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b;篠田瑛子

 彼女の夫は浮気をしていた。それは気付いていた。


 夫婦として七年過ごした。子供は一人、男の子だった。彼の浮気に気付いても絶望はなかった。それまでの半生で、十分に絶望していたからだ。


 この結婚も上司のたっての頼みで逆らえなかった。夫は政府職員で中間管理職、彼女は知る由も無いが、多少軽薄なところも散見されるが根は真面目な性格、と考課表に書かれていた。つまりは可もなく不可も無い、と言う事だ。

 それは彼女も感じていて、同僚との浮気に感付いた時に怒りより驚きを感じたのもそのせい、この人がそんな器用な事を、と思ったものだ。けれど、離婚どころか浮気を暴露して夫を取り戻す事もしなかった。そんな事をしてもお互い身の破滅だ。公務員が国民の三分の一にも及ぶ国の事、本音はどうであれ建前としての規律と風紀は厳しかった。


 正にそんな時、彼女はリバースした。四十一歳の誕生日を一週間後に控えた時だった。


 彼女の夫は彼女がリバーサーとなった事を喜んだ。当然別れる口実になるからだった。リバーサーは国家に収監され家族と別れる。勿論籍は残してもよいが、この先一緒に暮らせる可能性は低い。従って離婚するケースが多かった。

 彼女もそうなった。当時六歳の、たった一人の子供とも生き別れた。


 彼女が目覚めた時、リバース時の昏睡後、既に三ヶ月が過ぎていた。彼女にしてみれば、遅い夕飯の支度で台所に立ち、時計を見上げ八時数分前と確認した直後、気が付くとベッドの上、白い天井を見上げていた、と言う事になる。その間の記憶は一切ない。

 点滴がなされ、計測機器の電極が腕や胸にテープで止められている。辺りを見渡すと正に病院の個室と思われ、枕元の目覚まし時計は十二時丁度を示していた。眩しい位に陽が降り注ぐ窓は角度が悪く外は見えなかったが、そちらに目を遣った瞬間、サイレンが鳴り響いた。

―― ああ、お昼か

 朦朧とした意識で現実感が喪失していた彼女はぼんやりとそう思う。半身を起そうとしたが酷い眩暈を感じ、再び枕に頭を落とす。すると看護師がドアを開け、続けて白衣姿の医師が入室した。

「おお、目覚めましたね」

 医師は彼女に笑い掛けると、彼女が尋ねる前に、

「貴女はリバースしました。リバース睡眠に入って今日で……九十五日目、ああ今日は五月十九日です。東京でも桜がほころび始めましたよ。満開までには退院出来るでしょう。眩暈がしませんか?三ヶ月も眠っていたんだ、無理もありませんから心配要りませんよ。あと二日もすれば起き上がれるでしょう」

 医師は彼女が口を挟む間もなくしゃべり続ける。

「ご家族には直ぐにでも連絡を入れます。今夜にもお逢い出来ますよ」

「でもリバーサーは……」

 口が粘張ついて話辛かった。

「そう、『幻歳者の保護管理に関する法』ですよね?それについては明日『グリック』、ああ、幻歳者擁護支援中央委員会の方が来て説明すると思いますよ」

 その夜。病室に現れた夫は上機嫌だった。限りなく優しく、妻がリバースして離れ離れにならなくてはならない悲劇の夫、それでも国のためを思い耐える夫を演じていた。彼女が眠っていた三ヶ月間、一体何を言い含められたのか子供は笑顔もなく、何かグロテスクな動物でも見るように無言で母親を眺めるだけだった。それを見て彼女はもう、どうでもよくなった。


 翌朝現われたグリックの二人連れは、妙に明るく彼女に接して明るい未来を語った。

 幻歳者擁護支援中央委員会、英訳の略称から来る通称『グリック』は、『幻歳者の保護管理に関する法』を根拠にリバーサーを保護確保し、国家の使役に宛がい管理する中央省庁だった。無論彼女もそれを知っていたが、まさか自分がそんな組織の管理下に置かれるとは思いもしなかった。

 そんな彼女の思いを知ってか、知らずか、二人は代わる代わる今後の彼女の運命を語る。まるで生命保険の売り込みのようだった。

曰く、自動的に国家公務員となること。本人の資質に合った資格を学び、それぞれの得意分野でスペシャリストとして活躍する未来。昇進と栄誉、カネ。全て本人の努力次第で叶うという。

 彼女がぼんやりと生返事をし、よく読みもしないでびっしりと文字が埋められた書類に二、三箇所署名と捺印をすると、男たちは数日後の再開を約して帰って行った。


 それから数日、ベッドでぼんやりと過ごした後、約束通りグリックから迎えが来て、その瞬間から彼女は国家の『所有物』になった。結局夫と子供は現れず、数日後にグリックに夫の判が押された離婚届が郵送されて来た。

 夫は結局浮気相手と再婚したらしい。あの子は、今頃継母の作った夕飯を食べているのだろうか?好きな子はいるのだろうか?やがて結婚し、子供・孫が生まれるのだろうか。

 妄想も、考えるのも嫌になる位、重ねた。それはいつも最後に虚しさを募らせるだけの結果に終わる。しかしそれにも、もう慣れた。仕事に疲れ、家路を辿る時、彼女は必ずひと駅手前に降りて、歩いて橋を渡った。歩きながら、何時でも自分の半生を振り返り、その痛みを、悲しみを繰り返し思い返し、涙も枯れた心に憤りを、恨みを刷り込んだ。

