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最後の三日  作者: カオリ
1/3

前編

震える両手で蝶番が軋まぬよう細心の注意を払いながら、ゆっくりと玄関の扉を押し開けた。

気持ちばかりが急いてしまって、まだ開き切らぬ扉の僅かな隙間に体を滑り込ませる。


ひどい耳鳴りに混じり、滑稽なほどに速い心臓の鼓動が耳の奥底に響くのに耐えられなくて、一度強く目を瞑った。

閉めるときも静かに、慎重に。呪文のように自分に言い聞かせながら、ぎゅっとドアノブを握る。息を殺して扉を閉じ切ると、同時に大量の汗が体から吹き出した。

深呼吸を繰り返すうちに漸く耳鳴りが消えて、代わりに鈴虫が鳴いていることに気が付く。


そうだ、まだ終わってないんだ。


首からさげた銀の合鍵で、今し方閉めた扉に鍵を掛ける。施錠する瞬間のカチャリという音が予想より大きく響いてしまい、一瞬頭の中が真っ白になった。耳を扉に押し当てる。大丈夫、誰も気付いていない。

その後も散々確認した挙げ句、私はやっと安堵の息を吐いた。

玄関前の白いタイルに座り込んで辺りを見渡せば、目に映るのは消えかけた街灯の白色電光だけだった。

夜空の色は深い紺。初めて見る真夜中の色に、興奮と後悔の入り混じった形容し難い感情が押し寄せて涙を誘った。

腕時計に目をやる。時刻は午前一時五十分を指していた。約束の時間まで、あと十分しかない。荷物は事前に駅のコインロッカーに預けておいた。あとは、集合場所に向かうだけ。


けれど、皆はちゃんと約束どおりやってくるだろうか。

タケは? ハナエは? ミズホは? ショウは? ケイ君は?


(大丈夫。きっと、大丈夫)


私は勢いを付けて立ち上がると、夜風に押されながら我が家を後にした。









私が駅構内のコインロッカーの便利さに気が付いたのはつい最近だ。ここを利用すれば、いつだって家を出ることができる、と。

今日の『約束』の存在を思い出したのもちょうどその頃だった。正直、約束を忘れなかったことは奇跡に近いと思う。皆はやはり、忘れてしまっているかもしれない。


(……三年も、前の話だ)


コインロッカーの前に清掃員がいるのが見えた。何も躊躇する必要などないのに何故だか後ろめたい気持ちになって、清掃員が移動してくれるまでロッカーの陰に隠れて待っていた。

清掃員がいなくなったのを確認して漸くロッカーの前に立つと、中から大振りのスポーツバッグを取り出す。

ずっしりと重いこれの中には、前々から準備していた今後の生活用品が入っている。

私は以前から家出の計画を立てていた。誰にも告げずに、私を取り巻く世界から消えるつもりだった。

――成し遂げる気でいたのだ。今日が約束の日だと、気付くまでは。


清掃員のおかげで余計な時間を食ってしまった。待ち合わせの時間はとうに過ぎてしまっている。私はスポーツバッグを肩に掛け再び走りだした。

当初の予定ではそのまま駅から電車に乗るつもりであったけれど、計画は変更だ。

約束を、あの日の言葉を確かめてみたかった。私の足は自然と駅の外へと向かい、約束の場所へと進んでいく。急がなくちゃ、あの古い神社へ。








私の住む町は、上水流かみずる町という。田舎というわけではないけれど、静かで自然の多い町だ。長閑な畦道や民家を除けば、あるのは小さな学校と工場ぐらい。何も無い、と言っても構わないと思う。隣町は、もう少し賑やかなのだけれど。

けれどその上水流町で、三年前に一家惨殺事件が起こっている。犯人は今も捕まっていない。この事件は私に『あの日』を思い出させる上で、重要な背景を担っていた。

約束を――契りを交わしたあの日、住民は潜む殺人犯を恐れ、夜の上水流町には人の気配などなかったのだ。もちろんあの神社には私達以外誰もいなかった。そうだ、あの人が来るまでは。


古ぼけた赤の鳥居が見えた。懐かしい。本当に、久しぶりだった。私は息を切らしながら、鳥居へのびる石段を駆け上がる。

視界が開けると、私はゆっくりと深呼吸をした。

石段を上りきると目の前に広がったのは、長い長い並木道だ。鬱蒼と生い茂る木々が夜闇の中でざわざわと揺れる。吸い込んだ空気と一緒になって杉や樫の匂いと、ここで過ごした――あの日までの思い出が体中に流れ込んだ。

鳥居の表面に見つけた、親指ほどの長さの傷の上に指を滑らせる。これは、タケとショウが付けた傷だった。


――どうして、泣きたくなるんだろう?


