o; 武警の男
その夜。彼は尾行する監視車両二台をお供に、久し振りに自分のバイクで多摩の丘陵地帯を飛ばした。
政府機関が占有するため制限地帯と呼ばれる広大な国有地は手付かずに自然が残され、今は紅葉の終り、散り始めた落ち葉の絨毯が奇麗な時期だった。しかし、この地に立てるのは限られた人間だけだった。
地域内では六車線の立派な国道が走り、政府直轄の研究施設や軍の施設などが点在するこの地は、この国の影の部分を代表する場所とも言えた。深夜には外出制限が実施されるが、軍人の隼人には関係がない。ただ、彼の監視を割り当てられたこの地の保安関係者は、運が無いと言えるだろう。
彼は監視カメラのない脇道へ入り込むと、監視の四駆でも入る事が出来ない山道へとバイクを駆る。モトクロスであるかの様に急な非舗装の坂を登り、過酷な扱いにエンジンが悲鳴の様なかん高い音を発する中、監視を置き去りにした。別に悪意を以て監視を撒いたのではない。独りになりたかっただけだ。
悪路の果ては、ざっくり割られた山肌が垂直に近い崖となった場所で、最早道とは呼べない山道。登り勾配のまま中空に登って行くかの様にそこで断ち切られていた。彼は崩れ易そうな縁を避けてバイクを停めると、熊笹の覆う斜面を崖に沿って歩いた。空に映える地上光のハレーションで、闇に慣れた目には物の輪郭が分かる程度の照度があった。とは言え半月の沈んだ深夜、通常の人間なら崖から転落してもおかしくない中、彼がまるで昼間にハイキングでも出掛ける様に歩いたのは、特殊部隊に所属する士官からか、能力の賜物だろうか。
やがて急な起伏の連続する斜面は緩やかになり、笹の茂みも途絶え、背の低い枯れ草が一面に覆う空き地になった。彼は一本の楢の根元に歩み寄り、座り込み、幹に寄り掛かって夜空を見上げた。
そこから見上げる夜空は満月の夜に匹敵しそうに明るい。制限区に点在する研究所や工場などの施設が保安のために夜も徨徨と外灯を点け、構内を昼間の様にしているからだ。
勿論こんな事をすれば、決して友好的でない近隣諸国や北の大国の偵察衛星に夜も良い仕事をさせる事になる。夜は民家の明かりが消えるので、重要施設の判別もし易い。しかし、真っ暗闇のリスクを考えれば明るくした方が良いに決まっている。現在は近隣諸国とは奇襲で空爆を受けることなど考えられないまでに緊張は緩和されていた。
彼は一つ深呼吸すると、始めた。
精神を空高く飛び立たせ、彼の目標を、たった一人の心を探す。
無駄な事は分かっている。運に恵まれれば探し当てる事も出来るだろうが、それも限りなくゼロに近い確率だろう。何しろ彼女を彼から遠ざけた者たちは、彼の能力を熟知している。そして、人間の行動パターンや思考のメカニズム解析に関しては、この世界は悪魔的に進んでいるのだ。彼の行動は彼らの想定の範囲内の筈だ。
二時間が過ぎ、三時間が過ぎた。疲労でがっくりと項垂れた彼は、それでも集中を持続しようと必死になり、砂粒を数える様な虚しい行為を続けていた。しかし、何度サーチしようと見当も付かないのでは、たった独りきりの探索の事、自ずと限度がある。それに、幾ら彼の存在が貴重であったとしても、国の威信を踏み付けにしてまで続けることなど許される訳がない。この位で諦めないと彼だけでなく、人造のサイたち全体が影響を被る事となるだろう。
結局自分たちは兵器なのだ。兵器は使う者を裏切らない。もし使う者の意に沿わないのなら壊されるだけだ。これで終わりか、と思うと、自分でも驚く程の衝撃がやって来た。
