでる。
「ニコ、さっき、怪我してたみたいだから」
「こんなの平気だ!」
うそだ。ニコは泣きそうな顔をしてる。
ほっぺの腫れをみれば、どれだけ痛いかぼくでも想像できた。
「薬持ってきたんだよ、手当てしなきゃ」
「いらねーよ。おれ、魔法使いだもん。自分で治す」
「じゃあ、ぼくはニコの弟子だから、魔法使うところみせて」
ニコは一瞬、言葉につまったけれど、すぐに頷いてくれた。
玄関の中に入ると、がらんとした広間があった。うちよりずっと広い。ここで、一人でいるのは寂しいだろうなあ。
ニコはソファの上に座ると、どこからか分厚くて大きな本を持ってきて、テーブルの上に置いて開いた。
そこに記してある文字を、指で追っていく。もちろんぼくは読めない。
「あった。これが『治療』の魔法だ。えっと、呪文は……、『慈悲の乙女よ、我の呼び声に応えて癒やしの歌声を響かせ給え』だ」
魔法使いは古代の言葉で呪文を唱える。不思議な韻を踏んで呪文を唱えるニコは、なかなかかっこよかった。でも、彼が手をかざした膝の怪我は、少しも変化しない。けっこう血が出てて、見てるぼくまで痛くなってくる。
ニコはもう一度呪文を唱えた。やっぱり、変わらない。
「じゅ、呪文が高度すぎたんだな」
そういいながら、別の呪文を探すためか、ぱらぱらと本をめくりだす。
「ニコ……」
「なんだよ! だからこのくらいの怪我なら、おれが魔法で治すから大丈夫だって!」
「うん、あのさ、ぼくにもやらせてさっきの」
「へ?」
ぽかんとした顔をして、ニコが手を止めた。
「教えてくれるんでしょ、魔法」
「そうだけど……、あれは難しい魔法で」
「そうなんだ? じゃあぼくには無理かあ」
「じゅ、呪文だけなら教えてやってもいいぞ。いいか『慈悲の乙女よ、我の呼び声に応えて癒やしの歌声を響かせ給え』だよ」
「すごいね、ニコ。一回だけで覚えたの?」
「これくらい、魔法使いなら当然だ」
胸を張って、ニコは得意顔だ。
ぼくはニコを真似して、膝小僧の上に手をかざし、呪文を唱えてみた。
「えっと、『慈悲の乙女よ、我の呼び声に』……?」
「『慈悲の乙女よ、我の呼び声に応えて癒やしの歌声を響かせ給え』だってば」
『慈悲の乙女よ、我の呼び声に応えて癒やしの歌声を響かせ給え』
長い呪文を一気に言い終える。
血が吹き出ていた膝が、ふわっと緑色に光ったかと思うと、しゅわしゅわ不思議な煙が出た。そしてあっという間に煙は消えて、そこにあったのはつるんときれいになったニコの膝だった。
「治った……」
ニコがつぶやいた。
緑色の大きな目がゆっくりぼくの顔に向けられる。そして、弾けるような笑顔になった。
「すっげー! おれ、すっげー!」
「え?」
なんでぼくじゃなくて、君がすごいの。
ぼくの前でニコは、もう片方の膝の痛みも忘れたように、跳んではしゃいで叫んでいた。
「一流の魔法使いは、一流の魔法使いを発掘できるんだって師匠が言ってた! おれ、ほんとうにすごい魔法使いじゃねえ? 師匠が帰ってきたら報告しなきゃっ」
なんだろそれ、よくわかんない。
ただ、とりあえず、ニコの元気は戻ったようだった。
「よし、魔力の発見祝いだ! ルネ、お前に夕飯を作る権利をやろう!」
「ええー。いらないよ、そんなの。あとぼく魔法使いとか興味ないから、お師匠さまに報告しないでいいからね」
「うるさい、弟子は師匠の言うことを聞け!」
もういつものニコだった。
ぼくはちょっと後悔した。余計なことをしてしまった。もう少し、静かなまんまでもよかったかもしれない。
× × × × ×
翌日も、ニコはご機嫌で学校へ向かった。残りの怪我は、ニコ自身がなんとか他の魔法で治したので、今日はもうぴんぴんしている。
それと、昨日は夜中にぼくの家に押しかけてくることもなかったので、それもよしとする。
ニコが飛び跳ねながら学校へ向かうのを窓から見送って、ぼくもそっと家を出た。
前を歩く、エーシャに声をかける。彼女も、今から学校へ行くはずだ。
「おはよう、エーシャ」
声をかけると、エーシャははにかんで笑った。お下げを二本垂らした、大人しい感じの女の子だ。
「おはよう。どうしたの、ルネ。今日は羊さんのお世話しなくていいの? あたし、これから学校なんだけど……」
