第58話 絶壁の手前、名もなき不時着点
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目前に迫る『嵐の壁』。しかし、その強烈な乱気流が牙を剥きます。
推力を持たない船の、決死のダイブをお読みください!
無風地帯を突破したアルバトロス号は、成層圏のジェット気流に乗って猛烈なスピードで滑空していた。
死に絶えたトラクターエンジンは完全に沈黙し、水も食料も予備の部品も、すべては雲海の底に捨ててきた。推進力を持たない今のアルバトロス号は、ただ風に流されるだけの巨大なグライダーでしかない。
「見ろ……どんどんデカくなっていくぞ!」
僕は操縦席の窓に顔を押し付け、前方にそびえ立つ漆黒の壁を見上げた。
近づくにつれて、『嵐の壁』の常軌を逸したスケール感が嫌というほど伝わってくる。天の頂から雲海の底まで、視界の左右の果てから果てまでを完全に塞ぎ、文字通り「世界を真っ二つに叩き割る」ようにそびえ立っているのだ。
分厚い黒雲の内部では紫色の稲妻が網の目のように走り、鼓膜を震わせる重低音の雷鳴が、絶え間なく鳴り響いていた。
「伝説の都を隠す、絶対防壁……っ、ゴホッ!」
シェリルがアストロラーベを抱きしめたまま呟いたが、その声はひどく掠れ、乾いた咳が混ざっていた。
歓喜に沸く船内だったが、四人の状態は誰の目から見ても限界だった。無風地帯の地獄のサバイバルを生き抜き、アドレナリンによる「空元気」だけでギリギリ立っている状態なのだ。
後部座席のリゼは熱中症のダメージから抜け切れず、青白い顔でシートベルトにだらんと寄りかかっている。カイルも極度の睡眠不足と疲労で目の下に濃いクマを作り、震える手で計算尺を握りしめていた。僕自身も、正気を保つためにナイフで自傷した左腕がズキズキと痛み、視界の端がチカチカと明滅を繰り返している。
それでも、壁の向こうへ行くんだ。
満身創痍の身体に鞭を打ち、壁まで数キロの距離に迫った時――空の怪物が、再びその牙を剥いた。
――ドゴォォォォンッ!!
突然、下から巨大なハンマーで殴り上げられたような衝撃が船体を襲った。
「うわあっ!?」
「きゃああっ!」
後部座席で辛うじて身体を起こしていたリゼとカイルが、天井に頭を打ちつけて床に転がり落ちる。
ジュラルミンの装甲が悲鳴を上げ、気嚢を支えるワイヤーが千切れんばかりに軋んだ。
「レオ! どうしたの!?」
「気流が変わった! 嵐の壁が放つ乱気流の領域に入っちまったんだ!」
僕は弾かれたように操縦桿を握り直したが、手応えが全くない。
猛烈なジェット気流で壁に向かって押し流されながら、同時に嵐の壁が巻き起こす強烈な上昇気流と下降気流が、アルバトロス号を四方八方から揉みくちゃにし始めたのだ。
「ダメだ! 風が荒れ狂いすぎている!」
カイルが床に這いつくばり、口元から血を流しながら叫んだ。
「壁にぶつかった風が、竜巻みたいに渦を巻いてるんだ! エンジンがない今の状態じゃ、気流を突き抜けることも、ブレーキをかけることもできないぞ!」
その言葉通り、アルバトロス号は完全にコントロールを失っていた。
プロペラという「足」を持たない今の僕たちは、激流の川に放り込まれた木の葉と同じだ。機首が右へ左へと暴力的に振り回され、一秒ごとに数十メートルも高度が上下する。
「落ちる! レオ、引き起こして!」
リゼが床にしがみつきながら悲鳴を上げる。
「やってる! だけど空気が掴めねえんだよ!!」
僕は操縦桿を両脚で挟み込み、痺れきった腕の筋繊維がちぎれるほどの力で強引に引き絞る。だが、エンジンの振動がないため浮遊石の波動も著しく弱まっており、強烈な下降気流に抗うだけの浮力が生まれない。
高度計の針が狂ったように回転し、純白の雲海が恐ろしいスピードで迫ってくる。
無風地帯を抜けた歓喜は、一瞬にして「大自然の圧倒的な暴力」を前にした無力感へと反転していた。
(ここまで来て……水も食料も全部捨てて、死に物狂いでここまで来たのに……っ!)
