c;新開隼人
「よかったら、また話しましょう」
彼女は軽く手を振って、土手下の道へ降りて行った。
彼は直ぐにバイクを押して橋の袂を越え、坂になった国道を下った。ふと振り返ったが彼女はとうに土手沿いの道へ消えている。グローブ越しでも彼女の体温が分かった様な気がしていた。彼女が口走った、夕焼けの『彼方』。それは夢幻でなく本物であることも彼は知っていた。
新開隼人という名前は本当の氏名ではない。それは国家が彼に与えたものだった。本当の名前は開発ナンバー『A02(エーゼロツー)』。政府中枢と陸軍の共同極秘プロジェクトの結果、彼が産まれた。非科学的ともオカルトとも揶揄され決して表に現れない超能力研究、その果てに『サイ』と呼ばれる超能力を持つ者たちが出現する。それは、自由主義を標榜するも国家が全てを管理するこの手の国以外では決して許されることのないであろう行為。神学と医学倫理を無視し、幾多の犠牲の上に現われた『モンスター』たちだった。
A02とナンバリングされた実験体もその一人だった。それは他国に先んじてサイ兵器を製造することが最優先だった二十年前のこと。最初に合格とされ、後に続くサイの基準とされた開発ナンバーA01。その遺伝子情報を受け継いだ数百に及ぶ実験体のうち、最高の潜在能力を示した彼の能力開発に第一位の優先順位が付けられる。開発チームには予算が湯水の如く、人員も潤沢に与えられ、たった一人の存在に全てが投入された。結果、彼がいる。現在、彼は秘匿名称『工場』と名付けられた特殊能力者技術センターに勤務していて、いわば彼の後輩に当たる『ヒヨコ』と呼ばれる実験体の評価、訓練に明け暮れていた。
特殊能力者といえど、身体は普通の人間となんら変わりはない。A02は遺伝子操作と人工授精により生まれたいわゆる試験管ベビーだったが、幼少より高いIQと鋭い五感、類稀な運動能力を示し、ESP系の各種試験にも高い得点を上げていた。彼とそれに続く得点を上げた実験体は選抜されて、単に『中央研』と呼称される特殊能力者開発研究所が間借りする、陸軍の広大な演習駐屯地に隠された施設で共同生活を送り訓練と試験に明け暮れた。こうして成長した彼は、研究者たちの目論見通り最高度の能力値を示すサイとなり、僅か十歳で大学卒業クラスの学力認定と特殊作戦初期課程を修了した。彼は新開隼人の名を授けられ、直ちに陸軍の特殊作戦部隊(その所在地から『木更津』と呼称される)に配属、各地を転戦する。それは、自由主義陣営が共産主義陣営と対立する冷戦構造が、破綻することなく延々と続くこの世界に事欠かない世界各地の紛争への介入、お互いの陣営が正義を標榜する泥沼の殲滅戦への参加だった。
サイの戦いは間接的な欺瞞と直接的な精神攻撃に代表される。
欺瞞の典型的な例としては、歩哨の睡眠欲を高め眠りに誘う、不利な作戦行動を行わせるように敵の指揮官へ偽の情報を刷り込む、敵の部隊を危険な方向へ(地雷原や待ち伏せの罠などへと)誘導、など。精神攻撃は文字通り対象とされた人物の一時的無力化から抹殺まで。対象に不快感や嫌悪、罪悪感などを喚起、集中させ、感情面のコントロールを破壊する方法や、大量の雑多な情報を相手の記憶野に注ぎ込み記憶を喪失させる方法など様々な攻撃が開発されている。通常レベルのサイ兵器では視界の範囲内にある個人に対する攻撃が精一杯だったが、隼人クラスになると数百キロ離れた場所にいる複数の人物に、同時に違った種類の攻撃を仕掛けることが出来る。
隼人のようないわゆるサイ兵器は何もこの世界の日本だけが保持するものではない。主要な大国ではどこもサイキック研究が行なわれ、既に実戦化して部隊配備を行っている国家も両手の指に僅かに足りないくらいだった。各国は核兵器と並んでサイ兵器を最終兵器として重視し恐れ、対抗策や抑止力としてのサイ部隊の展開を競い合った。無理もない。維持管理と保守とに莫大な費用と人員を要する核兵器と違い、サイ兵器は核兵器の十分の一以下の費用と人員で同じ効果を期待出来た。大国の首脳は密かに恐れている。いつ何時、敵対する某国のサイ兵器が自分を無力化、又はこちらに気付かれることなく自国を破滅の縁に導くよう誘導するか知れたものではなかったからだ。奇襲的にそれが行なわれた場合のダメージは、先制攻撃で水爆を首都に打ち込まれる場合より大きいと言われる。何せ戦争の開始に付き物の騒乱も緊張もなく、一発の砲弾も、銃弾さえ発射されずに勝敗が決する可能性があるのだ。
