二枚の振袖
「わわっ! 遅刻遅刻っ!」
天井からの転がるような足音に、おにぎりを作る手を止めて振り向く。
「今日、1限から、なのにっ!」
これ以上遅刻したら、単位がもらえない。焦りを見せる、櫛を入れていない髪に、用意していた二食分の弁当の包みを渡す。包みを受け取ったこの家の娘、楓は、一言も無く玄関先の四角い車に飛び乗った。
毎日毎日、大変だこと。忙しなく飛び出す小さな車が出す灰色の煙に微笑む。それでも、楓を起こさない蘭に怒らないのは、良い傾向。互いに要らぬお節介を焼かない。取り決めたわけではないが、蘭がここに来たときからなんとなく、それが楓と蘭との間のルールになっている。楓の父、義春の新しい妻だと間違えられて睨まれた初対面よりはましになっている。遠くになった車の音に、蘭は再び微笑んだ。
中断していたおにぎり作成に戻るために、おにぎりを置いている皿に目を落とす。明らかに減っているおにぎりの数に、蘭は小さく息を吐いた。桃だ。台所の作業用テーブルの下から皿へと手を伸ばす小さな手に、蘭は小さなおにぎりを手渡した。
身体はまだ小学校に上がる前だが、桃は本当によく食べる。再び上がってきた小さな手におにぎりを乗せてから、炊飯器の中を確かめる。朝御飯に食べてしまったら、昼御飯用のおにぎりは無い。小麦粉があるから、ふくらし粉を少しだけ混ぜて、お昼はホットケーキを作るか。お腹がいっぱいになったらしく、この地へ来て一日目に蘭がタオル地で作ったうさぎの縫いぐるみを抱いて縁側に横になった桃に、蘭は今度は大きく微笑んだ。
おにぎりで腹ごしらえをしてから、家の横にある土壁の蔵へと足を運ぶ。
蘭がこの家に来た理由は、楓の成人式の着物を探すため。楓の母、苑の実家であり、苑とその夫である義春が受け継いだこの家に、苑が成人式の時に着た着物が眠っている。その着物を着て、成人式に行きたい。楓の願いを受けて、蘭はこの場所にいる。そして、もう一つ。この家を手放したいという、苑の夫、義春の願いも、蘭は引き受けた。
最愛の人との思い出が詰まっているからこそ、持っていたくない。その気持ちは、分かるつもりだ。薄暗く、しかし乾いた蔵の一階に並ぶ本棚を探りながら息を吐く。この、父から譲り受けた本を、苑は大切にしていた。蔵の奥にある、母から譲られた、一つだけの桐箪笥も。これらを全て『処分』するのは、思っていたよりも大変だ。小さく首を横に振ると、蘭は指だけで本棚を探った。
今日探すのは、アルバム、またはそれに類するもの。苑の桐箪笥には、振袖が二枚入っていた。一枚は、紺地に華やかな小花を散らしたもの。もう一つは、桜色の地に、それよりも濃い桜の花を散らしたもの。どちらも金糸の刺繍や金属箔が入っており、若い女性が着るに相応しいもの。苑は一体、成人式にどちらの着物を着たのだろう? その答えを得るためには、苑の、成人式の写真が必要。しかしながら、家のどこを探しても、苑の成人式の写真は見つからなかった。苑の夫、義春が処分するわけがないのだから、あるとしたら、この、歴史書が多く見える混沌とした本棚の間のみ。舞い上がる埃にむせながら、蘭はゆっくりと、本棚を探った。だが。
「うーん……」
蔵の端から端まで探っても、それらしきものは見当たらない。直垂と四幅袴の上に袖無しの被布を被っただけの軽装なのに熱くなってしまった身体を冷やすように、蘭は土の壁に身を預けた。
苑は、自分の写真を残さなかったのだろうか? いつまで経っても十八のままだから、蘭も、写真を撮られるのはあまり好きではない。苑も、写真が嫌いだったのだろうか? 二、三度しか会ったことのない顔を思い出し、蘭はもう一度唸った。
その時。蘭の足下で、何かがことんと落ちる。その音に誘われるように下を向くと、いつの間に居たのか、土間の床に座り込んだ小さな少女、桃が、埃を被った本の、分厚い表紙をめくって遊んでいた。
「あらあら」
蘭を見上げた桃の、どことなく苑に似た顔についた埃を、被布の裾で優しく拭う。そして。桃が目を落とした分厚く見える本の頁に、蘭の瞳は激しく瞬いた。
「これは」
蘭が目にしているのは正しく、アルバム。セーラー服を着た苑の古ぼけた写真が、蘭に向かって微笑んでいる。
桃の横に腰を下ろし、アルバムをめくる。……あった。黒っぽい振袖を着た苑が、成人式の会場らしい大きな建物の前で微笑んでいる。苑が着た着物は、紺地の方。答えを見つけ、蘭はほっと息を吐いた。