g;ハニー・トラップ
彼女がスクーターに興味を示した事に気を良くした彼は、スクーターの持ち主に礼をいい、ご機嫌を取るため ―― 何せ予定より長く借りる事に決めたので ―― その青年技官が大喜びする規則違反をやってのけた。技官が以前から密かに狙っていた、ある研究班の助手との仲を取り持ったのだ。
別に職場内恋愛が禁じられている訳ではない。サイの能力を公務以外で無闇に使う事が違反だった。彼はその妙齢の女性軍曹に入り込み、技官のイメージを散り嵌めて植え付け、浮ついた気分になる様に、彼女が夢見ている恋愛の象を、理想の相手を技官にすり替えて望み通り甘い夢として見せた。そのトラップは軍曹の就寝中に仕掛けたので非能力者の彼女が気付くとは思えなかった。
彼女は目覚めた時、何故だか胸がわくわくし気分が高揚している自分を感じていた。今日は夢見が良かった、とにっこり笑った彼女には、まさか自分が研究しているサイが遠隔透視し見つめていることなど思いもよらなかった。
その日、職場内で別部署の青年技官をよく目にしたのも、その青年から退庁時、夕飯を誘われ何故か二つ返事をしたのも怪しむ事はなかった。人間、快楽の方向に流れるとブレーキを掛けられないものだ。思考操作を知る者の間では『キューピット』と呼ばれ、諜報の世界では『ハニートラップ』のひとつとされるテクニックだった。
翌日。昼食時の食堂で、デートの首尾を思考会話で語り合うと、技官はスクーターを好きな時に使っていいと、スペアのキーを彼の食べていたカレーライスの盆の横へそっと置く。技官は、彼の方もスクーターを餌に女の子にいい格好していると正確に読んでいて、
―― なんなら、監視カメラやマイクが何故かいつも故障しているホテルを紹介してもいいぜ。
などと持ち掛けた。それを断った彼に技官は不思議そうに言う。
―― それにしても、貴様こそ相手の娘に思考操作を仕掛ければいいのに。
それも曖昧に笑ってやり過ごし、キーを握って、
(ありがとう)
―― いや、こちらこそ。
技官が席を立ち独りになった彼は、本当に何故仕掛けないのだろう?と自分自身を訝しんだ。
2人の夕焼け時の逢瀬は、一週間にほぼ二日か三日、律儀に夕焼けの美しい日を待って、橋の上での待ち合わせに始まり、彼がスクーターで彼女を官舎へ送り届けるパターンを崩さずに続いた。
お互い政府の深層に勤めている身だったが、それぞれが組織の中では重宝な人間、多少の脱線は許されるに違いない、と信じていた。無論恋愛までは管理されないが、秘密に包まれた環境の中で生きる人間はその秘密に縛られ、他者との交流も自然と制限される。今のところ二人とも自ら多くを語らず名前を名乗っただけ、その名前も国から与えられた偽名だった。
どちらか片方がごく普通の生活を送る人間だったのなら、こんな関係は長くは続かなかったはず。だが彼らの場合は、お互いが気安く素性を語れない立場で、お互い秘密を抱えている事を察して追求せず、ほとんど何も知らない出会いの時そのままに親愛の情が生まれ育って行った。
その様は、少々異常な状況も手伝って二人共常に新鮮な感覚を伴い、その曖昧な危うさが却って二人の仲を深めて行く事になった。
そして次第にお互いが興味を惹かれ、また親密の度合いを増すに従って、やがて避けられない時がやって来た。
その日、いつになく二人は無口だった。この前の一週間、夕焼けはほぼ毎日続き、二人は毎日橋の中間で会った。今日は彼が待たされ、二十分ほど後に彼女が歩いてやって来る。
「ごめん、待った?」
「そんなでもない」
彼がそう言ったきり、二人は茜色を深める雲の帯を眺め、後は何も話さなかった。二人が無言のまま肩を並べて空を見つめている間に、日はとっぷりと暮れ、彼が何を合図するでもなく路肩に止めたスクーターに歩み寄ると、彼女は黙って後ろに乗り ―― 最初にスクーターに乗って以来彼女はスカートを止めスラックスにしていた ―― 彼にしがみ付くと彼はスクーターを走らせた。そしていつもの様に僅かの時間で官舎前の道に着き、彼女はヘルメットを彼に返す。その瞬間、
「来る?」
彼女は前を向いたまま、声を掛けた。暫く間があり、やがて彼がそっぽを向いたまま、
「うん」
「じゃ、おいで」
彼女は先を歩き、彼は三歩後ろについて行く。官舎の入口へ行くと彼女はそこに立つ警備に、
「こんばんは。友達が来ているの」
三十代の警備二人は、じろりと彼の品定めをする。
「身分証を」
彼は懐から政府職員のIDパスを取り出し、それを裏返しにして一人に渡す。 警備は受け取った瞬間、ふと動きを止めたが、直ぐにパスの下に忍ばせた数枚の札を器用に手の中に納め、パスを見た振りをして彼に返した。警備は軽くお辞儀をすると道を開け、二人を通す。
「ごゆっくり」
軽い笑いと小声がその後ろ姿に返された。
彼女の部屋は最上階の四階にあった。エレベーターは最新式の音声認識で、「よんかい」とはっきり発音した彼女の声を受け、最上階に昇る。一階と同じで人は見かけないが、微かに何かの音楽が漏れ聞こえた。彼女は両側にドアの並ぶ廊下の中程で立ち止まると鍵を出し、目前のドアを開け、
「汚くても幻滅しないでね」
と囁くと、先に部屋へ入る。
続いて彼が部屋に入りドアを閉める。
「鍵、閉めて」
言われた通り鍵を閉め、靴を脱いで部屋に上がると、
「先に汗を流して。その右のドア。タオルは洗面台の上の棚にあるのを適当に使って」
彼は黙ってこれにも素直に従うと、湯船には湯を張らず、シャワーだけを使う。洗面台もバスルームもきちんと掃除が出来ていて、やや奔放な性格や、汚くても、と言った彼女の言葉からは意外な感じがした。
大きめのタオルを選んで身体を拭き、Tシャツとズボンだけをはいてタオルと上着を持ってバスルームを出る。ダイニングキッチンと奥の部屋が彼女の家だった。
そのダイニングで彼女はマグカップのコーヒーを出すと、無言でシャワールームへと消える。彼は二脚の椅子が付属した白木のテーブルに座ってアメリカンに淹れられたコーヒーを啜りながら、部屋を見回す。女性の一人暮らしにしては華やかさがなく、物が余りない感じがするが、彼自身、女性の一人暮らしの部屋など数える位しか見た事が無いので、何とも判断出来ない。フローリングに敷かれた丸い絨毯に大きな黒いクッション二つが特徴的と言えばそうだった。彼は微かに聞え出すシャワーの音に耳を傾けながら、次第に冷めるコーヒーをゆっくりと飲んだ。
シャワーの音が止まって十分ほど、カチャリとドアの音がすると、白地に薄いピンクの縞模様の部屋着を着た彼女が入って来る。そのままもう一つの部屋のドアを開け、何も言わずにダイニングの明かりを消し、ドアを閉めずに中へと消えた。
暗くなった部屋に、隣の部屋の僅かな明かりが射し込んでいる。彼はゆっくり立ち上がるとその明りの矩形の中へ入って行く。
彼が部屋に入ると、彼女は明かりを消した。闇の中、目が慣れるに従い部屋の様子が見えて来る。正面にベッドがあり、彼女が座って見上げている。彼は後ろ手にドアを閉めるとそちらへ歩いて行った。