顔を上げ、私はゆっくりと鳥居を潜った。

この並木道を抜ければ本殿がある。記憶が正しければ、そこが約束の場所だった。

何故だか分からないけれど、今の私には自信があった。

皆は、きっとあそこにいる。

一歩一歩進むうちに、自信は確信に変わった。


「……こ」


ほら、声が聞こえる。

私は残りの距離を一気に駆けた。不思議と、荷物の重さは感じなかった。

前へ、前へ。自然と足取りは軽やかになる。三年という時間は、懐かしむにしては僅かに短いのだろう。けれど、待つには長いと思う。何故か焦りを感じた。はやく、あいたい。


本殿の前に三つの人影が見える。そのうちの一人が、こちらへ大きく手を振った。


「チョコ! こっちだよ」


ちょこ。聞こえた音に思わず口が綻んだ。私の小学校の時の渾名あだなだ。彼らだけは、今でも私のことをそう呼ぶ。


「ケイ君」


人懐っこい笑顔を浮かべる彼を前にしてすっかり緩んでしまった顔を、私は隠すこともなく歩み寄る。ああ、ケイ君だ。同年代の男の子の中でも一際幼く見える彼は、その可愛らしさと憎めないキャラクターで中学のクラスでもちょっとした人気者だった。

久しぶりに会ったというのに、ケイ君はちっとも変わらない。


「ちょっと見ない間に、チョコってば随分変わったねぇ」


ケイ君が私の姿を上から下まで眺めて言った。

確かに私は、見た目なら変わったかもしれない。長かった髪を明るいブラウンに染めてボブにしたあげく緩やかなカールまでかけているし、化粧だってしている。私の通う高校は私服校なので、その点は自由だった。

それにしても、三年の年月を『ちょっとの間』と称すケイ君は素敵だと思う。変なんだけれど、そこが彼のチャームポイントだったから。


「遅刻だぜ、チョコ」


次に私に声を掛けたのはショウだった。学年一のお調子者は健在のようだ。

その後ろからこちらに近づいて来るのはミズホだろう、きっちりとした三つ編みが肩の辺りで揺れているのが見える。三年前と寸分違わぬ髪型が妙に面白い。

そこまで考えて、私は人数が足りないことに気が付いた。


「あれ、タケとハナエは?」


ああ、と。ミズホはどこか困ったように笑う。この笑顔も、昔から変わらない。


「ハナエなら……」

「ハナエって呼ばないでよ、ダサいからぁ」


木の陰から現れたハナエを見て、思わず私も笑いそうになった。

ハナエは小学校、中学校ともに問題児扱いをされていた生徒で、言ってしまえば『不良』のカテゴリー分類される人間だ。今の格好などその典型で、上下グレーのスウェットに脱色した髪、不貞腐れたような口元からは消えかけた煙草が覗いていた。私にとってはお馴染みの、彼女のスタイル。


「ハナって呼んで」

「はいはい」


懐かしい会話に、とうとう私は笑ってしまった。ハナエは自分の本名を呼ばれると必ず怒るけれど、最終的にいつも私達だけは許してくれる。そんな、お決まりのやりとりが私は好きだったことを思い出したのだ。


「久しぶりぃ、チョコ。遅かったじゃん。まさか、忘れてたとか? ハナだって今日はちゃんと来たよぉ」


独特の間延びした口調を崩さぬまま、ハナエは煙草をぽいと投げ捨てた。それを慌てて踏み消すミズホをショウが笑って見ている。ハナ、まだ未成年でしょ。わかっていても誰も言わない。なんだか本当に、中学時代に戻った気分だ。