彼はそれまで、喪失感というものを今ひとつ理解出来ないでいた。
非能力者に思考潜入すると、大抵の者が心の傷として持っている感覚。厳しい歴史と現状は人々から様々なものを奪うが、それを悔い、惜しみ、懐かしみ、悲しむ、その想いのカケラ。
彼には家族はなく、父母すらない。兄弟と思えるサイの先輩後輩はいたが、血は繋がっている ―― 遺伝子レベルの話だが ―― とはいうものの、実際兄弟と呼び合う関係ではない。
今まで軍に育てられるがまま、感情を抑制し常に冷静でいる様に教育され刷り込まれて来た。何か大切なものを無くすという喪失感は、感情を抑制する事で個を殺し、集団に馴染ませる事に血道を上げる軍にとっては忌避すべき感情だった。例えば戦友を失う事に耐えられない兵士を持つ事は軍の、ひいては国の弱体に繋がるからだ。ましてや兵器であるサイはそんな感情を持て遊んではならない。そんな危険な感情を彼は今、生まれて初めて持ったのだった。
東の空が白み、凍えそうな程澄んだ空気に、息が真っ白な湯気に変わるのがよく見えるようになった明け方に近い時間。哨然として山道を下る彼の姿があった。
道が車両でも通行出来るようになる幅を持つ、昨夜彼が監視する者たちを置き去りにした場所。赤い回転灯と白と黒のツートンカラーが目立つ高機動四輪駆動車が二台停まっていた。周りには軍とは違う迷彩服姿にキャップを被った兵士たちが屯している。全員拳銃を腰ホルスターに収めているだけでライフルなどはない。非常に落ち着いた雰囲気は逆に彼らがプロ中のプロ的な存在である事を窺わせる。彼が手ぶらで小道を歩いて来ても、誰一人驚いた様子を見せず、ただじっと彼の動作を見つめるだけだった。
彼は道が広がるその手前で立ち止まり、待った。緊迫した瞬間は一瞬で、兵士の中でたった一人髯を蓄え、無帽の男が彼に近寄ると、誰かが止めていた息を吐き出す音が聞こえた。
「おはよう、中尉さん」
男はまるで近所の知り合いに挨拶をする様に、気さくに声を掛けると、砕けた敬礼をしながら、
「首都圏第四制限居住区警護隊のカネダ、と言う者です。少しよろしいかな?」
彼も敬礼すると、
「仕事は八時半からなので、一度着替えに官舎へ帰りたいけれど、ダメかな?」
「いや、大丈夫でしょう。別にあんたを逮捕する訳じゃあないですからね。ただ少し話をしたいだけですよ」
兼田は横に停まっていた四駆のドアを開けると、
「まあ、立ち話もなんだからね」
彼を後部座席に誘い、自分は後から乗り込んだ。ドアを閉めるなり兼田は、
「バイクはどうしたね?」
「まだ上に置いてある」
「壊したのかい?」
「いや」
「そうか。後で人を遣って回収しておくよ。官舎へは俺が送る。お宅の保安部には話を通してあるから大丈夫だ。着替えたら仕事場へはウチのモンが送ってく。帰りには乗れる様にバイクも届けておくよ。ああ、ちゃんと修理屋に届けさせる。武警がどうしたんだ、なんて職場の人が驚かない様気を使うから、心配しなくていい」
「それはどうもご親切に」
皮肉にも微笑を絶やさない兼田は、
「なあに、人より最先端で働いている方への好意だよ、中尉。ああ、俺も中尉だから余計な気遣いは無用だ。まあ、武警の階級は軍の一ランク下だとお宅ら陸の方々はお考えの様だがね」
「僕はそんな風に考えてないから、兼田さん」
「ありがとう、きちんと話が出来そうでうれしいよ、新開君」