「あのね、ちょっと聞きたいことがあるんだ」
「なあに?」
「昨日、ニコ、誰かとけんかでもしたの? 怪我して帰ってきたの」
エーシャは、まわりをきょろきょろと見回して、ちょいちょいとぼくに向かって手招きする。耳を貸せ、ということらしい。
「あのね、昨日、シルヴァンがね、ニコに酷いこと言ったの。お前は、お父さんとお母さんに捨てられたんだって。魔法使いに買われたんだって。そしたらニコが怒っちゃって」
「……あー、それは怒るね」
「でしょう? まったく、シルヴァンったら、自分がニコよりお勉強ができないからってひがんじゃってみっともないんだから!」
エーシャは腰に手を当ててほっぺをふくらませた。
「ニコって、お勉強できるの?」
「学年でいっつも一番よ! すごいんだから! 毎日、図書館でお勉強もしてるのよ。きっと、将来は有名な魔法使いになるんだわ」
そういうエーシャの目は、きらきらして、どこか遠くを見ていた。……女の子って、よくわからない。
「あ、ごめんね、ルネ。もう行かなきゃ!」
「ありがとう、教えてくれて」
小走りに去っていくエーシャに手を振ってから、ぼくはあごに手を当てた。
シルヴァンは、川下の地主の子。いっつもいばっていて、ぼくからしてみれば、ニコと同類。でも、エーシャの話が本当なら、シルヴァンはニコよりずっとたちが悪い。
ニコだって、お父さんやお母さんに会いたくないはずないのに。
昨日の明け方、寝間着のままうちに来たニコを思い出す。なんとなく、シルヴァンにむかって「馬鹿」と言ってやりたくなった。
× × × × ×
その晩、ダンダンと玄関を叩く人がいたので、つくろいものをしていた手を止めて、ぼくは下の階まで降りていった。
扉を開けると、満面の笑みのニコがいた。ああ、嫌な予感がする。
「よっ。今、暇?」
「暇じゃないよ。靴下縫ってる」
「そっか、よかった、ちょっと付き合えよ!」
ぼくの話を全然聞いていない。そもそも聞く気が無いんだ、きっと。
とりあえず、ランプの火を消して玄関の鍵を掛けて、ぼくは家を出た。庭先で、ニコが待ちきれないといった様子で足踏みしてる。
「ねえ、どこ行くの?」
「いいところ!」
そういうの、具体性を欠く、っていうんだ。
夜風はさすがに冷たくて、上着一枚を着込んだだけのぼくは、すぐに鼻水が垂れてきた。
ニコがぐいぐいひっぱる手だけがあったかい。反対側の手の甲で、こっそり鼻水をぬぐった。
この時間になると、村の人たちはほとんど家から出ない。野犬がでたり、危ないからだ。
それなのに、ぼくらは今、カンテラさえ持たずに歩いている。
川にかかった小さな橋を渡るところまできて、ぼくはニコがどこへいこうとしているかわかった。
「もしかして、図書館行くの?」
「そうだ」
この先には、領主様が個人の趣味で作った図書館がある。本はとっても高価だから、普通の人は買えない。それを、領主様は買い集め、魔法使いや学校の先生、学者さんなんかに限定して公開してくれている。
ニコは魔法使いのたまごだから、きっと図書館の利用を許可されているのだ。
「この時間じゃ閉まってるんじゃないかな」
「いいんだよ!」
何がいいんだろう。
嫌な予感が、ものすごーく強くなる。
たどりついた図書館は、ぼくの家の十倍はあるだろう大きさの建物で、敷地にはきれいに整えられた植木が沢山あって、そのまわりを背の高い鉄の柵が囲んでいた。
「よし、行くぞ!」
「行くって、どこへ? 入れないよ、門が閉まってるし」
「こっちに抜け穴があるんだ」
嫌な予感は的中だ。
「ニコ、それは止めておいたほうが……」
「師匠に逆らうのか!」
「そうは言っても……」
鉄の柵には、腐食して支柱の何本かの地面ちかくが折れて抜けている部分があった。植木に隠れて見えないようになっている。ニコはするするとそこから敷地に滑り込む。
「早く!」
せかされて、嫌々ぼくもその柵の下をくぐる。ズボンのベルトが柵にひっかかって、もたついてしまった。そんなににらまないでほしい。ますます気分が重くなる。
図書館の入り口の扉には、鎖がかけられ、錠がついていた。窓も全部閉まっている。
「ほら、中には入れないよ」
