l;保安の闘い
午前五時半。男の通信端末が鳴る。
「はい」
「来て頂けますか?」
「どうした?」
「A02に問題があります」
「直ぐ行く。十五分後に」
「お待ちします」
午前五時四十五分。
「何があった?」
男は部屋に入るなり、整然とラックに収められた機器の前に立つ女に声を掛ける。その濃灰の制服姿の中年女は、折畳みテーブル前のパイプ椅子を勧め、自分も男の前に座ると、
「今からおよそ一時間前までに録音されたA02と対象Sとの会話を聞いて頂きますが、最初に説明させて下さい。録音の最初三十秒のノイズは比較のため残した原音です。闇で流通している盗聴防止装置が奏でる音楽と言った所です。次の三分は処理を施した後のもので、A02とSとの会話が入ります。その後、会話がなくなり、衣擦れなどの音が一分続き、最後に一分三十秒ほど再び二名の会話となります。ちなみに会話と会話との間は実際には一時間十分あり、その最初の一分を入れてあります。もし会話のない一時間十分全てお聞きになりたい場合は、これをお聞きになった後で仰って下さい」
そこまで言うと女は機器の前に座る若い男に合図し、技師と思われる白衣の若い男は、長いコードの付いたヘッドフォンを二つ女に渡す。女は黙って男に一つ渡して自分も被り、男が被ったのを確認すると、
「よろしいでしょうか?」
男が頷くと女は白衣に頷き、白衣はテープをスタートさせた。
最後まで一通り聞いた後、男はノイズ部分を除いてもう一度再生させ、更にもう一回、装置を自分で操作して会話の部分を所々止め、巻き戻しながら聞く。ヘッドフォンを白衣に返し、椅子に座り直すと、女に、
「真ん中のブランクは七十分続いた、と言ったな」
「はい」
男は立ち上がり、部屋の窓際に行くと、常に閉じられているカーテンを指で細く開き、朝日が林立する高層ビルを眩いオレンジに照らし出すのを見つめた。
「『あなたを信じる……今の話が本当だと信じるわ』、か」
男が感情を込めず平板に、対象Sの録音最後の言葉を呟くと、女は、
「サイは思考会話を話す相手に対し工作して、相手に普通会話と思わせたまま操ることが出来る、と聞きましたが」
「君の言う通りだ。ゲームを止めさせる時が来たな」
男は振り返ると、
「現在の二名は?」
「お待ちを」
女は白衣に合図し、白衣はコンピューターのキーボードを叩き、モニターに二分割された映像を出した。 それぞれがリアルタイムの街頭監視カメラの映像で、片側は混雑する駅が、もう片側は四車線の道を俯瞰した映像となっている。
映像は次々と切り替わり、赤い円でマーキングされた人物とスクーターとが画面から消えると映像が切り替わり、再び赤い円が現れる。
「二人共出勤途上ですね、A02はおよそ五分、Sは十五分で勤務先に到着します」
「Sと会う。その前に上へ行ってボスに報告する。承諾を貰って来るから手配を始めてくれ」
*
「篠田君」
両側をターミナル式の米国製最新モデルのコンピューターに挟まれ、その谷間でモニター画面に映る英数字の羅列を睨んでいた彼女が呼ばれた方を振り返ると、そこに立っていたのは部長だった。いつもは筆頭オペレーターの彼女に、謙らんばかりの態度の彼が仏頂面で見下ろしている。
「なんでしょう?」
微かに語尾を上げた彼女に、
「ちょっと来て貰いたい」
それだけ言うと、さっさと電算室から廊下へ出て行く。彼女は表情に表れない様気を付けて心の中で舌を打つと、パスワードを打ち込んでマシンをスタンバイにする。そして静かに席を立ち、隣の区画で打ち込みをしていた部下の注意を引いて、
「ちょっと呼ばれたから行って来る。後よろしく」
そして、入り口横の持ち場で椅子に座ったまま、半分 転寝状態の警備官が座る回転椅子の脚を思い切り蹴飛ばし、男がびっくりして椅子から転がり落ちる前に自動ドアから廊下へ出て行った。
