r; 変わること
兼田の予告通りに二十分後、四階建てアパート風の白い官舎群が彼らの目の前に広がっていた。
どこの施設でもそうだが、有事に備えて出来る限り標識・看板類を省略する国の方針のため、ここにも看板やサインはない。しかし隼人は、たちまちこの場所に通い慣れた親近感を覚え、ざっと捜索しただけで正確に彼女の居場所を特定した。彼女は起きている。その存在がまるで遠くの焚き火の様に、その方向から微かな熱としてはっきりと感じられた。
今まで、あの橋にいた時からサーチはやらなかった。兼田を信じていたせいもあるが、探ってもし彼女がいなかった時、そこで夢が覚めてしまう様な、そんな非現実な感覚に怯えていたのだ。
夢でも構わない、そこで彼女に会い、相手が理解しようがしまいが、さようなら、と言ってしまいたかった。夢なら、夢が覚めるのはそれからでいい。
隼人が拳を握り締め、立ち尽くして官舎を眺めているのを兼田は黙って見ていたが、やがて、
「さあて、ここでおとなしくしていろよ。今、段取りを付けて来る。いいか、あんたは臨時に武警へ派遣された特殊部隊の士官だ。木更津のIDは持っているよな?」
「ああ」
「なら今夜はそっちの顔でいて貰おうか」
「分かった」
「それと、接見中は彼女にアクセスなんかするな。その途端、色んな所からわんさかと保安関係者が押し寄せて来るからね。これは誇張じゃないぜ?」
「分かった」
「じゃ、どこにも行かず、ここで待っていろよ」
兼田は制帽を被り、真夜中なのにサングラスまで掛けると、官舎の正門へ消えた。
隼人はタバコを取り出すと火を付け、空を見上げる。首都圏より澄んだ夜空に白鳥や蠍、鷲や竪琴などが煌びやかに瞬いていた。この辺りにはこの官舎群位しか明るい場所がない。星を見るにはちょうどよさそうだ。
十一の歳、初めてキナ臭い土地へ送られ、今一つ信用出来ない現地軍と共にゲリラと戦った。その時隼人が所属した『軍事顧問団』の軍曹が、こうして空を見上げ、様々な星座の形や星の物語を聞かせてくれたものだ。
もはや遥か昔に思える。あの空とこの空では随分違う。勿論、緯度が違うので、あの時見えていた十字架や伝説の冒険船は見るべくもないが、そんな実存ばかりでなく、心象も全く違って見える。もう遥かに遠い昔の話だが……彼は車の脇、車体が官舎を照らす水銀灯を遮る位置に腰を降ろし、タバコをゆっくりくゆらせながら、天を仰いで星を眺め続けた。
十分後、兼田がもう一人、制服姿の警備員を伴って帰って来ると、
「新開中尉、待たせたな。では頼む。『参考人』を集会室に呼んで貰った。用意はいいかな?」
「ああ、いいよ」
「では、行こうか」
官舎は標準乙一型と呼ばれる造りで、全国どこでも見られるタイプだった。施設に常備される共有の備品調度も全く同じ設えで、都市部と地方の差別などは存在しない。
この事については面白い話もある。
大宮から神戸へ転勤した男が間違えて、以前住んでいた部屋番号と同じ部屋に入ったら ―― 鍵が同じだった事は言うまでもないだろう ―― 自分と全く瓜二つ、同じ人間がいた、と、あるSF作家が掌編をものにしているのだ。
これは地域格差をなくす一つの方法だったが、実際は個性を出来る限り封印する一貫でもある。
二人は警備員を案内に集会室へ向ったが、当然ながら兼田も隼人も案内なぞはいらなかった。警備員 ―― これも総務省傘下の公務員だ ―― が付いているのは二人が余計な事を、例えば盗聴器などを密かに仕掛けたりしない様、見張るために他ならない。
隼人の官舎は標準甲二、以前篠田が住んでいた多摩川縁の官舎は甲四、ここは乙一型と微妙にタイプは異なっているが、集会室などの施設は全く同じ位置にある。警備員がその部屋のドアをノックし、中を覗くと、
「どうぞお掛けになってお待ち下さい」
二人に中を示すと去って行った。二人はどこにでもある折畳みのテーブルを前に標準備品のパイプ椅子に腰掛ける。立ち去った警備員と入れ代わり、ほとんど間を置かずにノックがあり、入って来たのは頭が禿上がった小男だった。
「よくいらっしゃいました。この官舎群の管理をしておりますノダ、と申します。お茶はそこの給茶機をご自由にお使い下さい。紙コップは横にありますので」
「篠田瑛子は?」
話を遮り、サングラスを掛けたままの兼田は、一般人が武警に抱くイメージそのままに高飛車に問う。
「いや、それはもう、直ぐに参ります、何分寝ていた様ですので」
集会室の壁に掛かる時計も十一時を回っている。独身寮では消灯時間だ。と言っても廊下や階段が半分消灯されるだけ、部屋からの出入りを謹むと言う意味合いだった。
「五分だ。様子を見て来て頂きたいが」