「それで話って?」
「そうさな……『何も要らない』と啖呵は切っても、内心は納得出来ないんだろう? でも人間、怒りに燃えていたって腹は減るしクソもする。とりあえずは、落ち着いたかい?」
隼人は無表情に、
「何が?」
兼田は笑いを大きくして、
「心配するなって、何も仕掛けてない。ああ、これ、点けるか?」
兼田はグローブボックスを開けると中の黒い装置を見せ、
「ただ、こいつを点けるとあんたも俺の頭の中、覗けなくなるが」
隼人はまだ兼田に思考潜入していなかったが、それを聞いて思わず笑みを浮かべた。
「武警の中尉さんにしては、随分と色々知ってるね」
兼田も笑顔で、
「バイク好きの技術中尉さんが色々知っている様にね。もっとも十九で中尉って言うのはちょっとすごいが。俺は三十路目前でやっとこさ中尉さ。『ファイブA』は、とあるおエラいさんが酔狂で付けたんだ。俺の実力じゃないよ」
「分かった、真面目に尋問を受けるよ」
「尋問じゃないさ、話をしたいだけだと言ったろう?」
兼田はそう言うと、視線を窓の外へやり、
「まあね、人の好き嫌いってぇやつは、どんなに押さえ付けても心底消し去る事は出来ないわなぁ。不粋な話だが今の世の中、そんな我慢で成り立ってやがる。俺は白を黒と言え、とやるお上のお先棒担ぐ組織にいる訳だが、そんな俺でも時たま無情さに遣る瀬なくなるものさ。信じられないだろう?」
「いいや。あなたならそう言う事もあるだろう、と思うことにするよ」
皮肉を籠めた隼人の口調に、なんと顔を赤らめた兼田は、
「あ、スマン。前口上は余計ってことだな?じゃ、本題だ。俺の仲間を撒いて一晩山で過ごした。これで多少気は済んだんだろうね?」
「済んだ、と言ったら嘘になる」
「まあね。そうだろうよ。本音をありがとう。但し、他のヤツにはそんな事言うなよ」
「分かっている」
「まだ俺たちと追い駆けっこするつもりかい?」
隼人は腕を頭の後ろで組むと、シートに深く凭れる。そうしてから、漸く答えた。
「これ以上やったらそちらも大変だし、僕もタダでは済まなくなりそうだからね。今後は大人しくするよ」
兼田は大きく頷くと、
「それならいい、助かるよ。いや、引き留めて悪かったね。あんたが自分の置かれた立場を渋々認める位に頭を冷やしたかどうか、そいつが知りたかっただけでね。さあ、送ろう」
「ひとつ聞いてもいいかな」
ぶっきらぼうと呼べる程の冷めた口調で隼人は聞く。
「なんだい?」
「彼女はどうしている?これからどうなるんだ?」
兼田は薄笑いを浮かべ、
「何故俺に聞く?俺は警護隊のゴリラ野郎で防諜や思想統制所属じゃないぜ?」
隼人はじろりと兼田を睨み、
「僕にそう言う事を言っても無駄だと知っているくせに」
兼田は肩を竦め、少しの間、黙考したが、
「はいよ。しゃあないな。本当は言ってはならんと言われているが、まあ、いいさ。心配しなくていい。篠田さんは元気に新しい職場に移ったらしい」
「洗脳して、か?」
「痛いトコ突くなあ。細心の注意を払って、彼女自身気付かない様にしているとさ。睡眠時心理偏向操作、とかなんとか言うヤツだが、俺は専門でないから詳しくは知らん。もう数週間掛けるらしいが、もう、ほぼ記憶は消されている。本人も全く気付いた様子はないそうだ」
睡眠時深層心理偏向操作。薬に頼る場合と『ラビリンスプログラム』と呼ばれる催眠誘導があるが、果たして奴らは薬を使ったろうか?