この施設には窓はない。たまたま電算室は地下にあるが、それが理由ではなく、この建物は地上部分も含め窓のない強化鉄筋コンクリート造りの要塞の様な建物だった。
彼女が廊下に出ると、少し先のエレベーター前にあるベンチから部長が立ち上がる。彼女が前に来ると部長はエレベーターのボタンを押す。視線はエレベーターの扉を見つめ、彼女を見ない様にしているのが良く分かる。
やがてドアが開き二人が中に入ると、部長は音声認識装置に向かって「じゅう、ご、かい」と言う。彼女は最上階に行くと知って少々驚いた。最上階の十五階はお偉方の階で、別に立ち入り禁止ではないが用も無いのに立ち入って良い場所でもなく、彼女は覗いた事すらない。
エレベーターは途中階で何回か止まり、数人の男女が乗り込んだが誰もが最上階に辿り着く前に降りて行く。漸く十五階に着くと部長は緊張した面持ちで降り立ち、彼女は黙ったまま無表情で付いて行く。部長は階層の中央部にあるエレベーターホールから右へ進み、両側に部屋のドアが続く廊下の中程、仕切りの木壁と小卓の前に立つ警備員の所へ行くと、IDカードを差し出し、
「1501へ呼ばれた。」
警備員はIDをカードスロットに差し込み、表示された九桁のナンバーとボードの来訪者名簿と照らし合わせると、
「1501はこの先突き当たりのドアです」
「ありがとう」
二人が廊下を進み出すと警備員は内線電話の受話器を上げ、何事か告げていた。
五分後。彼女は四人の男を前に一人座っていた。部長はその会議室の隅、椅子を引き出して座り視線を彼女から逸らせている。
「新開隼人を知っているね」
リーダー格と思われる男が聞く。
「誰ですかそれは」
彼女はとぼける。まずは相手がどう出るか、試そうと言うのだ。
「おや、知らない?」
「聞いた事がありません」
「歳は十九。身長百八十一、体重七十二。顔はやや三角形、鼻はやや小さく、目は大きい。筋肉質で右上腕に銃創があり、左肩から肩甲骨に掛けて斜めに傷がある」
男は彼女の目を真っすぐに見て、
「どうだね?思い出したかね?」
素直に言うのが身のためだったが、そこで更に彼女の天の邪鬼が顔を出す。
「知っているかどうか、そんなに大事ですか?お見受けするところ、公安か武警の思想犯罪セクションの方と思いますけど、貴方がそう考えていらっしゃるのなら、それでいいじゃないですか。どう転がってもクロはクロなんでしょう?」
「このアマ、舐めるなよ!」
今まで黙って座っていた一人の男が吠える。真正面に座る男は吠えた男を肘で突くと、
「度胸も座っている」
苦笑を浮かべると、
「では肯定したとしよう、その隼人と君はいわゆる男女の仲だ」
彼女はただ前を静かに見ている。真っ直ぐ突き刺す様な視線は、反抗の印と取られても仕方がない愚かな行為だったが、男はリバーサーという存在を良く知っていたので、彼女の想いは手に取る様に分かった。
彼女に限らずリバーサーは法の下、全て例外なく国に収監され統制下に置かれる。個人差あるものの、大概は四十前後でリバースするので家族や仕事、彼らにとってかけがえのない全てをリバース睡眠中に失う事となる。リバースした人間から見れば、ある日突然意識を失い、目覚めたら一切を失っていて、犯罪者の様に施設に閉じ込められている自分に気付く、という理不尽極まりない経験をするのだ。
だからエンジェルのような組織、リバーサーを違法に連れ出し家族共々国の捕縛から逃れさせる者たちが暗躍する余地がある。
しかしエンジェルと言えど、全員逃がせる訳はない。
この彼女の様に、やり場のない怒りや絶望を秘めたまま従順に国が定める第二の人生を、正に折り返し地点から歩んで行く者がほとんどなのだ。
そこで、この男たちがいる。
彼女が数ある公安関係の内の何れかと考えた男の所属は、彼女が未だに恨みの対象とするグリック、幻歳者救護支援中央委員会だった。そこの保安部に籍を置く男は、軍と武警からの出向で成り立っているこの部署でリバーサーの動向統制を任され、研修終了後グリックを出て、国の機関や大企業などで働くリバーサーたちの不穏な動きや風紀に目を光らせている。