「で、タケと言えばご存じ遅刻魔だ……勿論、まだ来てねぇ」


ショウが顔をしかめてみせる。彼がこうする時は怒っているわけではなく心配しているのだと、私はよく知っていた。ショウも三年前と変わらない様子で安心する。彼らには変わってほしくない。

ふと、どこかに目をやっていたショウの表情が弛んだ。ケイ君が歓声をあげるのが聞こえる。理由は一つだ。確認しなくたってわかる。


「大遅刻だぞ、タケ」


私はゆっくりと振り返った。並木道を抜けたばかりのタケは私達を目にすると、ひどく驚いた顔を浮かべる。彼はそのままそこで硬直し、口だけを動かした。


「お前等……! 何で、ここにいるんだよ!?」

「はぁ?」


自分が遅刻したことも忘れて大声で叫ぶタケに、ハナエが冷めた視線を送る。鋭いそれは不良がガンを飛ばす時の様子に酷く似ていて――実際ハナエは飛ばしていたのかもしれない――睨まれたタケは僅かに震えた。


「ハナ達が約束守らないわけないじゃん。自分が一番遅いくせにぃ」


釈然としない表情が消えないタケにショウが歩み寄り、笑ってその背を押す。そうされる間にも、タケは何か言いたげな表情を浮かべてショウの顔を見つめていた。

タケの様子がおかしい理由は私にもわからなかったので、とりあえず挨拶だけは交わしておく。久しぶり、と言えば、あー、と生返事。せっかく久しぶりの再会だというのに変なやつ。


「チョコ。お前、その荷物何?」

「あ……ああ、これ」


ショウに問われて、私は漸く足元のスポーツバッグの存在を思い出した。

ケイ君とハナエが興味津々でこちらを見るので、実は家出の計画を立てていたことを簡潔に説明する。結局は未遂に終わりそうなのだけれど、何故かケイ君は顔を輝かせた。


「格好良いー」


なにそれ、と私は笑う。このワンテンポずれたやり取りが、昔から私を癒してくれるのだ。このメンバーで過ごしているだけで、どうして救われる気がするんだろう。 他の些細な事なんて、どうでもよくなってしまう。


「今日ここに皆がいなかったら、このまま家には帰らないつもりだったの」

「おお、来てよかった。チョコに行方不明になられちゃあ、俺たちが困るんだよ」


口は悪いけれど優しいショウ――川嶋 翔が、ぽんと私の肩を叩いた。

ケイ君こと早川 慧、関 瑞穂、杉浦 花恵、川嶋 翔、それからタケ――木内 武臣、それに私を入れて六人。

私達は三年前にこの場所で約束をした。あれは中学三年の、夏休みの終わり。

正直細かい内容は覚えていないのだけれど、三年後にこの場所にもう一度集まることになっていた。今日のことだ。今日の、午前二時。


「あれからもう三年だ。俺たち、高三だぜ……早いよなぁ」


何かを噛み締めるかのようにタケが言うのが聞こえた。ショウとハナエが曖昧に笑う。ミズホが少し悲しそうな顔をしたが、何故かはわからなかった。ケイ君だけが、きょとんと不思議そうな顔をする。

タケ達は中学を卒業するまでは一緒に過ごしていたはずだが、私は中三の夏休みが終わった直後に親の希望で隣の学区の中学へ転校していたので、皆に会うのは丸三年ぶりだった。いや、タケには一度だけ会ったことがある。けれど他の四人には、転校以来会っていなかった。学校が変わっただけで、家は同じ場所にあったのに。


(そういえば)