「『すべての錠前は、暗闇の使者に屈服する』っ! 解錠!」
きらっと光った錠が、あっさり外れ、ごとんと重い音をたてて床に転がった。
得意げな顔をしてニコが鎖を外していく。
「ニコ、流石にまずいよ」
「まずくない」
なんでそんなに頑ななんだろう。ニコはたしかに強引な子だけど、いつもはここまで無茶しないのに。
ぼくは不思議に思いながらも、ニコにくっついて図書館に足を踏み入れる。真っ暗な館内は、ひっそり静まり返っていて、不気味だった。
並んだ本棚で見通しが悪くて、そこここの濃い影におばけがいるんじゃないかと不安になる。
ニコはずんずん歩いて奥の部屋にたどりつき、そこも玄関と同じ魔法で開けてしまった。
「魔法書の部屋だぞ」
「そんなのニコのうちにもいっぱいあるでしょ」
「こっちだ」
ニコは部屋に踏み込んだ。やっぱりぼくの話は聞いてない。
部屋は小さく、壁一面に作られた棚には、古く湿った紙の匂いがする書物が並べられていた。
鎧戸のわずかな隙間から差し込む月の光が、部屋の中を照らし出している。棒状のものが、部屋の真ん中に突き立っているのが、ぼんやり見えた。短冊みたいな薄っぺらい紙がまきつけられている。ニコはそれに手を伸ばした。
「駄目だよニコ。これって、封印じゃないか」
お祭りで神様に奉納したものは、こういう紙に魔法使いが呪文を込めて封印する。神様が触れたものには大きな力が宿るから、そのままにしてはいけないのだ。子供でも知っていることだ。
だけど、ぼくの声は少しだけ遅かった。
ニコは封印ごと棒を掴んで、床の金具から引っこ抜いていた。
「はは! やった! これな、一瞬で遠くへ行ける神器なんだよ。レポテの杖って言うんだ。すっごく貴重なんだぞ」
「そんなものどうするの。早くもとに戻さなきゃ」
「かーちゃんと、とーちゃんに会うんだ」
ぼくは、言葉に詰まった。細い月明かりに照らされた、ニコの目元は泣き出しそう。
「か、かーちゃんととーちゃん、おれが魔法使いの素質があるって聞いたとき、喜んでくれたんだ。だから、師匠が弟子にって言ってくれたときも、喜んで送り出してくれたんだ。絶対そうだ」
「そうだよ、きっとそうだよ」
そうだと言っているのに、その杖を放さないのは、ニコがとても傷ついているからだ。シルヴァンの馬鹿。顔を合わせたことも、ほとんどない子を心のなかでののしった。
「ニコ、わかってるんだから、いいじゃないの。その杖は必要ないよ」
「嫌だ! 確かめるんだ!」
ニコが怒鳴ったときだった。
空気が、ぐっと重くなった。まるで中心にいるニコに引っ張られるみたいに。
それは勘違いではなかったみたいだ。
本棚が、格子窓が、天井から吊るされた燭台が、がたがた揺れだし、本棚から本たちが飛び出してきた。
「うわあ!」
ニコが悲鳴をあげる。その手の中にある杖が、強烈な赤色の光を放って、部屋中を照らしていた。杖はそれ自体が生き物のように震えている。封印の紙が、炎に焼かれたようにぼろぼろと崩れ落ちていく。
「ニコ! 杖を離して! あぶないっ」
「で、できないよ! 離れないんだ! あ、わああ!」
宙に舞った本がニコに――ニコの持つ杖に殺到した。鳥の羽ばたきに似た音を立てて、紙がぼくの背中や頭を打ち据える。
部屋の壁に塗られた漆喰が、赤い光が触れたところから、ぼろぼろとはがれはじめていた。
ぼくはニコに飛び掛った。
「ルネ! 助けてっ」
ぼくは背後から覆いかぶさるようにして、彼の小さな手を上から握りこんだ。がっちり杖を握り締めた細い指を、無理やり引っぺがす。
そして、彼の耳元で叫んだ。
『静まれ! 鎮まれ、ここは人界、我らの領土っ』
杖から発されていた赤い光が、一瞬動きを止め、急速に収束する。猛烈な圧力が、ぼくの両手にかかった。ニコが小さく恐怖の悲鳴を上げたのが、聞こえた。
やがて、ふっと杖の震えが収まり、宙に浮いていた本がばさばさっと床に落ちた。
沈黙が部屋を支配する。聞こえるのは、ニコの荒い息づかいだけだ。
ぼくが杖からはがした手を放すと、ニコはへなへなと座り込んだ。
びっくりした顔で、ぼくを見上げてくる。
「ルネ……、魔法使えるの?」
