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こうして、多分『彼方』と『此方』と呼ばれる二つの世界の存在を彼女は知ったが、それは彼女の忘れかけていた夢を、希望を思い出させる事になった。
ただ流されるまま、赤ん坊に向かって多少の波乱も無感動に生きて来た彼女。本土決戦と核交換二度の大惨事に生き残り、累々と斃れる死体の山の中から生還し、やっと幸福に生きられると思ったのに、結婚生活は虚しい日々だった。そしてリバース。エンジェルたちがいるのなら、あの時何故私の所に来なかったのか。夫との不仲が原因かも知れない。家族ごとあちらへと逃がすのが彼らの常套の様だから。
それ以来、彼女は二つの世界とエンジェルに関する情報を密かに蓄積して行った。抜き打ち監査にも耐えられるよう、外部記憶には何も残さず、コンピューター本体に組まれたオペレーションシステムのログファイルの一部に偽装して記録を取って行く。
彼方と此方が並行して存在し、時系列的には全く同じ時を歩んでいる事。しかし歴史は違い、彼方では第二次大戦も一年早く終了し、第三次大戦は起きなかった事。二つの世界は双方一部の者たちのみがその存在を知り、主に此方から彼方への行き来がある事。その際、エントランスはエンジェルのみが使用していて、政府は多数あると思えるその場所を一つも発見出来ていない事。帰還門やらゲートなどと呼ばれる、エントランスとは別のシステムの二つの世界を繋ぐ『トンネル』が存在し、政府はそちらを使っている事も知った。
この個人的な資料収集の底に流れる彼女の感情は『怨嗟』と呼んでも良いものだった。彼女にはやって来なかった幸せを享受しているリバーサーとその家族が多数存在する。
何でエンジェルたちはリバーサーを彼方へ送るのか?別にあちらで働かせたり利用するためではないことは記録で分かった。どうやら追及の手が及ばないあちらの世界の聖域のような場所に送り込み、集団生活を営んでいるようだった。政府関係者は彼方で時を待ち、リバーサーの特徴である『若い身体と老練な知識と技能』を集めて此方で一騒動企んでいる、とみる。しかし彼女はそんなことはどうでもよかった。
私は選ばれなかった。私ほど平和な彼方で安らかに暮らしたいと願うリバーサーはいないだろうに。私を差し置いて幸運を獲得したリバーサーとその家族は、確認出来ただけでも二百組以上存在する。これはリバーサー全体の二十パーセント近くになるのではないだろうか?こんな情報を国民からよく隠せ遂せたものだ、と彼女は感心した。見なくて良いものは見てはならないもの。見て見ぬ振りが当たり前の世界のこちらの事、当然かも知れないが。
こうして彼女は何食わぬ顔で、エンジェルと二つの世界の情報収集を続けていたが、それも案外早く終りがやってくる。彼女の上司たちや保安関係者は、彼女の想像以上に彼女を監視していたからだ。
例のLEVEL―AAAAAのマイクロフィルムを納めてから二ヶ月ほど経ったある日。出勤した彼女は、自分の区画に数人の男女が群れて、『愛機』が何か別の装置に繋がれ、操作されているのを見て硬直する。それを離れた所から腕組みをして見守っていた係長が、すたすたと彼女に寄り腕を掴む。
「何でしょう?」
彼女の問いに無言で睨み返すと顎をしゃくり、この大部屋の前、廊下を隔てた向かいにある応接室へと誘う。彼女の心臓は不安で痛いほどに高鳴り、それは係長に続いてその部屋に向かった時に最高度に達する。彼はドアをノックし、入れ、の声を受けてドアをサッと開けると、彼女の肩を乱暴に押して中へ押し込んだ。
「おお、我がお姫様の登場だぞ」
応接セットのソファに三人が腰掛け茶を啜っているところで、全員が立ち上がるとその中の一人、如何にも警察然とした中年男性が笑って声を掛けた。男は続けて、
「恐がらなくてもいいですよ、座りましょう、篠田さん」
彼女が座ると、立ったままの係長が、
「篠田君、こちらはある政府のプロジェクトの方たちだ。君はこちらにスカウトされた。正式には三日後、異動辞令が届くが、実際には今日から君はこちらへ出向となる」
何か含みがありそうに係長は唾を呑みこむと、
「運がいいんだぞ、篠田。本当なら今頃公安に ――」
「係長。その位でいいですよ、どうもありがとう」
先ほどの男が遮ると、係長は怒った様に一礼し、部屋を出て乱暴にドアを閉めた。
「運がいいのはあんただよ、係長。部下の責任を取らされることが無いのだからね」
男は閉まったドアへ呟くと、彼女に、
「聞いたかね?君はたった今から我々の仲間だ。これから直ぐ大宮へ向かう」
「一体、何のプロジェクトですか?私は罰せられるのですか?」
すると男は肩を竦め、
「何を以って罰するのかね?あの私にはチンプンカンプンの機械の中に残したささやかな情報ファイルのせいで、かね?正しくあのファイルによって君は我々の仲間となるのだ。あれを評価する方がいてね」
声も無い彼女を見て、男は微笑する。
「我々は省庁を超えたチームでテロリストを追っている。悪いが君の行動をこの二週間調べさせて頂いた。あのコンピューターもだ。君は専門家によると、プログラマーの勉強をしたら結構いい線行くのではないか、とさ。あれを残したのならエンジェルに興味があるだろう?そして君は奴らを恨んでいる。違うかね?」
男は、言葉を切って声もない彼女の方へ顔を寄せる。
「我々は奴らを撲滅するために一年前から組まれたチームだ。成果は上がりつつあり、チームも拡大を続けている。運が良いと君の上司は言ったが全く同感だ。何せ勝馬に乗るのだからね。チームは君のソート術とオペレート技術を必要としている。いいね?」
結局『大宮プロジェクト』と呼ばれる極秘チームに彼女は一年余り参加した。
待遇は素晴らしく、成果が上がるに付け、更に良くなった。勝ち馬に乗ったとは良く言ったもので一年後、エンジェルが壊滅した時にはチーム全員に昇進・昇給の大判振舞いが待っていた。
そして元の職場に帰って来た時、彼女は課長補佐の地位と同僚の賞讃を得ていたが彼女が最も大事にしたのは、この一年で増えた知識の方だった。