何故私は、すんなりと転校したのだろう。大好きな友達と別れる道を選んだなんて。私は転校を承諾した時の気持ちを、いまひとつ思い出せないでいた。


「ねぇ、私達は約束を守ったよね。全員ちゃんと集まったもの……あれは、本当だと思う?」


ミズホが恐る恐る口にした言葉は、今誰しもが思っていたことなのだろう。私は皆を見つめた。ケイ君がごくりと唾を飲み込んだのがわかる。


「あいつ、来るかな」


タケが呟いた。あいつって誰ぇーなどと、とぼけた様に尋ねるハナエに、ケイ君が緊張した面持ちで答える。


「サトマさん」


確かめれば良いとショウが言った。腕を前に伸ばすと、真直ぐに本殿の裏を指差して。

私達は神妙な面持ちで頷いた。それしかない。


「行こうぜ。契約の場所に、な」


私達が契りを交わした約束の場所は、正確にはここではない。

本殿の裏にひっそりと生き続ける巨木の根元――『サトマさん』の護る、『永遠』の菩提樹だ。

私達はゆっくりと本殿の裏手に回る。ケイ君だけは待ちきれなかったようで、一足早く行ってしまった。


「なぁ、ショウ」


私の後ろでタケが小さく呟いたのが聞こえる。深刻そうな声が気になったけれど、私をハナエが急かすので振り返ることはできなかった。

タケは、消え入りそうな声で続けている。


「俺は、夢を見てんのかなぁ」


聞き間違いではないと思う。

夢。私にはそう聞こえた。何が、夢だというんだろう?

――やっぱり、なにか。今日のタケは、変だ。


「夢じゃないぜ」


ショウは笑っている。でも、と何か言い掛けたタケの言葉は、私達を呼ぶケイ君の大声で掻き消えてしまった。

ケイ君は一本の巨大な古木を見上げながら私達を待っていたようだ。

……菩提樹。この町を護り続けてきた神の木だと、あの人は――『サトマさん』は言った。



――――エイエンガホシイデスカ?



すぐ後ろから声が聞こえた気がして、思わず私は振り返った。心臓が鷲掴みにされたような感じがする。息苦しい。何なんだろう?


「チョコ、どうしたの?」

「……何でもない」


ゆっくり呼吸を整える。タケも変だけれど私も変だ、今日は。

少しばかり過敏になっているのかもしれない。親友達との再会だとか、夜の闇のせいで気持ちが高ぶっているのかも。


「永遠が欲しいですか」

「……!」

「って、言ってたな“サトマさん”」


今度こそ飛び上がりそうになって必死で横を向くと、にんまりと笑うショウの顔が目に入る。

私の心臓が早鐘のように打っていることを知ってか知らずか、こいつめ。


「いないね、サトマさん」


ケイ君がぽこりと菩提樹を叩くのを、呪われるよとハナエが笑った。

記憶力の悪い私でも、あの日のことだけは鮮明に思い出せる。

私達は上水流神社を訪れて、それは夏休みの終わりのことで、しかも深夜で。

神社に来ることがあるとすれば初詣ぐらいだった私達には、本殿の裏にあんなものがあるなんて知る由もなかった。

初めに菩提樹の存在に気が付いたのはケイ君だ。いつも勝手にいなくなってしまう、悪い癖のおかげ。


「最初にこれ見た時は、本当に木なのか、疑いたくなっちゃって」


ミズホが菩提樹にもたれかかり、小さく笑った。

今にも朽ちて崩れてしまいそうな樹皮とは裏腹に、あまりにも太く、力強い幹。揺れる心臓形の葉……生命の息吹が、確かに聞こえたような気がした。

――そしてこの上水流の御神木が、私達の目により神秘的に映った原因。それが、サトマさんの存在だった。


「俺、妖怪が出たのかと思ったもん。あの人急に現れたから」


ショウが思い出を確かめるように、ゆっくりと菩提樹に触れる。

私も巨木の根に腰を下ろし、あの時の様子を思い浮べた。

優しそうな、線の細い男性だった。白い着物を身に纏い、突然現れた彼。サトマだと、本名なのか偽名なのか、どんな漢字を当てはめるのかもわからない名を告げた彼。菩提樹を発見し得体の知れない空気に飲み込まれていた私達に、これは永遠の木だと彼は言った。


