a;黄昏の橋で
※主な登場人物
新開隼人
軍の特務機関に所属する特殊能力者。開発ナンバー『A02』
篠田瑛子
内務省国家情報センターに勤める『リバーサー』と呼ばれる年齢逆行者。
『工場』の若手技官
軍の特殊能力者技術センター、通称『工場』所属。隼人にスクーターを貸す。
『木更津』の司令
陸軍の特殊作戦部隊、通称『木更津』司令官。軍における隼人の上司。
江藤中佐
特殊作戦部隊とサイキッカーを製造する『中央研究所』の間を取り持つ連絡士官。
飛鳥中佐
軍の特務機関に所属するサイキッカー。開発ナンバー『A01』。
国家情報センター電算機部長
篠田の上司。
グリック保安部の男
幻歳者救護支援中央委員会保安部の男はリバーサーを監視する。
名取ハジメ
首都軍集団情報部の少尉。隼人を監視する『レシーバー』(思考兵器対抗兵)。
『工場』の室長(将軍)/管理官
室長は『工場』の所長。管理官は『工場』における隼人の上司。
佐竹少佐/日野中尉
軍や警察を監視する情報通信省保安調査局所属。
兼田中尉
武装警察の士官。首都圏第四制限居住区警護隊所属。隼人に付きまとう。
元村/加藤
武装警察の士官。東北管区第七十一地区警護隊所属。
ラミエル
リバーサーの逃走を助けるテロリストとされる『エンジェル』の最高幹部。
ウァンリェン
某国トップクラスのサイキッカー。
謎の老女
??????
この危うく移り気で
個の命などケシ粒の様に
儚くちっぽけな世界では
僕たちはお互いの体温でしか
己の存在を確かめられないのだろうか
夕焼けが異世界を映す蜃気楼だと言うのなら
その茜色が藍の彼方へ塗り込められる前に
僕はその幻夢の先にあるという
まほらの中へ消えてしまおう
その方法があればの話だが
もう探す時間も残されていない
―― 一九五九年十月、解放戦争(正式には北海道奪還戦争)において、旧人民共和国の仮首都・札幌陥落後、大通り公園内で発見された北側兵士の手帳に書かれていた散文より
*
一九九五年七月八日。
暑い、暑い一日だった。この時期としては珍しく気温は二十五度を超え、横浜の気象台は午後二時の気温を二十七度と発表していた。
現在、国会議事堂と首相官邸のある埼玉・大宮の七月の平均気温が十九度であることから、ある大手夕刊紙の編集長は、社会面に水飲み場で喉を潤す幼児の写真と共に『首都圏・第三次大戦記念日に記録的猛暑』との見出しを載せようとしていた。
快晴の空を陽が西に傾くにつれ、空には幾つかの入道雲が昇り龍の様に高く、高く伸びて行く。 その雲も及ばない、高度一万数千m上空を二機の戦闘機が西に向け飛んで行き、飛行機雲が二筋、鋭い線となってするすると伸びている。
そんな一日が暮れようとする時間、一人の青年が県境の橋の上、両脇に作られた歩道の一方を中島工業製の二百五十ccネイキッドバイクを押して歩いていた。彼は世田谷方向からこの橋を渡って、多摩丘陵にある官舎までそのバイクで帰ろうとしていたのだが、『工場』を出て十分ほど行ったそろそろ多摩川が見える頃、突然エンジンがノッキングし出し、スピードを出してもガタガタは収まらず、やがてタンタン、という音を最後にエンジンはうんともすんとも言わなくなった。
『工場』の装備担当に電話を掛ければ、直ぐに軽トラを走らせやって来てくれる事は分っていた。しかし生憎、班長は休暇中、次席の中年男とは何となく、そりの会わないものを感じていた。汗臭さが染みついた軽トラの助手席で、運転する次席から何か皮肉の一つも言われながら、あの陰気な場所へと帰るのは気が進まない。それで国道沿いに修理屋を探したが見つからず、まだ西日が顔に当たり、汗が額を流れ落ちる中、独り多摩川へ向かった。ちなみにガソリンや軽油は販売規制品(チケット制)なのでガソリンスタンドは決められた場所にしかないし修理など請け負ってはくれない。仕方なしに彼は公衆電話を見つけると川の対岸にある、辛うじて知り合いと呼べる自動車修理工場に電話を掛け、一時間以内に着くからと修理を予約し、国道の路肩をとぼとぼとバイクを押して行くのだった。