全国に散らばるおよそ七万人のリバーサー全ての動向を、彼を含めてたった五名の人員で担当しているが、彼は人員が不足していると考えた事はない。何せこの国は、共産圏より効果的な対人監視システムがある。
隣人が隣人を監視する。実に単純なもので、素晴らしいのはそれをほとんどの人間が自らの義務として疑いもなく果たしている、と言う事実だった。東側諸国にもあるこの習慣と決定的に異なるのは、この国民全てが感情思想を二の次に、これが必要悪だと認識する点だった。それほど、この国の戦後は厳しいものだったのだ。
「篠田さん」
実に穏やかに男は話し出す。
「回りくどいのはお嫌いの様なので率直に話しましょう。新開という青年は、国にとって大変な重要人物です。彼とのお付き合いを止めて頂けないだろうか?」
彼女の表情は変わらない。付き合いを止めろと言われるのではないか、と予測出来ていたし、大抵の事に驚かなくなっていたからだ。
「私に付き合いを止めろ、と言うのは、彼も知っているのですか?」
「今は知らない。が、数日中に知ることになると思います」
「理由を聞いてもよろしい?」
「先程言いました。彼は重要人物だと」
「重要人物は、リバーサーごときと恋仲になってはならない、と言うことですか?」
「そうご自分を卑下するものじゃないですよ。そうは言っていない。勿論法律の定めの通り、リバーサーの方々は新たな結婚は出来ないが、内縁関係ならいくらでもいますからね」
「では、彼では何故だめなのです?」
「重要人物でも飛び切りだからです。残念だがそれ以上はお答え出来ない。よろしいか?」
最後の言葉には有無を言わせぬ刺があり、彼女は知らずに両手を握り締める。すると膝に置かれた彼女の拳に気付いたのか、男は宥めるように、
「まあ、そう言っても納得はし辛いでしょう。確かに貴女方は、たまさかの関係ではなく、恋愛関係になってしまった。諦めろと言っても難しいでしょうな。しかし、事は国家の重大事に繋がっている。有無を言わせぬ事に至っているのですよ」
男は言葉の厳しさとは裏腹に彼女を穏かに見つめる。彼女は唇を噛み締め、視線は男の肩越しに壁を見ているように見える。彼女が現実を思い知る時間、彼は口を噤み、じっくりと待つ。実に慣れたものだった。
やがて彼女の視線が僅かに揺らいだ瞬間、彼は口を開く。その声は実に優しく、子供に対するかの様だった。
「諦める代りにはならないかも知れないが、何か要望があれば実現するように取り計らいましょう。この施設に居辛くなるのなら別の仕事を手配しますよ、何でも取り計らうので、どうぞ」
「何でも?」
「まあ、出来る範囲はありますがね。ああ、同じ様な青年が必要なら、それでもいいですよ」
―― つまり私は、その程度の女と思われた訳だ。
彼女はそう思ったが、不思議と悲しみや怒りは湧いて来なかった。そう、もう慣れたから。それに、と彼女は思う。
最初に彼と寝た時は、それこそこの保安部の男が看做した通り、淋しさを紛らわせようと猫でも撫でるつもりでいたのではないだろうか?だったらこれは、軽薄な私にお似合いの終焉だ。
いい夢を見させて貰った……
彼女はくくっ、と笑って見せると、媚びて色気を剥き出にした声色で、
「何でも私の言うことを聞いて、何時でもしてくれる美少年が欲しいわ」
最初に吠えた若い相方が思わず腰を浮かす。雑誌のグラビアに載る女優やモデルのピンナップは着衣、肌の露出はご法度、水着姿や胸の露出は取り締まりの対象となっていた時代である。若い相方が真っ赤になる中、向かい側に座る空軍情報局からグリックに引き抜かれた男は笑い出し、彼女は敗北の苦く、重い溜息を吐く。
「嘘。冗談よ。何一ついらないわ」
そう。私には悲しむことなど何もない。元に戻るだけだ。
さようなら、ハヤト。