「夜中だったのにさ、一人で俺たちに話し掛けてきて」

「不気味だったよね。ハナ、あの人おばけかと思ってたしー」


ハナエの言葉にくすくすとミズホが笑う。

私もそれにつられるように笑い声を上げながら横を見れば、タケが何故か菩提樹を睨み付けていた。


「タケ?」


私が小声で呼んでも、タケは顎をしゃくって話の続きを促しただけで。


「約束の内容、覚えてるか?」


ショウが私達を振り返る。タケが小さく頷く横で、ハナエは首を傾げると苦笑を洩らした。


「はっきり覚えてないかも、ハナお馬鹿さんだから」

「えぇー? もう忘れちゃったの、早すぎだよ」


ケイ君は口を尖らせてハナエを非難する。彼にとっての三年間はあっという間に過ぎてしまったのかもしれないが、普通三年もすれば、記憶の一つや二つ曖昧になると思うのだけれど。私の記憶も実は曖昧だったので、余計なことは言わないことにする。ケイ君の機嫌を損ねるのは御免だ。


「これは永遠をくれる木だよ、ってサトマさんは言ったんだ。菩提樹に誓いを立てれば永遠が手に入る。それには、三年後に全員でここに戻って来るっていう約束をしなくちゃいけないんだ。約束の日にちゃんと全員揃えば、その時一番欲しかったものが手に入るとも言ってたよ。それから、その日に永遠は完全なものになる、って」


ケイ君はすらすらと言葉を紡ぐ。それを聞いて、私の頭の中には約束をした日の光景が鮮やかな絵のようにくっきりと浮かんでいた。

――私達の欲しかった永遠は、私達そのものだ。永遠の友情を、私達は誓った。

サトマさんの儚い笑みは、今でも私の脳裏に焼き付いている。


『それでは、約束です。三年後の明日、ですよ――忘れないで、くださいね』


誓いを結んだ日の翌日から数えて、ちょうど三年後。それが私達の再び集う約束の日だと、彼は言った。つまり私達が誓いを交わした日は、実際は三年前の昨日にあたる。

サトマさんには、全部で二回会った。

初めて彼と出会った夜に菩提樹の伝説を聞き、次の日の晩、誓いを結んだ。その翌日は夏休み最終日で、最後にもう一度だけ神社に行ったけれど、サトマさんは現れなかった。

――――それ以来、二度と。


「一番欲しかったものが、手に入るはずなんだろ?」


タケが漸く口を開く。それを聞いたケイ君が落ち着きなく視線を泳がせるのが可愛らしかった。欲しかったものが手に入る――私も勿論、そのことは覚えている。正直嘘っぽいと思っていたけれど、当時中学生だった私達にとってはとても魅力的な言葉だったからだ。


「ケイ君は何が欲しいの?」

「アイキュー」


私の問い掛けにケイ君は直ぐ様答える。

自分の望むものをはっきり言える彼が羨ましかった。私は何をするにも中途半端で意志が弱い。最近は進路のことで親と話し合う機会が増えていたから、なおさらそれを痛感していた。母にあなたは何がしたいのと問われても、首を横に振ることしかできない――自分の無力さがやるせなくて、消えてしまいたかった。