陽が西空から消え、辺りが茜に染まり出す。入道雲は濃い橙とピンク色に染まり、地平から中天に放射状に延びる雲も見事な夕焼けの前兆を示していた。緩やかな坂の向こうに多摩川が現れたのは午後六時半。気温が下がって行くのがはっきりと分かり、川を渡る風が心地よい夕涼みの時間になっていた。
坂を登り切るとそこは大きな橋の袂で、土手や河川敷には散歩する人の姿が見え、犬を連れ走る人、キャッチボールをする少年たち、釣竿を肩に掛け家路を辿る老人、何時もの夕暮れ時の光景が彼の前に繰り広げられる。彼は額の汗を拭うと再びバイクを押して橋を渡り始めた。
欄干にはぽつんぽつんと川や空を眺める人間がいて、彼はその横をすり抜けるように押して行く。すると橋のちょうど中間、川ではなく橋越しに西の空を眺める人物に注意を引かれる。暑い一日だったのにダークなスーツ姿、ワイシャツに細身の紺色のネクタイ、タイトなスカートは膝丈で黒いストッキングにヒールの低い黒革靴、典型的な中央官庁所属女性の制服姿だった。
もっとも制服姿は彼も同じ、階級章の付いていない陸軍の作業着を腕まくりして着ている。それだけではない。その周辺にいる全ての人間が制服かそれに準じる服装だった。
自転車で橋を渡って家路を急ぐ少年は地域少年団の、向うから自転車でやってくる中年男性は国防自治軍の制服を一分の隙も無く着こなし、犬を散歩させる80代と思しき老婦人すら私服ではあるが何の意味か、『K―〇三―〇八』とステンシル風文字が染め抜かれた腕章を付けている。
彼はバイクを欄干の脇に寄せるとスタンドを立て、欄干に歩み寄ると胸ポケットから煙草を出し、軍標準のオイルライターで火を付け深々と吸い込みフーッと吐き出す。人口が戦争により激減したこの国は十八歳で成人である。であるから、十九の彼が喫煙するのは違反でも何でもない。但し十代で飲酒も喫煙も許されている事が前年厚生省のプロジェクトチームから平均寿命を短くする行為と指摘されるに至っているが、正されるとしても時間はかかるだろう。
彼も欄干に寄り掛かると西空を仰ぎ見る。まるでオーロラの様な縞模様に陰影を深める夕焼け。魅せられる様に空を見つめる女も十代、彼と同じ年代に見える。間を五メートルほど開け、二人は並んで夕焼けを眺めた。
どの位そうしていたろうか。夕焼けは更に深い色を見せ、中天は褪せた藍色になって上弦の月が目立つ様になった頃、彼女の独り言のような呟きが聞こえて来た。
「夕焼けは二つの世界を繋いでいる。あの紅いそらは、『彼方』の空を映す鏡、蜃気楼の様に彼方の街が映る時もあると言う。けれどそれが見える者と見えない者がいるわ」
どこか幼さが顔に残る女は欄干に凭れたまま目を瞑ると、
「このままあそこまで歩いて行き、あのそらの彼方へ行けたら、どんなにかいいだろう」
彼は黙って空を眺めている。明らかにこちらを意識して女は話している。だが、その唐突な馴れ馴れしさが彼を警戒させた。
彼は再びタバコを取り出すと深々と吸い、女が僅かに視線を横にずらし、彼を視野に入れたのを確認すると、意識を集中して精神を分裂させた。
人によっては魂と呼ぶ、もうひとつの彼の意識。否、元の身体に残る精神は周囲を警戒し、生命維持と単純な行動――たとえば今、彼がしているタバコを吸う、と言う様な――しか出来ないから、本当の意味での彼の意識は今、身体を離れた方と言える。
その精神は彼女の後ろへと回り、橋の外・川の上空から欄干を越えて、彼女の背中から彼女の中に入り込む。やがて見えてくる彼女の視界、更に彼女の精神の奥へと潜って行くと光景は消えて……言葉・知識・印象・夢・様々な場面がモザイク状に現れて……記憶へ辿り着く。
その『扉』を開けると真先に飛び込んで来たのは、怨嗟と悲哀の情。同期現象で思わず痛みを覚えた彼は、少し警戒の度を高め、更に先へと……二十年では積もるはずの無い記憶の渦と戦争の記憶、これは……
―― 『リバーサー』か!