兼田が野田に命令口調で言うと、噂をすれば、の例え通にノックがあり、男が二人、続けて紺のトレーニングウェア上下にクリーム色のカーディガンを羽織った彼女が入って来た。
「いや、お待たせしました。私は東北管区第七十一地区警護隊、モトムラという者です。こちらは同僚のカトウ」
兼田と隼人は立ち上がり、
「初めまして、警視庁第四制限居住区警護隊、兼田です。こちらはオブザーバーとして陸軍から参加して頂いている新開中尉です」
お互い敬礼を交わすと元村が、
「時間も遅いので進めましょう、ああ、野田さん、よろしいですよ。篠田さん、こちらへお掛け下さい」
野田が逃げる様に出て行ったのも、加藤が茶を紙コップに注いで皆に配り、隼人の前に紙コップを置いた時、一瞬鋭い視線を送ったのも彼には見えていない。隼人には彼女しか見えていなかった。
彼女の印象は全く違っていた。戸惑った曖昧な笑み、ぎこちなく緩慢な動作、椅子を引いてテーブルから少し離れて浅く腰掛ける様子。そのどれもが隼人の識る彼女ではなかった。幾夜も精神が見ていた彼女とも違い、寝付かれぬ様子に寝返りを打つ仕草にさえ、目の前の彼女ならゆっくり静かにしそうに見える。
この差は一体なんだろう?彼は落胆と共に首を傾げる。だが、本当の理由は彼にもはっきりしていて、それを意識的に認めたくなかったのだ。
精神を分離し他人の精神を見る場合、五感は本体に置いてあるため使えない。いわゆる六感で感知する。六感が働くからこその能力だが、所詮六感も人間である能力者が扱う感覚、主観や体調に大きく左右されてしまう。しかも元来他の感覚と違い、象にならないもの、記憶や夢、希望や想い等を他の五感に置き換えて見せる感覚のため、現実を描写するのを苦手とする。遠隔から精神を通じて実存の物を『見る』ためには、本人の知識や記憶を利用するのだ。
実際、未知の事象を描写するには、かなり想像力を駆使しなくてはならない。経験と知識が能力を高め、遠方の事象を『色付け』し実際に近付ける。
彼女の印象が精神の遠隔視と違っていたのは、若い彼が見たくない現実を無意識に嫌い、彼の精神が実像を歪め、思い描く理想に沿って拡大解釈で示していたのに違いない。
座ってこちらを伺う彼女は緊張が透けて見える程で、全く以て彼の識る彼女らしさがない。彼女の両側に二人の地元武警士官が座り、隼人と兼田は三人と向かい合った。
「私は」
と元村が切り出す。
「参考人尋問の立ち会いとして同席させて頂く。加藤は弁護士でもあるので、臨時に彼女の弁護人として参加する。では始めて下さい」
「分かりました」
兼田は手帳を取り出すと、
「こんな遅い時間に済みませんな、篠田さん。これはある事件の捜査の予備尋問となります。最初にお断わりして置きますが、貴女は被疑者として手配されたり、疑われたりしているのではありません。偶然、事件の背景に関連しておられるだけです。但し、質問には出来る限り正確に、正直にお答え頂きたい。もし、記憶になかったり記憶が曖昧になっていたりする場合は、記憶にありません、とか、はっきりと覚えていません、などとお答え下さい。また、答えたくない場合は答えなくてもよろしい。答えたくありません、と言って下さい。但し、後日、こちらが貴女にどうしても答えて頂かなくてはならなくなった場合、再度尋問に伺うか出頭して頂きます。勿論、その時はどんな事にも答えて頂きます。貴女の話した内容は証言として採用される事がある。しかし、プライバシーは捜査上やむを得ない場合以外保護され、貴女が話した内容は捜査関係者以外に流れる事はありません。ご理解頂けましたか?」
「あ……はい」
元村に促され彼女が答える。隼人の目には、その顔は、暴漢に追い詰められた女の表情そのままに見えた。
それからおよそ一時間、兼田の尋問は続いた。
内容は情報漏洩に関するもので、彼女の前の職場、国家情報センターで起きたスパイ事件の捜査だった。
兼田は手帳に記された質問を一つずつ尋ね、容疑者である彼女の元同僚の女の人間関係、噂、行動などを明らかにしていった。彼女は恐れ戸惑いながらも小さな声で答え、時折考え込んで、覚えておりません、と答える事もあったが、ほぼ完全に知っている事は話している、と、見ていた三人のプロは考えた。
その一人、隼人はずっと彼女の顔を眺めていたが、彼女の視線がこちらに流れても、その瞳には彼に対する感情を伺わせる何らかの輝きは一切感じられなかった。
理解していても辛い事には変わりはない。
隼人は我知らず肩を落し、珍しく落胆の表情を浮かべたが、正面に座った加藤という武警の若い男が興味深そうに彼の顔を眺めている事に気付き、目を擦って表情を改め、その後は何時ものポーカーフェイスを崩さなかった。