暗示を何層にも渡って複雑に仕掛け、特定の記憶に鍵を掛けたり、別の記憶に置き換えたりする『ラビリンスプログラム』は、解放戦争が終わった六十年頃から始められたという。長い間催眠術師と精神科の医師が行なって来たが、最近ではサイが行なうケースが増えていて、隼人もさんざん手伝って来た。引き替え、薬物対症法はストレートに記憶を破壊し、忘れさせる。例えるなら部屋に何重にも鍵を掛け侵入出来なくするラビリンスプログラムに対し、薬物対症法は部屋そのものを吹っ飛ばしてしまうのだ。
やったはずだ。ラビリンスプログラムではそれを熟知する隼人なら鍵を開けてしまう可能性がある。キーワードやキーパターンを読み解かねばならないが、可能性はゼロでない。ならば奴らは薬を使ったに違いない。そして薬は……
隼人の葛藤を兼田は穏やかと言ってよい表情で黙って眺めていた。やがて隼人は、
「彼女はこれで何か不利益になる様な事はなかったのだろうか?」
兼田は肩を竦め、
「不利益とは見る人間によって随分変わるからな。彼女が今まで以上に管理下に置かれ、観察監の目に常に晒される様になった事は不利益だろうか?目が届かないと何か外れた事をしでかす者は、いつかは裁かれるものだよ。そうなる前に踏み止まるため、観察監がいる、そう思えばそれは不利益ではない。仕事の内容がレベル・スリー以上の機密を扱う情報センターから、レベル・ツー以下の戸籍やら土地台帳やらを扱う部署に異動したのも、不利益と呼べるものではない。返って仕事は楽になったのだからね」
兼田は腕を組んで彼の目を真っ直ぐに見つめる。その声は次第に真摯となり、何か熱いものを含んでいる様に聞こえる。
「あんたを知る前の彼女はどうだった?幸せだったろうか?夕日を眺め、想像の範疇でしかない異界に憧れ、現実に絶望していたのではなかったかな?あんたに出会う事で、彼女は通常のリバーサーではありえない、本当の意味での二度目の青春を味わう事が出来た。普通の人間では絶対に味わう事が出来ない感情だよ、なんとも羨ましい限りだとは思わないかい?その幸せが彼女に記憶されないのは残念だが、聞くところによると、何か懐かしい感じや楽しい一時と言った、漠然としたものは残るのだそうだね。それをして、彼女は以前より幸福になった、と思うのは間違いだろうか?」
兼田は口を閉じると腕組みを解き、身を乗り出し、彼の顔を覗き込む様にしながら視線を外さなかった。
やがて、隼人が兼田の目を覗きこんだまま、
「官舎に帰っていいかな」
そうぽつりと呟いた。兼田は、
「もちろんだ」
詰めていた息を吐き出すと共にそう言って隼人の肩を叩くと、一旦ドアを開け、外に出た。アイコンタクトで部下に合図すると運転席のドアを開け、シートに座ってドアを閉じ、サイドブレーキを外すとゆっくり走り出した。後ろから部下がもう一台で付いて来る。兼田は考え込む様子の隼人を時折ミラーで見ていたが何も言わなかった。
隼人の官舎は、高い塀に囲われた広大な敷地の中にあった。兼田はゲートの門衛にひらひらと身分証を振って見せ、さっさと入り込む。ここは、政府公用地にある諸施設に働く独身男女のための寮で、所属により棟分けがされていた。
隼人の部屋は軍の開発・実験施設に勤務する士官が入る棟にあり、最上階の六階角部屋、勿論個室で、その階では最も若く、佐官や将軍までいる中で唯一の尉官だった。
何の表示もないコンクリート打ちっ放しの建物の前に、ぴたりと四駆を寄せて停めた兼田は、自分独りの世界に浸っている様に見える隼人に、
「着いたよ」
と声を掛けた。しかし、隼人は目を閉じたまま動かない。兼田も心得たものでハンドルに手を掛けたまま、じっと前を向いていた。
二分は過ぎた頃、隼人が身じろぎし、兼田がおもむろに振り返ると、
「ありがとう」
掠れた声で隼人が言う。
「いや、礼には及ばない。給料の内さ」
「そうかな?あなたを寄越した人は出来た人だね。それとも、あなたは自分から志願して来たのかな?どちらにしても、他の人だったらもっと嫌な思いをしていたと思う」
兼田は照れた様に笑い、
「そう買い被るなよ。俺はそんな善人じゃないぜ。」
すると隼人は改めて、
「兼田さん」
何を見ているのか、窓の外をじっと見つめる隼人に兼田は、
「なんだい?」
「あなたは不思議な人だね。自分ではこれっぽっちも信じていない事を教条的に語る。その信じてもいない事を護るために警官をやっている。あなたの精神は諦めに満ちているが絶望感はどこにもない。そんなあなたを見ていると、まるで自分に言い聞かせている様にも見える。気付いているのかな?」
普通に取るなら隼人の強烈な皮肉、しっぺ返しと考える。しかし、兼田は怒る事も笑い飛ばす事もせず、ただ一言、
「嫌になる位、知っているさ」
と低い声で言った。その顔は、まるで死に際した老人の様に、全てを諦め全てを惜しむかの様な、何とも哀しげなものだった。隼人はそれ以上何も言わず、自らドアを開け、自分の官舎へと真っ直ぐに歩いて消えた。




