第59話 天欠島の住人たち
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不時着から生還。目を覚ましたレオたちを待っていたのは、絶望の海に存在するはずのない「人」と「水」でした。
深い泥の底に沈んでいた意識が、ポタリ、という冷たい水滴の感触でゆっくりと浮上した。
「……ん……っ」
重い瞼をこじ開けると、ぼやけた視界に、薄暗い岩肌の天井と、揺らめく焚き火の光が映り込んだ。
全身の骨がバラバラに砕けたような鈍痛と、頭を割るような鋭い痛みが遅れて襲ってくる。僕は思わず呻き声を上げ、跳ね起きようとした。
「……っ、レオ!?」
すぐ耳元で、弾かれたような声がした。
視線を向けると、涙と煤で顔をぐしゃぐしゃにしたリゼが、僕の右手を両手で固く握りしめながら、食い入るようにこちらを見下ろしていた。
「リ、ゼ……?」
「レオ! ああっ、よかった……! レオが、気がついたわ!!」
リゼの声に反応して、岩穴の奥からドタドタという足音が近づいてきた。
「本当か!? レオ!」
「レオ……っ!」
頭に血の滲んだ布を巻いたカイルと、腕を添木で固定されたシェリルが、僕の寝かされている岩のベッドに駆け寄ってきた。
「お前ら……無事だったのか……」
僕が掠れた声で呟くと、リゼが僕の胸にすがりつき、子供のように声を上げて泣き崩れた。
「当たり前じゃない、この大バカ野郎……っ! 丸一日も目を覚まさないで、あんたが死んじゃったかと思って……っ、ずっと、ずっと怖かったんだからね……!」
極限のサバイバルの中、マネージャーとして常に気丈に振る舞い、「生きるための悪鬼」にまでなろうとしていた彼女。その張り詰めていた糸が、僕の目覚めと共に完全に切れ、涙となって溢れ出していたのだ。
「リゼ、ずっとレオの手を握って、一睡もせずに看病してたのよ」
シェリルが、涙ぐみながら僕の額にかかった前髪を優しく撫でた。
「熱も下がってきたみたい。本当によかった……私たち、どうなるかと思ったわ」
「……まったく、一番頑丈なバカが最後まで寝ているとはな。心配させやがって」
カイルはわざと呆れたような口調を作ったが、その目尻には光るものがあり、ホッとしたように長く、長く息を吐き出していた。
「機体が岩に激突した時、お前が最後まで操縦桿から手を離さず、僕たちのクッションになってくれたおかげで、僕らは気絶と軽傷で済んだ。……ありがとう、レオ」
「……よせよ。お前らが無事なら、それでいいんだよ」
僕は痛む身体を少しだけ起こし、泣きじゃくるリゼの頭をぽんぽんと不器用に叩いた。
「ほら、泣くなよ。俺は下町の野良犬だぜ。岩にぶつかったくらいじゃ死なねえよ」
「ばか……っ、強がらないでよ……っ、うわぁぁんっ」
三人の顔を見て、互いの体温を感じた瞬間。
僕の胸の奥底にあった「絶望の海」の恐怖が、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
生きてる。僕たちは、あの地獄のような無風地帯と乱気流を抜け、誰も欠けることなく、生きて大地の上に立っているのだ。
「安心したようだな、『外』からの迷い鳥たちよ」
不意に、低く、ひび割れた声が岩穴に響いた。
焚き火の向こう側から歩み寄ってきたのは、見知らぬ老人だった。
深い皺が刻まれた顔。ジュラルミンの破片や帆布の切れ端を複雑に継ぎ接ぎした、奇妙な形状の衣服を着ている。そして、彼の背後には、同じような服装をした十数人の男女が、警戒と興味が混ざったような視線で僕たちを取り囲んでいた。
「……あんたらが、助けてくれたのか」
僕は警戒心よりも先に、深い感謝の念を抱いて長老らしき老人を見上げた。
「ああ。だが動くな。お前はまだ血が止まりきっていない」
老人は背後の若い女に顎でしゃくると、女は木をくり抜いたような無骨な椀を両手で恭しく持ち、僕の口元へと運んできた。
「飲め。ひどい脱水状態だ」
椀の縁から、澄んだ水が揺れるのが見えた。