ぼくはエーシャのように腰に手を当てて、大きくため息をつくと、杖を元の位置に戻した。そして、人差し指をたてて、呪文を唱えた。
ふわりと浮いた本たちが、もといた棚に戻っていく。はがれた壁の漆喰がするすると張り合わされる。
ついでに、指先に灯りを灯してみた。
「怪我は無い? ニコ」
しゃがみこんで、ニコの目線に自分の目線を合わせてると、ニコの緑色の目にみるみるうちに涙が盛り上がり、こぼれた。
ぎゃんぎゃん泣くニコは、ぼくの胸に鼻水をなすりつけながら、ひしっと背中にしがみついた。ぼくは正直、こんな面倒はごめんだったが、放置するわけにもいかないので、そのまま「どっこいしょ」と彼を抱き上げた。
きっと明日、杖の封印が解けている! と大騒ぎになるんだろうけれど、知らんぷりすることにした。
× × × × ×
「それで君は、ぼくが君の師匠だってことを、ニコに話してなかったわけだ。それどころか、ぼくが魔法使いだってことも。どうりでニコが変に絡んでくるよ。ごっこかと思って適当に合わせてたら……まったく」
「だって師匠、何度言っても魔法使い登録拒むから、正式に私の師匠だって紹介できないんですもん。おまけにこんな田舎に隠居しちゃうし。まだ若いのに」
「嫌だからね。魔法使いだってばれると、いろいろ面倒だし。義務ばかりの法改正とか最悪だよ。それに魔法使いのコミュニティも学歴主義が横行してて、ぼくみたいな無学の人間にはいづらい場所なんだよ」
「国一と言われたルネ・アイオーンが、魔法使いの義務まで放棄して。ああ、嘆かわしい」
「弟子をないがしろにしている君のほうが、嘆かわしいよ、ぼくは」
「ないがしろになんかしてませんよ、これ以上ない面倒見役に任せて出張したんですからね」
「引き受けた記憶ないのに」
紅茶をすすりながら、ぼくはテーブルを挟んで座ったクラウス・クラーヴェを睨んだ。クラウスは肩をすくめてやり過ごすつもりみたい。
腹が立つが、クラウスは容姿にも恵まれている。金の髪に青い目、すっと通った鼻梁から、美貌の魔法使いだなんて二つ名まで持っている。
ぼくなんて、茶色の髪に茶色の目という、いかにも農民な見た目だ。着ているものも、クラウスみたいなローブじゃなくて、よれたシャツにズボンという模範的な農民の服。
おかげで、この村に越してきて七年、ひとりとしてぼくを魔法使いだと見破ったものはいない。多分、皆、ぼくのことは農夫かなんかだと思っているんだろう。
「しかし、ニコには可哀想なことをしました。あの子は人一倍努力家なんですよ、あれでも。手もかからないし。だからすっかり忘れていました、やっぱり親が恋しい年頃ですよね。これからは定期的に都につれていってあげようと思います」
「そうしてよ。また食事をたかられたり、寝床に潜り込まれるのはやだ。神器を持ち出したときは泣きたくなったよ」
「ははは、すっかり気に入られましたね」
笑い事じゃない。面倒はごめんなのだ。ぼくはひっそり生きていきたい。
そうこうしているうちに、騒々しい足音が外から聞こえてきて、勢い良く玄関が開いた。
「お帰り、ニコ。学校はどうだった」
「あ、師匠! おかえりなさい! ……と、師匠の師匠!」
「ルネでいいから」
訂正すると、ニコは素直に頷いて「わかった、ルネ」と笑った。
「今日は新しい呪文、教えてくれるんですよね! 何の呪文ですか!」
「その前に、荷物を置いてきなさい。おやつを用意してあるから」
「はい! あ、ルネ! ルネも違う呪文教えてくれよな! 師匠命令だかんな!」
ニコは顔中を笑顔にして、階段を駆け上っていった。
それより、師匠命令って。ぼくが自分の師匠の師匠だってわかってるのかな、ニコは。
渋い顔のぼくにクラウスが追い討ちをかける。
「そういえば、師匠。私、来月からまた出張なので、ニコのこと、よろしくお願いします」
「嫌だよ。君がニコと同行してよ。ぼくは隠居の身なんだから」
「それはできませんよ。仕事ですし」
「師匠命令!」
「それじゃあ、師匠の師匠であるニコから命令してもらいましょうか」
「あのね、クラウス……」
ぼくが額に手を当ててうつむいたとき、
「師匠、呼びましたっ?」
ぼくの師匠が二階からひょっこり顔を出して、満面の笑みを浮かべた。
〈了〉