第57話 雲を蹴る野良犬
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生き残るため、水も食料もすべて捨て去った彼ら。
安全弁を破壊したエンジンの最後の一撃で、空へ跳べ!
「捨てろ! 積んである荷物を全部、空の彼方にぶち撒けろ!」
僕の怒鳴り声に合わせて、アルバトロス号の船内では狂気じみた軽量化作業が始まった。
カイルとシェリルが、空になった木製の水樽を蹴り飛ばし、ハッチの外へ次々と投げ捨てる。
予備のジュラルミン板、重たい工具箱の半分、鉄の墓場で拾い集めた真鍮のパイプや歯車。自分たちが生き残るために血眼になってかき集めた「命の綱」とも言える物資を、一切の躊躇なく雲海へと捨て去っていく。
「まだだ! もっと軽くしろ!」
僕は操縦席の計器板から目を離さず叫んだ。
「食料の木箱もだ! どうせ水がなきゃ喉を通らねえ!」
「……ええ、わかったわ!」
シェリルが保存食の詰まった箱を抱え上げ、窓から放り投げる。
意識が朦朧としているリゼは、後部座席でその光景を薄目で見つめていた。物資を何よりも重んじていた彼女が、自分の命を繋ぐ食料が捨てられていくのを見て、微かに口角を上げて笑った。
「コートも脱げ! 上空は寒いだろうが、今のこの異常な暑さじゃ死なねえ! 少しでも重りを減らすんだ!」
僕たちは汗と油にまみれた分厚い防寒コートを脱ぎ捨て、それすらも船外へ放り投げた。
数百キロの荷物が消え失せたことで、秒速数メートルで沈み続けていたアルバトロス号の降下速度が、目に見えて緩やかになっていく。
「よし……総重量、予定の六十パーセントまで削り落とした! これなら……いける!」
カイルが血走った目で計算尺を弾き、顔を上げた。
「現在高度、二千五百! ここから上空八千の気流まで、一気に五千メートル以上を駆け上がるぞ! だが、今の余熱推力じゃ一瞬しか持たない! 途中で失速すれば、今度こそ真っ逆さまだ!」
「なら、途中で失速しねえだけのバカでかい推力を一瞬で作ってやるよ!」
僕は腰からスレッジハンマーを引き抜き、機関室のカバーを蹴り飛ばした。
赤熱しているキメラ・ドライブの心臓部。そのど真ん中に取り付けられている、圧力を逃がすための「安全弁」に狙いを定める。
「レオ、まさか!?」
「天才の計算はお終いだ、カイル。ここから先は、野良犬の勘に命を預けろ!」
僕はハンマーを大きく振りかぶり、安全弁を力任せに叩き壊した。
ガキンッ! という鋭い音と共に、真鍮のバルブがへし折れて吹き飛ぶ。これで、エンジン内部の圧力は逃げ場を失い、爆発限界まで高まり続けることになる。
「シェリル! 風の道筋から絶対に目を逸らすなよ!」
「ええ! 針路そのまま、仰角七十度! 真っ直ぐ突き抜けて!」
シェリルはアストロラーベを両手で強く抱きしめ、天窓の奥にある星の光だけを見据えて叫んだ。彼女の瞳には、僕の操縦に対する揺るぎない絶対の信頼が宿っている。
「カイル! 残ってるエタノールを全部、強制吸気口にぶち込め!」
「……わかった! 限界を超えろ、レオ!!」
カイルは計算尺を床に投げ捨てた。常に論理と計算で生きてきた彼が、最後の最後で理論を放棄し、僕の直感と気合いだけを信じたのだ。
彼が予備タンクのバルブを全開にし、最後の一滴までの燃料をエンジンへと送り込む。
「いくぞおおおっ!!」
僕はスロットルレバーをレッドゾーンのさらに奥、物理的なストッパーがへし折れるまで力任せに押し込んだ。
ドゴォォォォォンッ!!!!!
アルバトロス号の船体が、爆弾でも破裂したかのような凄まじい轟音と共に激しく跳ね上がった。
安全弁を失ったキメラ・ドライブが、常軌を逸した異常燃焼を起こし、排気管から紅蓮の炎を吹き上げる。耐圧ガラスの中の浮遊石が、限界を超えた振動に悲鳴を上げ、視界が白く染まるほどの眩い閃光を放った。
強烈なGが四人の身体を座席に押さえつける。
ジュラルミンの装甲がひしゃげ、気嚢の帆布が千切れんばかりに張り詰める。機体のあちこちから、ボルトが弾け飛ぶ甲高い音が鳴り響いた。
だが、船は沈まない。
すべての重荷を捨て去ったアルバトロス号は、まるで重力の鎖を引きちぎった野良犬のように、純白の雲を蹴り飛ばして一直線に上空へと突き進んだ。
「いけぇっ! いけ、いけ、いけぇぇぇっ!!」
僕は喉から血が出るほど絶叫し、振動で砕け散りそうな操縦桿を力で押さえ込んだ。
高度計の針が、狂ったようなスピードで跳ね上がっていく。
三千、四千、五千……!
