i;逢瀬
注意;
今回、作品中に性行為を示す文章が出て来ます。
本作は性行為を描写する事を主眼としておりませんし、行為そのものを殊更克明に描写することもありませんが、
15歳以下の方、及びその手の表現に不快を覚えると言う方は回避をお勧めします。
それから夕焼けが美しく空を彩る日、二人の逢瀬は続いて行った。
この夏は例年よりも雨が少なく、晴天が多かった。そのためか夕焼けが美しい日は多かった。二人は、今日は夕焼けになると確信した日の夕方、それぞれの職場からあの橋へ行き、彼が橋の中程で彼女と落ち合う。完全に暮れるまで並んで二人して黙って西空を眺め、やがて茜の夕辺が藍の深い宵に変わると、彼女は彼の大型スクーターに乗り彼女の官舎へ急ぐ。そして愛し合い、簡単に彼女手作りの夕食を食べ、再び愛し合い、十時には彼が帰る。それはルーチンワークの様に規則正しく続いて行った。
スクーターの二人乗りは交通法規違反だったし、彼らの住む世界では、法規に反する事は国家の秩序を乱し国家に謀反する事に等しかったので、表面上の罰則よりも世間の評価は厳しいものがある。駐車違反がたったの二回で村八分とされ、首を括った者もいる。
そんな中でも、ノーヘルで後ろに女を乗せたスクーターの青年を止める者はいない。何故なら彼は違反をしているのに堂々と車道の中央線寄り『国家優先レーン』を走ったし、父親が政府高官だという青年技官が持ち主のスクーターは、ナンバープレートに『い』の文字 ――『あ』と『い』は中央省庁、陸・海・空の三軍、警察、武装警察、消防所属を示したからだ。彼女の官舎前に路上駐車しても咎められなかったのは、勿論守衛が気を遣っていたからでもあるが、このナンバープレートの『い』の力も大きい。
二人とも仕事や普段の話は避けた。だから彼女は最初の時以外に彼の素性を詮索しなかったし、彼の方はそもそもその必要はなかった。
彼はこの年になるまで特定の相手と関係を持った事はなく、片手ほどの相手はすべて一夜限りのものだったが、こうして彼女との交流が続くと面白い事に気付く事になった。最初、彼は本当に面白いと思った訳でなく興味深いと思っただけだが、それはまだまだ研究途上の謎の多いサイキッカーにとって、秘密を解く鍵でもあった。
それは三回目の逢瀬のこと、行為の最中、彼はふと彼女の反応が本物かどうか知りたくなり思考潜入する気になった。
いつもの様にはいかなかった。それは本能に直結する、思考が極端に一点へ集約される行為の最中だったからで、そこで精神を他に集中し自我を分裂させることなど至難の業と言えるからだ。
しかし、彼も並大抵のサイではなかった。後に能力者ナンバーワンとされた彼は、この時点でもトップクラスの能力者であることに変わりはなかった。その時の行為自体が、彼女の背中を眺める体勢にあるのを利用して、勘の鋭そうな彼女の心に文字通り心身共に後ろから入り込んだ。
それは強烈な体験だった。
行為によって研ぎ澄まされた彼の精神は、相手も同じ様な快楽を伴う高みにいるため、平常時の相手のこころの『ジャングル』に分け入る様な感覚と違って、山岳地帯の山頂で雷雨や突風を受けている様なスリルと快感を彼に与え始めた。
その『雨風』は彼女の感情そのもので、怒りの様であったり悲しみの様でもあったり、そこに単純な快楽に伴う喜びが混ざった有様は、彼が今までに体験したどの様な思考潜入よりもドラマチックでいて退廃的だった。
彼はたちまちそれに夢中になり、本来誰もが持っている、それは能力者か非能力者かは関係なく、若い動物の持つ性に対する突き動かされる様な闇雲な衝動と相まって、探る目的は褪せて行く。思考潜入自体の行為が快感を伴っていたからだ。
それは自然と相手に悟られずに、相手を己にシンクロさせ、一緒に歓喜を分かち合うかの様な、相手のダークな負の感情をも一時覆い尽くす様な方向へと向う。
経験では遥かに勝っていると思っていた彼女は、初心と思った男の思いもかけぬ情熱と技巧に口を開き、目を剥く。気が付けば記憶が飛んで、荒い息と汗塗れの二つの肉体が手を繋いだまま俯せに伸びていた。
知らぬ間に付けた引っ掻き傷が赤い二本線となって、彼の右肩から背中へと走っている。それは元より彼の陽に焼けた筋肉質の身体あちこちにあった古傷の白い線と鮮やかに対比して、まるで未開の戦士がする呪いの入れ墨の様に見えた。
「なんだか……すごかった」
彼女はそう言うのが精一杯だった。俯せたまま、何か彼女の身体越しに天井を見つめる彼の方は何も話さなかった。
その時以来、二人の関係は男女の仲と言うより何かに憑かれたかの様な、一種のカルトの様になって行く。回を重ねる毎に口数は減り、何も語らないのにお互いの事が分かりあえたかの様に。
今日も夕焼けを確信した彼は橋へ向かい、彼女は待っていた。身体は十代だが実年齢六十の彼女は、スクーターが歩道に寄って自分の前へとやって来るのを見て、自分が長い間失っていた感覚、身体と精神の年齢が一致すれば極当たり前の感覚を感じた。
胸が高鳴ったのだ。忘れていた懐かしくほろ苦い感覚が。
しかし、常に個人より集団が優先され、国をおいて他に優るものの無い世界に生きて来た彼女が初めてその感覚を得た時には、国が民も官も東アジアの覇権国家として勢力圏拡大に邁進していた頃であり、負けを知らない国として根拠に乏しい精神至上を盲信していた頃。一少女の恋愛など誰ひとり顧みる事もなかった。
敗戦により自由主義国家の一員として再生するはずだったこの国も、北海道に共産国家が生まれ分裂国家となった事で、戦前とは形は違うものの、次第に自由と言う言葉が個人のそれを指し示すものではなくなって行った。
追い打ちを掛けるような四日間戦争 ―― 第三次世界大戦が始まり、初日に行なわれた核の交換、双方の陣営十三ヶ国七十数ヶ所に及ぶ原水爆攻撃で世界は瀕死となった。
引き続く『核の冬』の十年、ソ連やアメリカが国家再興に必死となっている最中に行なわれた北海道奪還戦争……国民の三分の二を失った国は、ただひたすら個より集団を選ぶ厳しい国とならざるを得なかった。そのどこにも生きる以上の自由はなく、国や地域の復興を蔑ろにして恋愛にかまける者は厳しく排他された。
だから今、多少の余裕が国に出来、彼女の生も後十数年となったこの時になって、思いも掛けない恋に落ちるとはなんと皮肉だろう、と彼女は思う。相手を本当に知る訳でなく、お互い線を引いて踏み込まない一夜限りの関係の様ではあるけれど、この感情の流れは紛れもなく恋愛のそれだった。
まさか二十年前に別れた息子を想い、隠されていた感情がこの青年に投影されたのでは?などと自身を疑っても見たが、そうではないことを彼女は良く知っていた。
――ああ、これは恋だ
ふっ、と笑みが零れ、なんとも儚げでなんとも根拠があやふやな感情ではあったけれど、彼女はこの一瞬に満ち足りた。
夕焼けの濃い橙色を浴びてスクーターから降りる彼の姿を見つめる彼女は、通り掛かった者から見たら紛れも無く恋人を待ちわびた少女そのもの。その表情には彼女がリバース以来、いや、生まれてから初めてと言っても良いだろう、安らぎと幸福が滲んでいた。