今日は皆に会うためにここへ来たけれど、もし……もしも私の『一番欲しいもの』がわかるなら、素敵だと思う。


「受験を難なく乗り越えちゃうような、天才的な知能が欲しいなぁ」

「ケイらしいな」


ショウが俺も欲しい、と笑った。ミズホは三つ編みに指を絡めながら、楽しそうな、けれどどこか切なそうな面持ちでケイ君を見つめる。


「ハナは、やっぱお金が欲しかったかなぁ」


あまりにもハナエらしい夢の無い答えに私は笑ったけれど、タケは僅かに眉根を寄せた。

タケは――私の知っているタケは、いつだって笑ってばかりいたのに。


「ハナエの人生、金が命だもんなー。じゃあ次はチョ……」

「ショウ、お前は?」

「ん?」


私のほうを向いていたショウは、突然の声に僅かに驚いてタケを振り返った。

タケは真直ぐにショウを見つめている。二人とも向かい合ったまま暫く何も言わず、私には時間が止まったかのように感じられた。


「ショウ――お前の、欲しいものは何だ?」


ショウは二、三度瞬きを繰り返した後、ゆっくりと、そして静かに笑った。


「……お前と同じだよ、タケ」


その言葉にタケが目を見開いた。ミズホがはっとしたように口を噤む。ハナエが笑う。ショウも、笑い続ける。ケイ君が首を傾げる。

それを見ているだけの、私。


「なーんてな、冗談だよ。つーか、お前の望みなんて知らねぇし。タケの欲しい物って何?」


タケが表情を曇らせた。ショウはそれに気付かないフリをして、いつもの軽い調子でタケに問う。


「欲しいものなんか、ない」


タケはそう呟くと私たちに背を向ける。


「タケ、どこ行くの」

「便所ー」


そう言い残して、タケは本当にトイレのほうへ歩いて行ってしまった。


それから後は別段変わったこともなく、私達は他愛ないお喋りや思い出話に花を咲かせた。トイレから帰って来たタケが何事もなかったかのように合流して、ケイ君が迷子になったときのことやハナエが煙草を吸って自宅謹慎になった時の話を愉快そうに語る。私とミズホは、煙草を取り上げられた時のハナエの様子を思い出し顔を見合わせて笑った。


どんなにたくさんの話をしても、タケ達は私が転校した後のことには一切触れなかった。

きっと、同じ思い出を共有していない私に気を使ってくれたのだと思う。皆の優しさが嬉しい。


「あれやろうぜ、久しぶりに」

話の種が尽きてきた頃にショウがそう言い出して、私達は神社の境内全てを使って鬼ごっこに興じた。


闇鬼、と言う。


鬼をくじで決めて、誰が鬼なのかわからない状態ではじめる。鬼が逃げる役のフリをして騙すも良し、逃げる役が鬼のフリをして楽しむのも良しという一風変わったルールの遊びで、私達が小学生の頃に流行していたものだ。


私は一度も鬼にはならずに、鬼のフリをしてケイ君を驚かし、仲間だとばかり思っていたミズホに捕まった。


楽しかった。楽しくて、幸せで、少しだけ寂しかった。



ふと見上げた空が白みはじめていた。藍色と青と、靄がかかったような水色のグラデーション。


私達は汗だくになって、再び菩提樹の元へ戻っていった。

菩提樹を全員で円形に囲み、幹を背にして座り込む。お互いの顔は見えなかったけれど、それで良いような気がした。木々の間を吹き抜けてくる風が心地良い。


「朝が来るね」


ケイ君が呟いた。私もタケも、静かに頷く。

結局サトマさんは現れなかった。欲しいものが手に入るというのも、嘘だ。私達は三年間、冗談だと知りつつも諦めきれないで約束を胸にしまっていた。可愛らしい、夢を見ていたんだ。


でも。


「私ね、『永遠』は手に入ったと思うよ」


何で? と問う皆に、私はゆっくりと囁いた。私の見つけた、永遠の答え。


「三年間会ってなかったのに、こうしてちゃんと全員集まって。この友情は消えないって、わかったじゃない。違う?」


少しの沈黙が流れる。それから、柔らかく息を吐く音があちこちから聞こえた。


「……そっかぁ」

「そうかもな」


ハナエとショウが笑う。

私は幸せだった。これ以上は何もいらなかった。私の一番欲しいものはきっと、もう手に入っている。


「永遠……だったら、いいなぁ……」


ミズホの声は、震えていた。私はただ夜が明けることの寂しさを噛み締める。

高校へ行っても、皆はいない。

――でも、きっと私はこれからも高校に通うと思う。私には仲間がいる。それを確認できただけで、この先も頑張っていける気がした。


「朝が、来るよ」

「うん」


もう一度ケイ君が呟く。空の色がどんどん鮮やかになっているのがわかった。


「帰らなきゃね」

「そうだね」


私は頷いた。今日は夏休みの最終日だった。明日は始業式だ。学校へ行くつもりならば両親が目を覚まさないうちに家に帰って、寝ていたフリをしなければならない。それから、新学期の準備をしないと。