サウナのようだった船内の空気が、急激な高度上昇によって一気に冷え込んでいく。
水温計のレッドゾーンはとっくに振り切れている。エンジンブロックからは白煙が噴き出し、いつ木端微塵になってもおかしくない状態だ。
「高度七千! もうすぐよ、レオ!!」
シェリルの叫び声と同時に、エンジンの爆音が不意に「ゴスッ」とくぐもった音に変わった。
「燃料が……完全に空になった!」
カイルの悲鳴。
推力を失ったアルバトロス号が、空中でフワリと浮き上がるような無重力状態に陥り、機首がゆっくりと下を向き始める。
届かなかったか。一瞬、絶望の影が脳裏をよぎった。
だが――。
ドォォォォンッ!!
次の瞬間、強烈な「見えない壁」に激突したような衝撃が船体を揺るがした。
直後、静寂に包まれていた船の外から、鼓膜を破るようなすさまじい風切り音が鳴り響く。
「……風だ!」
僕の頬を、窓の隙間から吹き込んできた、氷のように冷たく、そして力強い気流が撫でた。
それは無風地帯の淀んだ空気ではない。成層圏の入り口を猛烈なスピードで駆け抜ける、生きた風だ。
アルバトロス号の巨大な気嚢が、その強烈な気流を帆のように真正面から受け止める。推力を失って落ちかけていた機体は、猛烈な追い風に背中を蹴り飛ばされるようにして、再び東へと弾き出された。
「……抜けた……!」
カイルが、へたり込みながら震える声で言った。
「無風地帯を……自力で突破したぞ!」
「ははっ……やった……!」
シェリルがアストロラーベを抱きしめたまま、安堵の涙をぽろぽろとこぼして泣き崩れた。
僕も全身の力が抜け、操縦席の背もたれに深く寄りかかった。
血まみれの左腕と、振動で痺れきった両手。エンジンは完全に沈黙し、水も食料も一滴残らず捨ててしまった。
だが、窓から吹き込んでくるこの冷たい「風の匂い」だけが、僕たちがまだ生きているという絶対的な証明だった。
「……涼しい」
後部座席で、リゼがゆっくりと身を起こした。
熱中症で生死の境を彷徨っていた彼女の顔に、風が優しく吹き付ける。
「いい風ね……。生きてるって、感じがするわ」
彼女は空っぽになった船内を見回し、すべてを失った恐怖よりも、今はただ生き延びた喜びを噛み締めるように、静かに涙を流して微笑んだ。
僕たちは無風地帯の狂気を、すべてを捨てることで乗り越えたのだ。
燃料も、水も、食料もない。まさに身一つの野良犬として。
「レオ、前を見て」
シェリルが、涙を拭いながら窓の外を指差した。
猛烈なジェット気流に乗って、アルバトロス号は信じられないスピードで東の空を滑空していく。
やがて、鏡のように平滑だった眼下の雲海が、再び荒々しい波のようにうねり始めた。
そして――地平線の彼方に、それは忽然と姿を現した。
「なんだ、あれは……」
僕は思わず息を呑んだ。
群青色の空を真っ二つに叩き割るようにそびえ立つ、巨大な闇。
それは、天の頂から雲海の底までを完全に覆い尽くす、漆黒の積乱雲の絶壁だった。雲の内部では無数の稲妻が狂ったように明滅し、遠く離れたここまで雷鳴の地響きが伝わってくる。
「……『嵐の壁』」
シェリルが、アストロラーベの目盛りを見つめ、歓喜に声を震わせて叫んだ。
「星図の座標と完全に一致してる! 伝説の都を隠しているという、絶対防壁よ……っ!」
「あった……本当に、あったんだ……!」
カイルが窓ガラスに顔を押し付け、涙と汗でぐしゃぐしゃになった顔をほころばせた。
「空の果てに、壁がある! 僕たちの計算も、カッシーニの理論も、全部間違っていなかった!」
「嘘みたい……あんなにデカい雲の壁、今まで生きてきて見たことないわ……」
リゼも身を乗り出し、その圧倒的な光景に目を奪われながら、声を出して笑い始めた。
それは、行く手を阻む大自然の暴力の象徴であると同時に、僕たちが文字通り命を削って追い求めてきた「ゴールへの絶対的な目印」だった。
あの分厚い嵐の向こう側に、水と緑に溢れた夢の国がある。
その事実が、極限まで疲弊しきっていた僕たちの心に、爆発的な高揚感と熱を吹き込んだ。
「ははっ、最高にぶっ飛んでやがるぜ!」
僕は操縦席から身を乗り出し、雷鳴轟く真っ黒な絶壁に向かって、腹の底からガハハッと大声で笑った。
エンジンは死に、水も食料もゼロ。防寒着すら捨ててしまった。
だが、今の僕たちの心は、今まで生きてきたどの瞬間よりも身軽で、希望に満ち溢れていた。
退路を断ち切り、すべてをかなぐり捨てた四人の野良犬の瞳には、もう絶望の影はない。
あの嵐の壁をぶち抜いてやるという、熱く、純粋な闘志だけが燃え上がっていた。
読んでいただき、本当にありがとうございます!
身一つの野良犬となって無風地帯を突破! そしてついに姿を現した、絶対防壁『嵐の壁』。
世界を真っ二つに叩き割る巨大な絶壁を前にして、水も食料も失った彼らの瞳に絶望はありませんでした。
すべてをかなぐり捨てたからこそ燃え上がる、熱く純粋な闘志。
ここからが本当の戦いです。
明日も夜に更新します。絶対にお見逃しなく!