 ただそうする事だけが彼女の生きている実感、精神こころに鈍い痛みを感じることだけが自分の生の証しだったのだ。



 二人は暫く当たり障りのない世間話をした後、闇が迫り、既にすっかり夜に取って代わられた橋の袂で別れる。別れ際、彼女がふと思い付いた様に、

「貴方、通信端末ケータイ持っている?」

 五年程前に漸く一般にも販売が許可された通信端末 ―― 携帯電話は非常に高価かつ所持者に制限のある代物だった。

「いや、持ってない」

「そう、残念ね。じゃ、こうする。私は夕焼けの日、いつでもここで空を眺めているから」

 そう言うと、彼のバイクのハンドルを握る左手に右手を触れて、

「よかったら、また話しましょう」

 そして軽く手を振って、土手下の道へ降りて行った。

 彼女が下の道へ降りて振り返ると、もう彼は見えなかった。グローブ越しでも彼のしなやかな指の感触が分かった様な気がした。結局彼は彼女が口走った、夕焼けの『彼方』については尋ねもしなかった。彼が単なる戯言と無視した可能性が高いが、こんな極秘事項を彼女が見知らぬ他人の前で呟いたと知ったら、彼女の上司は卒倒ものだろう。彼、もしかして知っているのだろうか、『ファイブA』なのか? 

―― 一体、どうして話す気になったのだろう?

 赤の他人に話し掛けようと思ったのは、随分と久々だった。ちょっとかわいい男の子だったからかも知れない。全てを失った自分は、あと十数年で死ぬのだ。もう他人に深く関わって嫌な思いをしたり、余計な痛みを背負い込んだりするのは沢山だと思って来たのに。だから今の仕事に就いて十年余り、当たり障りのない、しかしひたすら個を殺して生きる同僚たちよりは、余程刺激的な生活を送って来たつもりだ。

 人には合わせ、かと言って集団の中に埋没するのではなく、どこか気安く群れる事が出来る如才なさと同時に、奔放な一面を見せる。個人主義の危険思想を持つ疑いにより幾度か公安当局に審査対象とされた過去もあった。しかしその仕事振りは非の付け所がなく、時折見せるユニークな発想は上司をして手放せない存在と公課表に記入させた。人は、彼女は屈託が無く奔放だが、根は真面目、堅苦しくない明るい性格、と思っている。当てはまらないピースだらけのジグソーの様で捉え所が無いが、今のところ異性関係以外、保安部署がマークするほどの危険は無い。

 仕事振りは熱心で有能、友人も多く、有力者の愛人だった事もあり……とにかく世渡りは彼女自身が思う以上に上手にやって来た。

 このまま赤ん坊に向かってどんどん幼稚化して行き、やがて一人では何も出来なくなり、記憶も知能も徐々に失われ、最後には昏睡して死ぬ。それがリバーサーとなった自分の運命。

 老醜を晒して死んで行く普通の人間に比べ、リバーサーの死は美しい、などと言われるが死ぬ事には変わりが無い。老いを知ることなく奇麗なまま死ねていい、二度目の青春を迎える事が出来ていい、などと言われるが、若さは愚かさも兼ねるのだという事を皆、忘れている。思考と記憶が六十歳のまま身体が二十歳!なってみるがいい。いくら頭では分かっていても身体が持て余すのだ。この後訪れるであろうあの思春期の辛さ。あれをもう一度味わうなど、彼女は御免だと思っていた。

 とは言え、仕事に習熟したまま身体は若くなって行き、体力・気力は反比例的に増すのでリバーサーはどこでも引く手あまただった。大概は監視下で集団生活を送る者が多いが、彼女の様に有力者のつてがあり、保安上も問題ないとされた者には一定の自由と生活基盤を与えられ、個人で生活出来る。

―― 私は離婚したし、逃げ帰るところも無いし

 一般には都市伝説オカルトとされるが、彼女は知っている『エンジェル』なる集団がいる。彼らは政府にテロリスト集団として認定され、司法当局が発見次第、抵抗すれば射殺も許可されている。リバーサーを拉致し何処かへ連れ去ると噂されるが、リバース直後に現れる事が多いと言われる彼らは、結局彼女の前に現れる事はなかった。

 だから彼女は今もこうしている。現状に不満はない。独り身の寂しさはあるが、それも馴れた。それに、彼女の行動的な性格や少々奔放な性格も手伝って、異性との付き合いに困った事はない。許される範囲で大人の付き合いを許した男は十人程、どの関係も長いものではなく、数ヶ月続く事もなかった。しかし慎重に相手は選んだので、それなりの生活向上やコネを得る事は出来た。関係が終わっても友人関係でいる実力者の男も数人いる。

 そう、この国では恵まれた生活だと言えるのだが、それでも……幼児になる前にやりたいことがある。


 あの夕焼けの向こう、リバーサーのいない、核の冬も分裂国家の歴史も持たないという、幸せなユートピアを見てみたいのだ。



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