ケイ君が立ち上がって伸びをした。色の変化する、まだ薄暗い空に向かって手を伸ばす。

――そのときタケが、小さく呟いた。


「……帰るのか、ケイ」

「うん、帰るよ。内緒で来たから、バレたら叱られるんだ……もっと喋ってたかったけど」


タケはケイ君から視線を逸らさなかった。ケイ君もタケを見つめる。


「どこに、帰るんだ?」


タケの不可解な言葉にケイ君は目を瞬いた。私にはタケが何を言おうとしているのか、さっぱりわからない。

「何言ってんのタケ、家にきまってんじゃん。明日は始業式だよ? 家帰らないと、準備とかできないし」


私も立ち上がる。ケイ君の言うとおりだ――けれどタケは、菩提樹の根に座り込んだままだった。


「タケ? 私達も帰んないと」


タケは微動だにしない。変なタケ、とケイ君が笑った。


「先に帰るよ。チョコ、タケ、ハナエ、ショウ、ミズホ、また明日学校でね」


私は思わず吹き出しそうになる。これだからケイ君は、ケイ君なんだ。本当に面白い。


「やだ、ケイ君ったら。私とは学校が違うんだから、その挨拶は変だよ」

「……え? チョコってば転校でもするの?」


ケイ君が驚愕の表情を浮かべ、慌ててこちらへ引き返してきた。

――会話が噛み合っていないようだ。何やら勘違いをしているらしいケイ君に、私は笑ってみせた。


「転校は、したけど。それって中三の夏休み明けの話だし……そうじゃなくて、高校が別じゃない」

「高校?」


ケイ君が顔をしかめる。彼は暫し考え込んでから、うん、と言った。


「そうだね、志望校は別だった……」

「そうじゃなくて――」


突然タケが立ち上がった。私が驚いて振り返ると、タケは静かにこちらに歩いてくる。


「ケイ、お前、覚えてないのか?」

「何が?」


ケイ君は憮然とした面持ちを浮かべる。意味のわからないタケの質問に少し苛立っているのだろう。


「本当に、覚えてないのか?」

「だから、何?」

「――ケイ君」


何か、おかしい。私は混乱して、自分を落ち着かせるために深呼吸をした。冷たい空気が胸に入ると少しだけ頭が冴える気がする。


「私達もう高三だよ? さっきケイ君も言ってたじゃない。大学受験を乗り越える知能が欲しいって――」

「何の冗談? 僕が言ったのは、高校受験の話だよ」


ケイ君は私とタケを交互に見つめる。


「だって、僕達まだ中学生じゃないか」


――何の冗談だ。そう言いたいのは私のほうだった。

けれど、冗談を言っている素振りなどケイ君は見せない。


「ケイ……俺達がここで誓いを立てたのは、いつだ?」

「馬鹿にしてんの? タケ」


ケイ君は語尾を荒げる。私は彼がその言葉を口にするのを、ただ見ていることしかできなかった。


「昨日だよ」


一際強い風が吹いた。ざわざわと揺れる木々の間で何かが蠢いて、私達を見ているようだ。


「ケイ、君……?」


私の中に得体の知れない感情が沸き上がって、押しつぶされそうだった。

なんで。どうして、こんなに胸が騒つくんだろう。

何もおかしなところなんてない。ケイ君は少しもかわらない、私の知っているケイ君のままじゃないか。

ケイ君は――――ケイ君、は。


……そうだ、変わらない。

けれど、でもそれは……『少しも変わらない』んじゃなくて。三年前と、『全く同じ』なんだ。

身長も髪型も、声も、全てが三年前のまま。


――馬鹿なことを。私は、今一体何を考えてしまったんだろう?