廃船島で啜った泥水とは違う、純粋で、氷のように冷たい真水。
その光景を見た瞬間、僕の喉がヒュッと鳴り、野生の本能が爆発した。
「……っ!」
僕は女の手から椀を半ば奪い取るようにして、その冷たい水を一気に喉の奥へと流し込んだ。
痛いほどに冷たく、甘い。焼け焦げそうだった五臓六腑に、命そのものが染み渡っていく感覚。椀が空になっても、僕は底に残った数滴まで必死に舐め取った。
「ああ……っ、はぁっ、はぁっ……」
荒い息を吐きながら、僕はむせ返り、ボロボロと涙をこぼした。
水だ。僕は今、本物の水を飲んで、生きている。
「よかったね、レオ……」
リゼが僕の背中をさすりながら、自分も泣き笑いの表情を浮かべた。
「私たちも、倒れていたところをこの人たちに助けてもらったの。水も、ご飯もご馳走になったわ。……本当に、奇跡よ」
「……助けてくれて、ありがとう」
僕は椀を女に返し、老人に向かって深く頭を下げた。
「俺はレオ。こっちはカイル、リゼ、シェリルだ。……あんたらは?」
「私はこの集落の長、バルカだ。……まずは身体を休めろ。話はそれからだ」
バルカの計らいで、僕は焚き火のすぐそばの暖かい場所へと移された。
干した野草と、僅かな穀物を煮込んだような、温かい雑炊が振る舞われた。塩気は薄いが、弱り切った胃腸にはこの上なく優しく染み渡る。
「……美味しい」
僕はゆっくりと雑炊を口に運び、身体の隅々まで熱が巡っていくのを感じた。
「本当に。ご飯が食べられるって、こんなに幸せなことだったのね」
シェリルも幸せそうに微笑み、カイルは無言で、しかし確かな味わいを確かめるように深く頷いている。
ふと見ると、岩陰から村の子供たちが、珍しい「外の人間」である僕たちを興味深そうに覗き込んでいた。
リゼがそれに気づき、優しく手招きをする。警戒しながら近づいてきた小さな女の子の頭を、リゼが持っていたハンカチでそっと撫でてやると、女の子は恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに笑って母親の背中に隠れた。
「信じられないな……」
カイルが火の粉を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「あんな地獄のような無風地帯と乱気流を抜けた先に、人が住んでいる場所があったなんて。論理や確率論じゃ絶対に説明がつかない。……奇跡だよ」
「ええ。岩穴の外から聞こえる風の音も、今は全然怖くないわ」
シェリルが僕の袖を軽く引き、満面の笑みを向けた。
「私たち、生き残ったのね。レオ」
「……ああ、そうだな」
僕は焚き火の炎を見つめながら、全身を苛む鈍痛を改めて感じていた。
左腕の切り傷、打撲だらけの背中、火傷した手のひら。
どれも酷く痛むが、今はその痛みがひどく愛おしかった。死んでいれば、痛みすら感じない。渇きも、寒さも、この激痛すらも、僕たちがまだ大地の上に立ち、呼吸をしているという絶対的な証明だったからだ。
狂ったコンパスも、ぶっ壊れたアルバトロス号も、目の前にそびえる嵐の壁も、今日だけはどうでもよかった。
先を急ぐ焦燥感は消え去り、ただただ、ひたすらに「生きている」という奇跡だけが、崩壊しかけていた僕たちの精神を優しく、強く包み込んでいた。
やがて夜が更け、疲れ切ったリゼたちは深い眠りに落ちた。
村の者たちもそれぞれの寝床へ戻り、岩穴にはパチパチとはぜる焚き火の音と、外で荒れ狂う嵐の遠鳴りだけが残された。
火の番をするために一人起きていた僕の向かい側で、ずっと黙り込んでいたバルカが、ふと重々しい口を開いた。
お読みいただき、ありがとうございます!
極限のサバイバルを越えて口にした「本物の水」の美味さ。
そして、泥だらけになって看病してくれていたリゼの涙。
生きて大地(岩)に立っている奇跡と、仲間の温もりに、作者自身も書きながら胸がじんわりと熱くなりました。
しかし、彼らを助けてくれた長老バルカは、何か重大な秘密を知っているようです。
明日、この島の衝撃の真実が語られます。




