m;ディストピア
次の夕焼けまでは少し間隔が空き、彼女がグリック保安部の訪問を受けた四日後、隼人と最後に会ってからは一週間が経っていた。
彼はいつもの様に夕焼けの前兆を捕らえると『工場』を定時に出て、多摩川へとスクーターを走らせた。その時間では既に西の空には夕焼けの残滓もなく、闇が辺りを押し包み始めていた。
『核の冬』の十年以来地球の気候は変動し、平均気温はおよそ五度低くなっている。それは日本も例外ではなく、十月中旬、既に大宮の最高気温は十度を下回り、ここ多摩川でも宵の口のこの時間、零度に限りなく近付いている。
彼は作業着の上に私物の皮ジャンを引っ掛け、向かい風に顔を顰めていた。橋に彼女はいなかった。夕焼け時と言うのは二人が会う合図の様なものになっていたので、夕焼けが終わったから彼女は帰ってしまった、とは考えられない。彼女の方が待っている場合が多かったが、彼の方が早く着く時もあったので、例の場所にスクーターを止め、ヘルメットを脱いでシート下に入れ、欄干に寄り掛かってタバコを吹かした。そのまま一分、彼はふと辺りの空気に妙な感覚を覚えた。そして確信すると『それ』に『声』を掛ける。
(上手だな、たいしたもんだ。ほとんど気付かれないレベルだものな。ロット・36の誰か、か?)
すると今まで彼を覗き見していた『精神』が、はっきりとした軌跡を残して消え去る。気付かれずに他人の玄関に入ったまではいいが、慌てて後ろ姿を曝しては駄目だ。相手はまだ幼いし甘い。逆送して居場所を突き止める事も出来そうな程、濃密な気配が漂っていた。間違いなく現在彼が通っている『工場』の上部組織、『中央研』の『ヒヨコ』だ。彼は一瞬、跡を追おうとしたが寸での所で思い止まり、ざっと周囲の『気配』を探る。
案の定、何時の間にか監視が付いていた。
橋の袂、両側にセダン一台ずつ、更にスペアかサポートか、離れて二台。それに能力を人工的に付加した『能力者対抗兵』までいる。
―― 面白い。何かの訓練かテストか?
でも違う、と彼の第六感が告げている。彼は川崎側の一台に乗っているレシーバーにアクセスすることにした。先程彼を覗き見しようとした能力者が、気付かれたと報告したのだろう。その男には緊張感が濃密に感じられた。が、レシーバーに選抜されただけあって恐怖心は微塵も感じられない。さすが度胸が座っている。
(ねえ、そこのレシーバーさん。聞こえるかい?)
見事に気配を消し、無心でいるが、もう繋がって ―― アクセスされているのだから、それは無駄な演技とも言える。それを悟ったのか、諦めの失望感が微かに漂った後に、
(降参です、中尉)
(官・姓名を聞いていいかな?それとも勝手に読み取ろうか?)
(ナトリハジメ。陸軍少尉。首都軍集団情報部所属です)
(ありがとう名取さん。ばれたのはあんたのせいではない事を上司に言っておこうか?)
(その必要はありません。記録しております。お断りしておきますが、この会話は後に証拠として採用されるかもしれません)
(了解した)
レシーバーが外部記憶装置にダブルアクセスして思考会話を記録している。この思考会話自体が責任者にストレートに伝わるし、ひょっとするとリアルタイムで聞いているかもしれない。なら話は早い。
(一つだけ聞いておきたい)
(何でしょう?)
(僕は何かの嫌疑を受けているのだろうか?)
少尉はきっぱり否定する。
(それはありません)
(ではこれ以上、調査理由は尋ねない事にする。僕が何か重大なヒューマンエラーを起こしているのなら、あんたたちはコソコソしないで僕と対峙するだろうしね。だから保安調査の一環だと想像するが。考え方はその方向でよいのかな?)