「ケイ君……」

「もぉ良いよ。皆で僕を騙そうったってそーはいかないんだから。帰るよ、僕」


ケイ君は不貞腐れたようにそっぽを向いて言う。

私は声が喉に貼りついてしまったような錯覚にとらわれて、一言も発することができなかった。

ケイ君は私の様子をちらりと見ると、訝しげな表情を浮かべる。


「何だよ、そんな顔してさ……皆も早く帰ったほうが良いよ。この前の殺人事件、まだ犯人捕まってないじゃないか。今の時間帯、人が少なくて危ないよ」


ケイ君の言葉が私の耳から体へ入って、脳をがんがん殴り付けているようだ。

頭が割れそうに痛い。


「ケイ、それは――三年前の事件だよ」


タケが静かに告げる。ケイ君は一瞬何を言われたのかわからなかったようで、ぱちぱちと瞬きを繰り返していた。


「……だからぁ、いつまで僕をからかうわけ? 僕は昨日の夜もこのニュースがテレビでやってるのを見たんだから」

「ホントだぜ、ケイ」


黙って様子を見ていたショウがおもむろに口を開く。ケイ君はぽかんとしながら、ただショウの言葉を聞いていた。


「今日は約束の日だ。誓いを立ててから三年経ってる。俺達は高校三年になっているはずの年で、お前の言う『今日』は俺達が中三だった――三年前に終わってるんだよ」

「どういう、こと……?」


ケイ君の顔色が僅かに変わった。ショウはケイ君を真っすぐ見つめながら、静かに次の言葉を紡ぐ。


「ケイ、お前は気付いてないんだよ。自分が――」

「……やめて!!」


突如叫び声が響き渡る。ミズホが立ち上がり、私達の前に飛び出した。


「やめて、やめてあげて!ケイ君のせいじゃない。ケイ君は何も悪くない!私が、私が……!」

「……ああ、ケイのせいじゃない!でも、お前のせいでもなかった!!」


タケが聞いたこともないような大声で叫ぶ。

泣きじゃくるミズホに向けて怒鳴るタケが次に言おうとしていることを、何故か私は聞きたくなかった。「お前は悪くなかったのに!」


聞きたくない。聞いてはいけない気がする。やめて。


「なのに……!」


やめて。やめて。


……けれど私が耳を塞ぐよりも、タケが声を出すほうがずっと早かった。



「なのに、何でお前まで死んだんだ、ミズホ!!」


――恐ろしく強い音の波が、私の耳を劈いた。

後頭部を強打されたような衝撃と、激しい吐き気が襲ってくる。視界が歪んだ。ミズホの悲鳴が、タケの怒号がぐるぐると回る。回り続ける。


「タケ……何言ってんの……?」


やっとの思いで絞りだした私の声はひどく擦れていた。

静かに私を見つめるタケの顔が悲しそうで、それ以上は何も言えなくなる。


「チョコ。お前は、忘れてるんだよ」

「タチ悪い冗談はやめてよ……」


私は泣き続けるミズホに目をやった。ミズホは、ここにいるじゃないか。


「チョコ……」


嗚咽に混じって小さく声が聞こえた。ミズホが両手で顔を覆う。


「ごめん……ごめんね。私、チョコがこんなことになるなんて思ってなかった……!!」

「何言ってるの? ミズホってば……」


わけが分からない。まさか皆一緒になって、私を騙そうとしているのだろうか。

そうこうしている間にも頭痛と吐き気がひどくなっていく。水が欲しかった。


「何だよ、ミズホまで一緒になって僕を騙そうっての? ミズホが死んでるわけ――」


ふとケイ君は口をつぐんだ。ショウが自分をじっと見つめていることに気が付いたからだ。

――哀れみに満ち溢れた眼差しで。


「……嘘だ!そんな、まさか!!」


ケイ君がよろめく。同時に、タケが私の肩を掴んで力一杯引いた。タケの爪が肌に食い込んで血が滲む。


「タケ」

「お前はこの三年間、見ないフリをしてきたんだ。思い出せ、チョコ。何で俺達は三年間も会わなかった? なぜお前は転校した?」

「タケ……やめて」


私はタケの手を外そうと身を捩ったが、少しも動かなかった。痛い。痛い。


「サトマと出会った後、誓いを結んだ後、一体何があった? 俺達が一緒に過ごした夏休みの終わりは――」

「嫌だ……!」


頭が痛いのか肩が痛いのか、わけがわからない。喉も肺も心臓も、全てがズキズキと痛んだ。

タケに続きを言わせてはいけない。それだけはわかる。聞いては、ダメだ。

嫌だ。タケ、嫌だよ。


「――あれは、あいつらが生きていた最後の三日間なんだ!思い出せ、梢!!」

「……嫌だあぁあぁぁあっ!!」


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