眠れぬ夜のお客さま
追いかけてくる。追いかけてくる。
都会の喧騒の隙間を縫って、巧妙に蜘蛛の巣をはりめぐらせて。だからマヤは走るのだ。もっと速く、もっと遠くへ。
早く逃げなきゃ……あれが来る。
息がすっかり上がってしまうほど駆け続けたマヤは小さなT字路を曲がったところで電柱に手をついた。水銀灯がぽつんと照らす狭い道には人気がなく、しんと静まり返っている。犬の呼吸に似たマヤの荒い息づかいだけが鼓膜を震わせる。
助かったんだ。私は、逃げのびたんだ。
安堵の笑みを浮かべたマヤの背後、曲がり角に凝った暗闇から細い手が音もなく伸びてマヤをつかまえた。恐怖と絶望にこわばるマヤの耳に吹き込まれる、それはそれは楽しげなあれの声。
「みいつけた」
「――……っ!」
腹にかかっていた布団を跳ねのけるようにして起き上がる。
かすかに震える手を眺めながら、マヤは安堵のため息をつく。壁にかかった時計の針は一時半を指していた。寝付いてから数時間しか経っていない。今はまだ夜が底へ向かう時間帯だ。
ベッドからそっと抜け出してキッチンへ向かい、やかんで湯を沸かす。円筒状の缶から最後の一袋を取り出し、お気に入りのマグカップに封を切ったティーバッグをおろす。湯をそそぎ待つこと数分。八分目まで注いだ湯が濃いはちみつ色になるのを待てば完成だ。
太陽をたっぷり浴びた干し草に華やかさとほのかな酸味を加えたような香りのハーブティーは、悪夢を見た後のおまじないだ。
今日は久しぶりにまっとうな怖い夢だった。締め切りを一週間も勘違いしていて仕事がおじゃんになる夢でも中学時代の同級生に性質の悪い嫌がらせをされる夢でもない。純粋な恐怖心をあおるだけの、多分誰にとっても悪夢と呼べる悪夢だった。
眠りが浅いせいかマヤはよく夢を見た。ハリウッド映画ばりに長いストーリー仕立ての夢を見る日もあれば、てんでばらばらな内容の夢を一日で三つも四つも見る日もある。多くの場合は起きてから数分もすれば忘れてしまうけれど、細部は思い出せなくても「何の夢を見たか」を覚えていることも多い。そして面倒なことに、マヤが覚えている夢はだいたいがマヤにとっての悪夢なのだ。マヤは心配ごとや悩みごとなど、気になることが夢に出てきてしまう妙ちきりんな体質持ちだった。
「……大丈夫、大丈夫、怖くない。怖くない」
心安らぐ香りを胸いっぱいに吸い込みながらマヤは自分に言い聞かせる。うっかり怪談を聞こうものなら話に出てきた幽霊が、受験の時は合否結果が発表される直前の、あの口から心臓が飛び出てしまいそうな緊張が、ほとんど現実と錯覚してしまいそうなほどのリアルさで何度も再現されてしまうのだ。早いところあの冷たい手を忘れてしまわなければ、今度はどんな悪夢に襲われるかわかったものじゃない。「大丈夫」と「怖くない」を子どものように繰り返すマヤは限りなく真剣であった。
残念ながら、マヤの試みは失敗した。
リラックス効果があると知って飲み始めたラベンダーティーも今日は力を発揮しなかったらしい。目を閉じるとどうしてもあの感触と恐怖を思い出してしまう。部屋に戻ったマヤは満月の光が入り込むカーテンの隙間から夜空をしばし眺め、携帯電話でヒーリングミュージックをごく小さな音量で流した。何曲か聴いた後ベッドに潜り込む。布団から足がはみ出していたら誰かに引っ張られてしまいそうな気がして、布団で首から下を覆い尽くした。
誰でもいいから助けて。悪い夢なんかにびくびくしたくないの。
マヤは羊を数える代わりに頭の中で何度も願いながら、いつしか意識を失っていた。
――……さん
どこかで声がする。
――お……さん……
誰? 誰が私を呼んでるの?