当然予測出来る事だった。官庁の『黒服』は十八、九の歳で着られるものではない。国家公務員でも高卒程度の三級オペレーター(事務職)は青味の強い藍色の制服、彼女が着ているのは一級オペレーター(事務職および専門職)のものだった。少なくとも大卒、二十二、三歳、否、一年間の研修期間中は襟に白い縁取り、俗称『初心者マーク』が付けられているので、若く見積もっても二十四歳となる。
見かけは同い年くらい、だが実際は六十代の彼女。『リバース』したのが四十前後ならそうなる。
この世界においては『リバース』と呼ばれる現象。九千人に一人の割合だという。病気ではなく、有史以前からあったと思われる『現象』だった。
ある日、不惑前後の男女が昏睡する。目覚めるまで短くて一日、長い場合二、三年かかる。そして昏睡状態の人間は髪の毛が元の色に拘わらず蒼く変色して行き、目覚めた時、完全に蒼い髪となっているのが見かけ上の特徴だ。無論、そのままにして置く人間は少なく染髪するのが普通だが、戦前はそれもご法度だった。
髪の変色だけではない。この目覚めた瞬間から、その人間は歳が逆行する。つまり歳を取る代わりに歳が若くなって行くのだ。
故に日本語で『幻歳』と呼ぶ。REVERSEは英語だが、そうなった人間を示すリバーサーという言葉は和製英語で、英語では何故か再生産を意味するREPRODUCTION PEOPLEと呼び、スラングはストレートにBLUE HAIR。
年々若返り、実際の還暦では二十代から十代となるリバーサーたち。その一人が彼女だった。
しかし、彼女の記憶には彼をして、その先へ進むのを躊躇わせる何かがあった。それは実体の彼の肌が粟立つほどおぞましい何かで、彼がそれに触れると大蛇か何かを触ったかの様なイヤな感じを全身に覚え、慌てた様に彼女から飛び出したのだった。
機械的にタバコを吸っていた意識に離れていた意識が重なると、思わず深い溜息が洩れる。額に浮かんだままになっていた汗を無造作に拭う仕草に彼女が声を掛ける。
「今晩は。夕焼けはお好き?」
彼はタバコを川に投げ捨てると、
「好きですね」
「そう。軍人さん?」
「の様なものです」
クスッと彼女が笑う。
「の、ような、もの?」
からかう様な声色はややハスキーで、この女の奔放さを示している様に見える。しかし、この屈託の無さの下に先程の深淵が横たわっている。
「『兵器』の調整をやっています」
「ああ、技術屋さんね」
それとも違うが訂正する必要はない。
「お姉さんは?」
「え?お姉さん?」
彼女は小首を傾げると、
「貴方と同じ位だと思うけれど……貴方、十九?ハタチ?」
「十九です」
「じゃあ同じ様なものじゃない、私はハタチよ」
なるほど自分はリバーサー、と認めなかった。まあ、認める方が珍しい。リバーサーは国家の『所有物』と言われる。『幻歳者の保護管理に関する法』という皮肉な名称の法律により、リバーサーは家族と引き離され仕事を失い、国に収監され新たな人生を歩む。それにしても、彼女は一人でいる様子だ。監視や護衛の気配はない、これは珍しい。余程信頼されているか、それとも……
「名前はなんていうの?」
「……ハヤト」
「それ、下の名前でしょう?面白い人ね、普通苗字を言うのに」
「シンカイ・ハヤト」
ニッコリと彼女が笑む。
「私はシノダ・エイコ」