焦燥感が胸を焼き焦がす。嵐の壁に激突するか、このまま雲海に叩きつけられるか。どちらにせよ、数分後には機体が空中分解して終わりだ。
「レオ!! 左舷前方、仰角マイナス十度!」
死の恐怖が船内を支配する中、シェリルだけが窓にへばりつき、狂い狂う視界の中から「一点」を見据えて絶叫した。
「島があるわ!!」
「島だと!?」
僕は激しい揺れの中で、シェリルの指差す方向を睨みつけた。
嵐の壁の手前、荒れ狂う乱気流の中心にぽっかりと空いた特異な重力場の「目」のような空間。そこに、灰色の岩肌を剥き出しにした、歪な形の小島がポツンと浮かんでいたのだ。
「あそこなら、降りられる! 嵐の壁の乱気流が、あの島の周囲だけ相殺されてるわ!」
「よし、行くぞ!! 全員、衝撃に備えろ!!」
僕は操縦桿を限界まで左に倒し、機首を強引に小島へと向けた。
推力がないなら、重力を推力に変えるしかない。僕はあえて機首を下げ、下降気流に乗る形でスピードを乗せ、小島へと突っ込んでいく。
「バカ、早すぎる! 減速できないぞ!」
カイルの悲痛な叫び声。
「ブレーキなんて気の利いたもんは捨てちまったよ! 気嚢の反響を解放して浮力を殺す! 機体ごと岩肌に擦り付けるんだ!」
僕は後ろを振り返り、朦朧としているリゼに向かって怒鳴った。
「リゼ! 気嚢の緊急排気スリットを全開にしろ!!」
「……っ、わ、わかったわ……!」
満身創痍のリゼが、震える手で頭上の赤いワイヤーを力任せに引き下ろす。
バサァッ!!
気嚢上部の帆布の縫い目が大きく裂けるように開き、反響室として内部に閉じ込められていた浮遊石の波動が、青い光の粒子となって一気に虚空へと拡散していく。
キィィィン……と鳴っていた高周波の共鳴音が急激に低く鈍くなり、「マイナス質量化」していた空気が一瞬にして元の重たい物理法則を取り戻した。
強烈な浮力を失ったアルバトロス号は、まるで鉄の塊そのものに戻ったように、ズンッと重く沈み込んだ。
「いけぇぇぇぇっ!!」
灰色の岩肌が、視界いっぱいに迫る。
ドガシャァァァァンッ!!!
すさまじい轟音と共に、アルバトロス号のジュラルミン製の船底が、小島の荒れた岩肌に激突した。
凄まじい火花と、金属が引き裂かれる絶叫が鼓膜を破る。
「ぐあぁっ!」
強烈な衝撃で、シートベルトが鎖骨を砕く勢いで食い込み、肺から空気が強制的に吐き出される。リゼとカイルの短い悲鳴が後部から聞こえた。
激突の反動で大きく跳ね上げられた機体は、今度は右舷から斜面に叩きつけられ、火花と土煙を上げながら数十メートルも無様に横滑りしていく。
ガガガガガッ!!
左舷の主翼が巨大な岩に乗り上げてへし折れ、自慢の装甲板が紙切れのようにめくれ上がる。土煙と砕けた岩の破片が窓ガラスを突き破り、船内へと暴風のように吹き込んできた。
ズドォォォン!!
最後に巨大な岩の出っ張りに機首を強く打ち付け、後部が激しく跳ね上がってから、アルバトロス号は完全に静止した。
「…………っ、あ……」
土煙と硝煙の匂いが充満する船内で、僕はうめき声を漏らした。
全身の骨が砕けたような激痛。頭から血が流れ、左目が見えない。
「カ、イル……シェリル……リゼ……」
掠れた声で呼びかけるが、返事はない。三人は強い衝撃で気絶しているか、あるいは……。
それを確かめる力すら、今の僕には残っていなかった。
限界を超えた無風地帯のサバイバル。そして、推力ゼロでの決死の不時着。
僕の意識は、薄れゆく視界の中で、ひしゃげた窓ガラスの向こうに見える荒涼とした灰色の土を最後に捉え、深い暗闇へと沈んでいった。
最後まで読んでいただき、感謝です!
嵐の壁の乱気流に巻き込まれコントロール不能に。
シェリルが見つけた特異点の島へ、レオが浮力を捨てて機体ごと岩肌に擦り付けるという荒業で不時着しました。
機体はボロボロ、レオも重傷を負い意識を失ってしまいます。
果たして彼らは無事に生き延びることができたのか?
明日、新たな出会いが待っています!