(よろしいと思います、中尉)
(ではあんたらは仕事を続ければいい。邪魔するつもりはないから)
すると相手は、明らかに誰かと相談する気配を見せた後、
(上司から伝言があります)
多分、担当官が隣で、手話か筆談か何かで指示したのだろう。
(どうぞ)
(中尉の火遊びが各方面の注意を引いております。先方には引いて頂きました。どうか中尉も事を荒ら立たせませんように、とのことです)
隼人は、思わず吐きそうになった悪態を名取に悟られる寸前で消し去ると、
(なるほどね。ご忠告痛み入ります、と伝えてくれ)
(上司は、突然のこと故、一晩、冷静にご自身の立場をお考え頂いた方がいいだろう、とも申しております)
つまりはここでお説教はしない、改めて明日対面しよう、と言っている。
(譲歩して頂き申し訳ない、ありがとう、と伝えてくれ)
(了解致しました)
(ではこれで失礼する。名取少尉)
彼は返事を待たずにアクセスを切ると、乱暴にヘルメットを取り出して被り、セルではなくスターターをキックする。エンジンは直ぐに掛かりアクセルの反応も良い。但し、まもなく本格的な冬を迎えるので春までは乗れなくなるだろう。
彼はそのまま橋を渡り切るとタイヤを軋ませて右折し、土手添いの道を突っ走った。橋の袂に停まっていた名取少尉たちのセダンを横目に通り過ぎると、その黒塗りの二千ccは土手に沿って停まっていた仲間の二台と共に動き出し、彼を尾行し始める。勿論双方知られている事を知っているので尾行と言うより付いて来ると言う感じだった。
彼女の官舎前に付くと、入口の警備はいつもの警備ではなく、暴徒鎮圧用のものものしい出立ちをした武装警察の機動隊員四名で、歩哨の様に入り口を塞いでいた。
彼女の部屋を見上げると、引かれたカーテンの隙間から明かりが漏れている。暫らくヘルメットも脱がずに窓を見上げていた彼は、やがてこちらの存在を無視して立ち続ける機動隊員に、降参、とばかり軽く両手を上げる。スクーターのエンジンを掛け、振り返らずに三台のお供を連れて国道まで戻って行った。結局カーテンは、ピクリとも動かなかった。
*
人を操り支配し、あたかも国家が一つの意思を持ち、思うがままに動かす。
それは洗脳ではない。社会のシステムが既に、それを受け入れないと社会人として生きて行けない様になっている。人は我慢しているのではなく、それが現実で、それ以外を想像出来なくなっているのだ。
その外で生きる事を厭わない者だけが、一種のアウトローとして世間から孤絶して存在する。但し、そう言う人間は監獄にいるか、どんな世界にも必ず存在する裏社会にいるかのどちらかだった。
この様な世界では、路線を外れた行動はすぐに露見する。その監視の徹底振り・偏執振りは、彼と彼女の例を見れば良く理解出来る。
常時監視対象である『A02』は、全国に張り巡らされた国家監視システムにより追跡、記録されていた。これを行なっていたのは『保調』と呼ばれる情報通信省保安調査局だった。しかし、三軍から警察、武装警察などの反乱や陰謀を阻止する目的のこの組織は、人員が限られ監視対象が多過ぎた。後に、ここ数ヶ月『工場』と官舎の往復以外なんら変わった行動を取らなかった隼人の監視が甘くなっていた、と結論され数人の担当官が処罰される。
二人の逢瀬を最初に察知し警告したのは全く別の部署だった。
三、四回目の橋上での雑談、デートとも呼べない知り合い同士の世間話の様な一時を、保調も使う橋の定点監視カメラが捉えていた。
ランダムにフィルムを再生し、不審な行為や犯罪行為が行なわれていないか確認していた警察庁の巨大な外局、監視局の地域定点監視部の担当官が、同じ様な時刻、同じ様に佇むこのカップルに興味を抱き、二人の映像を調査に回した。
僅か一時間後、まだ当直時間が明けていなかった彼の元に二人の素性が報告されるや、担当官は直ちに二名の所属組織の保安部へ通報、同時に保調へも情報が送られた。決済は早かった。直ちに二名に対する重点監視が開始された。
一方がサイである事を考慮した公安関係各部署は、尾行や住居侵入しての盗撮・盗聴を諦め、元より彼女の部屋に仕掛けてあった盗聴器と、国土に張り巡らされた監視カメラによる遠隔監視のみで観察を続け、次に彼らが夕暮れ時に会う頃合いには、空軍の協力を仰いで長距離高高度偵察機を飛ばし、偵察機は高度二万メートルを旋回しながら監視を続けた。
さすがに一般人ならここまではしない。もし二人が一般人で、その恋愛が国家にとって不都合であったのなら、警官が二人ほど派遣され諭される。それで当事者は悔い改め改心し、何事もなかったかの様な、誰にとっても都合のよい結末を迎えた事だろう。
しかし彼らのケースはかなり上層まで巻き込んで大きくなる一方だった。
彼だけでなく、彼女もそれなりに国家の秘蔵と呼べる存在だったからこそ事は大きくなったのだが最大の理由は、政府上層部の密かな悩みの種、あのエンジェル撲滅プロジェクトに二人とも参加していた事にある。
二年前、エンジェルはあれで壊滅したはずだったのに、最近再びリバーサーの拉致・行方不明が増加し、その手口はエンジェルの仕業と瓜二つだった。あのプロジェクトは失敗だったとして当時関係した上層部の人間が左遷されていた。また、内部からの情報漏れによりエンジェルの一部が見逃され復活に至ったとの報告も出されており、公安は犯人探しに躍起となっている。
二人は疑われてはいなかった。また、当時は別々のセクションで働いていたため面識がなかった事が事実と認定されてはいた。しかし、片や国家機密のサイ、片や優秀なリバーサーでは上層部も不安で落ち着かなかったのだ。
それぞれが属する組織は、当初彼らの行動を通報された時には、個人的交流の範囲と気にも止めなかった。
彼女の上司は、優秀な部下の風紀上好ましくない行動、実際、過去幾度もあった異性交友を思い出し、再び慰みに男漁りをした位にしか考えなかった。彼の組織の方はむしろ、人見知りの見られる彼らのエースが、やっと一人前に女を作ったか、程度に考えていた。
彼を産み出した『中央研究所』という、何ともとぼけた名前を持つサイの開発・研究機関に至っては、彼らの優秀な『製品』が知能指数の高い女リバーサーと関係していると聞き及ぶと、二世誕生に思いを巡らせて色目気立った位だったのだ。
しかし、そんな浮かれ騒ぎも、彼が堰を切るように自身の秘密を彼女に暴露した事により、秘密を守る事に生涯を賭けた人々の逆鱗に触れ、終焉を迎えたのだった。