――おねーさんってば。目を開けてよ、ねえって。
ねだるような高い声にマヤはうっすらとまぶたを上げた。橙の光のなか、ぼんやりと小さな人影が浮かび上がる。ひっと喉から声が出そうになったのをなんとかこらえて目を凝らすと、人影はマヤに一歩近寄った。
「やーっと起きてくれた。おはよ、おねーさん」
徐々に姿かたちがはっきりしてくる。やけに人懐っこい口調で話しかけてきたのはどう見ても十三、四歳にしか見えない少年だった。
「あ、あなた、誰? ここは私の部屋で、戸締りもちゃんとしてるのに、なんで」
「うわっ、怖がらないで。オレはおねーさんの味方なんだって。本当だよ」
マヤがおびえた早口で問いかけると少年は慌てたように手を振り、目じりが切れ込んだ大きな瞳でマヤの顔を覗きこんだ。
「おねーさんは獏って知ってる? 夢を食べる伝説の生き物。好物は、悪夢」
「悪夢を食べる、獏……」
「そ。オレはその獏で、おねーさんの夢に惹かれてやって来ました」
「……ええっと」
「さては信じてないな? ねえおねーさん、おねーさんがさっき見た夢を思い出してみて。怖い夢を見てたはずだよ」
突拍子もない発言ばかりの少年を不審に思いながらも素直に夢をたどろうとして、マヤは息をのんだ。怖い夢を見たという記憶はあるのにどんな内容だったか少しもわからないのだ。もっと言えばその時に感じたはずの恐怖心もきれいさっぱり消えている。普段なら思い出したくもないはずの内容を懸命に思い出してみようと目いっぱい考えても、記憶の糸口になりそうなものさえ何ひとつとして浮かばなかった。
「思い出せなかったでしょ。それはオレがおねーさんの夢を食べちゃったからなんだ。ごちそうさま」
「本当に、私の夢を食べたの? ……あなたが?」
「だーかーらー、さっきからそう言ってるじゃん。それに食べて欲しいってお願いしてきたのはおねーさんだよ」
「えっ」
自身を獏と言った少年はベッドに腰掛けて肩越しに振り向いた。うなじを少し越したあたりで切りそろえられた黒髪が豆電球の光をわずかに弾く。
「『誰でもいいから助けて』って言ったのを覚えてない? オレはおねーさんのお願いに呼ばれたんだよ」
マヤは言葉を失う。そうだ。どんな夢を見たのか、どんな風におびえていたのか自分ではわからないけれど、ぎゅっと目をつぶりながら必死な思いでそんなことを呟いていた覚えはある。そしてその願いに目の前の少年が応じたのだとしたら彼はマヤの救世主だ。悪夢にわずらわされない生活は、心の底からの望みだった。
「わかった……信じる。助けてくれてありがとう」
少年は一瞬虚をつかれたような顔になったが、すぐに朗らかな笑い声を上げた。ひとしきり笑い終えたと思うと今度はぺろりと舌なめずりして「実はさ、オレからもお願いがあって」と真っ黒な目を光らせる。
「おねーさんの見る夢がすげーオレ好みの味なんだ。もっと食べさせてくれないかな」
「というと?」
「おねーさんの夢をオレに独占させて欲しいんだよね。おねーさんの悪夢はオレが全部食べるの。オレはお腹いっぱいになれるし、おねーさんは嫌な夢から解放される。おねーさんにとってのいい夢には手を出さないから安心して。悪い話じゃないと思うんだけど、どう」
獏は嬉々としてマヤに語った。マヤは、獏少年の言葉を反芻する。悪い夢を食べさせてほしい。つまり、今回に限らず継続的に、マヤを悪夢から救ってくれるという。
ちょっと悩んだだけで夢に出てくる自分の気の弱さに情けなさを感じていた。能天気でいたいと思いながらも、悪夢にうなされることを心配して人の顔色をうかがってばかり。悪夢を見たくなくて現実におびえるだなんて本末転倒なのに、どうしても思考は悪い方へ悪い方へ流れていく。
そんな毎日から解放されるなら、獏だと語る少年の手を取ってもいいと、本気で思ってしまった。
「……おねーさんって呼ぶのはやめてね。私、マヤよ」
「マヤだね! 了解、マヤ!」
黒曜石のまなざしがきらりときらめき、まぶしさに顔をおおったところでマヤは目覚めた。
数センチ開いたカーテンから太陽の光が差し込んでいる。外はもう朝だ。小鳥のさえずりが聞こえる。つい今まで話し込んでいたはずの少年の姿はなく、いつもの自分の部屋が広がるばかり。
あの子も、夢?
マヤは首を傾げながら仕事のしたくを始め、鏡を覗いて驚いた。長年つきあい続けた濃いくまが跡形もなく消え、代わりに綺麗なふくらみがあった。目の下にくっきりと浮かぶ青黒いくまはコンシーラーでもファンデーションでも消しきれなくて、いつもどこか疲れたような顔になっていたのに。変化はくまだけではない。頬はゆっくり風呂に浸かったかのような自然なピンクに色づき、瞳は赤ん坊のようにうるんでいる。おそるおそるファンデーションをつけたパフはするんと肌の上をすべって、薄塗りなのにしっとりと馴染んだ。
ふっと考えをめぐらせてみても、夜中に見たはずの夢はやっぱり思い出せない。
夢じゃなかったんだ。
吸い付くような頬に手のひらを当てて、マヤはぼんやりと呟いた。
獏の少年――朔はその後も夜ごとにどこからともなく現れた。悪夢を食べ損ねないためだといって、マヤの側から離れないのだ。
「マヤにとってはすっごく豪華なコース料理を途中から食べるようなものだよ。始まりから終わりまで味わいつくしたいじゃん」
「そんなものかなあ……」
朔はこれまでに食べてきた夢や出会ってきた人間の話を語り、相変わらず寝付きは悪いマヤを楽しませた。自分が蝶なのか人なのかわからなくなった男の夢や、お粥が炊きあがるまでのうたた寝で自分の一生を見た男など、まるで自身が体験したかのような朔の話ぶりは実に見事だった。
眠れない夜の寝物語なんてアラビアン・ナイトみたい。
マヤは心地良く響く朔の物語りを聞きながら、とろりと目を閉じる。朔がいればいい夢が見られそうだった。
朔が悪夢を片っ端から食べてくれるおかげでマヤはずいぶん前向きになった。眠っても悪夢を見ずに済むという安心感のためか徐々に寝付きも良くなった。仕事の締め切りを必要以上に気にすることも、こそこそと会話する人を見て自分の悪口を言っているのではないかという被害妄想じみたネガティブ思考も、いつの間にか薄れていった。それもこれも朔のおかげだとマヤは思う。闇夜の色の少年が、長年積もったマヤの恐怖を払っていく。
もっとも、マヤの考え方が変わったせいで悪夢を見る回数が減ったと朔が拗ね、押し倒す・濃厚なキスをする・首筋を舐め上げるといったセクハラまがいの行為を仕掛けては「いやらしい夢も悪夢のうちなんだ。オレが美味しく食べてあげるから、ほらマヤ、早く目を閉じて」なんて朔がけろりとのたまう日が来るのだが、それはまた別のお話。
ただ一つ――マヤに平穏な夜が訪れる日は遠いということだけは間違いなさそうだ。
ハロウィン記念に。