このようにサイは各国の軍及び政治中枢でも注目されていたが、その存在は公然の秘密、一般に詳細が明かされることもなく、何かの折にサイの仕業と噂され報道される時でも、軍や政府のスポークスマンは「我が国にサイと呼ばれる特殊能力者は存在せず、その研究も行なっていない」「そんなものは世間一般で言うところのオカルト話に過ぎない」と否定するのが常であった。
そして、これが一番問題であったが、サイの存在は軍や政府にとって兵器以外何物でもないということだった。見かけどころか特殊能力や産まれた経緯を除けば、生物学を持ち出さなくとも人間であることに間違いはない隼人たち。高い知能と広範な知識を有する彼らは当然、自身を人間と考えている。軍も彼らを軍人として登録し、階級とそれに見合った待遇を与えていた。しかしそれは極秘事項であるサイの存在を隠蔽する手段の一つであり、本心では、サイを人間ではなくいざとなったら使い捨てることが出来る兵器としか考えていないことは確かであった。
通信と軍事技術の進化により数年前からは『レシーバー』と呼ばれる『特殊能力対抗兵』も存在する。これはマイクロタグと呼ばれる脳幹に埋め込まれた通信・脳波探知装置によりサイの能力を人工的に与えられた兵士たちのことで、志願者は外科手術と数ヶ月の訓練を経て部隊に配属され、その数は既にサイ兵器の数の数十倍に膨れ上がっている。これは何も簡易にサイを増やすことだけが目的ではなく、その対抗兵という名が示す通り、いざと言うときにサイ兵器への対抗手段となることも目的の一つであった。
こうしたことからも軍とサイとの関係は次第に微妙で難しいものとなっていた。中にはサイ兵器が制御不能となり、最悪の場合クーデターを起して政府と軍を牛耳るのではないか、などとSFもどきの警鐘を鳴らす高官もいて、益々隼人たちは保安関係者から監視されマークされる難しい存在となっている。
隼人は四車線の国道を横目にバイクを押して行く。すっかり暮れて藍色の空を見せる西へ。主に意識はバイクの不調の原因を考えることに向けられていたが、時折掠める精神の波形にも警戒は怠りなかった。『工場』の研修生かレシーバーかが訓練からか保安のためか、彼の精神を探っているのだ。今日は尾行は付いていないが、国道沿いに設置された国土監視カメラは常時彼の姿を記録しているはず。こんなことは日常茶飯事だったが、十歳から十九まで軍人として世界各地の紛争地で戦い、自身三回の負傷と数多くの左翼ゲリラや特殊部隊員を葬って軍と国家に貢献して来たというのに、未だ監視され疑われるというのは気が滅入ることに違いはなかった。
いつか自分は軍に刃向かうのかもしれない。この自分と軍双方にとって恐ろしい思考は精神の奥底に鍵をかけてしまってあった。頭に思い浮かべレシーバーに探知でもされたなら、彼は必ず処断される。そんな馬鹿な行動を自分が採るとは思えなかったが、逆にそれが兵器ではない人間としての感情を持つ自分の証、そんな気もする隼人だった。
国防のためと水銀灯が必要以上に設置され昼間のように明るい国道を、エンストしたバイクを押して歩いて行く。普段ならこの道を疾走しているところだ。『工場』から多摩の丘陵にある官舎までバイクで帰るこの時間は、言わば彼の息抜きだった。いつもなら運転とうるさい蝿のような触る精神波以外に意識を振り向けることのない彼だったが今夜は運転できない。ふと彼女の姿が頭に浮かび、思わず困惑する。
―― あの人は抱き心地が良さそうだ
そんな思いが過ぎり思わず苦笑した。一時性欲を満たすだけの刹那的な交渉は幾度もあったが、それが好きかと問われれば、そんなに、と答えるしかない。何故そんな邪な思いが浮かんだのだろうか?
そこで彼はバイクをスタンドさせると額に浮かぶ汗を手で払い、一緒に雑念も振り払った。煙草を取り出し、オイルライターで火を点ける。フーっと吐き出す煙に水銀灯が当たり一瞬不可思議な模様を見せるが、渦巻く煙はあっという間に風に流される。
まあ、いい。多少遅れても構わない。どうせ監視されていて、こちらが連絡しなくても官舎への到着が遅れることなど知らせが行くに違いない。それに修理屋は直ぐそこだ。五分もすれば着くだろう。隼人は煙草を投げ捨てると再びバイクを押して行く。