第56話 見えない風を捕まえる
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エンジンが熱暴走の限界を超え、ついに沈黙。
静かに雲海へと落ちていく絶望の中、シェリルの目が「見えない希望」を捉えます。
――プシューッ!!
機関室から、ついに限界を超えた高熱の白煙が吹き出した。
水温計の針はとっくに振り切れ、ガラス管が熱でひび割れている。キメラ・ドライブは断末魔のような金属音を上げ、船体を激しくガタつかせていた。
「ダメだ……! これ以上は本当にエンジンが爆発する!」
僕はギリッと奥歯を噛み締め、震える血まみれの左手でメインコンソールのキルスイッチを叩き込んだ。
パスッ、という虚しい音と共に、トラクターエンジンの狂ったような咆哮が途絶える。
巨大なプロペラがゆっくりと回転を止め、浮遊石の青い光がスーッと色褪せていった。
途端に、船内を圧倒的な静寂が包み込む。
推力と浮力を同時に失ったアルバトロス号は、まるで目に見えない巨大な手に押さえつけられるように、静かに、そして確実に高度を落とし始めた。
「……落ちる」
後部座席で頭を抱えていたカイルが、絶望に満ちた声で呟いた。
狂気から完全に正気を取り戻した彼の目には、自分がいかに愚かな行動をとってしまったかという、強烈な自己嫌悪と後悔の色が浮かんでいた。
「僕のせいだ。僕がパニックを起こして操縦桿を奪おうとしたせいで、無駄な推力と高度を消費した。……ごめん、レオ。本当に、すまない……」
「謝るな」
僕は操縦桿から手を離し、背もたれに深く寄りかかった。
「どっちみち、熱と燃料の限界だった。俺の判断が遅かったんだ。……悪い、みんな。俺が、ここまでだ」
天井を見上げる僕の声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
腕を斬り裂いてまで繋ぎ止めた正気も、限界を迎えた物理法則の前には無力だった。
熱気は引かず、水は一滴もなく、船は沈んでいく。眼下には、相変わらず蜃気楼の甘い幻覚が広がっている。
ついに僕の心の中の「野良犬」すらも、牙を折られてしゃがみ込もうとしていた。
「レオ、カイル。諦めないで」
静かな、だがひどく力強い声だった。
振り返ると、シェリルが助手席に立ち上がり、天窓から見える群青色の空に向かって、アストロラーベを高く掲げていた。
船が沈みゆくこの絶望的な状況下にあっても、彼女は決して下を見ようとはせず、ただひたすらに上だけを見つめ続けていたのだ。
「シェリル……? もう、エンジンは動かないんだぞ……」
「エンジンが動かないなら、風に乗ればいいのよ!」
シェリルは汗と涙でドロドロになった顔で、僕たちを振り返って叫んだ。
「見て! あの『双子座の尾』にあたる一等星! 他の星と比べて、瞬きの波長が異常に早くて不規則だわ!」
僕とカイルは顔を見合わせ、急いで天窓を見上げた。
素人の僕にはただの星の瞬きにしか見えない。だが、カイルの顔色が一瞬で変わった。
「……星の光が、小刻みにブレている。大気の層が、あの高度だけ猛烈な勢いで移動している証拠だ……!」
「そうよ! この無風地帯の遥か上空、成層圏との境界線スレスレの場所に、細くて強烈な気流の帯が走っているの!」
シェリルはアストロラーベの歯車を猛烈な勢いで回し、歓喜に声を震わせた。
「カッシーニの星図には載っていない、今この瞬間にしか見えない『生きた風』よ! あの風の帯を捕まえれば、エンジンを回さなくても、帆の力だけでこの無風地帯を抜け出せるわ!」
針の穴を通すような、一筋の希望。
それは、どんな絶望の中でも絶対に空から目を逸らさなかったシェリルの執念が、この何もない虚空から見つけ出した奇跡だった。
「風……見えない風が、あそこにあるのか……!」
折れかけていた僕の心に、再び小さな火種が灯るのを感じた。
「でも、高度が高すぎる!」
カイルが弾かれたように計算尺を拾い上げ、狂ったような勢いで目盛りをスライドさせた。
「現在の高度三千から、気流の走る高度八千まで! 推力ゼロの今の状態から、どうやってそこまで登る!? エンジンが完全に冷えるのを待っていたら、その前に船が雲海に沈むぞ!」
カイルの言う通りだった。
風の場所は分かった。だが、そこへ届くための「足」がもう残されていない。
アルバトロス号は今この瞬間も、秒速数メートルで静かに沈み続けている。
「……計算しろ、カイル」
僕は左腕から滴る血をコートで乱暴に拭い、再び操縦席に座り直した。
「今の余熱状態のエンジンで、あと何秒回せる? 残ってるエタノールの最後の一滴まで爆発させたとして、どれだけの推力が出る?」
「無茶だ! 安全弁を無視して限界突破させれば、本当にエンジンブロックが吹き飛ぶぞ!」
「吹き飛ぶ前に上空の風に放り込めばいい! やれ、天才! お前の頭脳で、この鉄屑をあの風まで届かせる軌道を弾き出せ!」
「……っ!」
カイルはギリッと奥歯を噛み締め、手元の計算尺を睨みつけた。
もう、幻覚に逃げ込むような弱さは微塵もなかった。彼は自らの過ちを清算するかのように、死に物狂いで『絶望的な軌道計算』へと没入していく。
「……レオ」
不意に、後部座席から微弱な声がした。
熱中症で昏倒していたリゼが、薄く目を開け、床を這うようにして僕の背中に手を伸ばしていた。
「リゼ! 起きるな、体力を温存しろ!」
「……重い、でしょ……」
彼女は掠れた声で、アルバトロス号の船体を指差した。
「水も、空っぽ。食料も、要らない。……この船、重すぎるわ……」
その言葉に、僕とカイルは雷に打たれたように顔を見合わせた。
「……そうか! 質量だ!」
カイルが弾かれたように叫び、血走った目で計算尺を天に突き上げた。
「エンジンの推力が足りないなら、船体の重量を極限まで軽くすればいいんだ! 水樽、予備の部品、防寒着……今すぐ捨てられる荷物は全部で数百キロになる! それだけ身軽になれば、今の余熱推力でも、上空の風まで届く軌道が……描ける!」
行き詰まっていた天才の瞳に、パズルの最後のピースがはまったような、爆発的な歓喜の光が宿った。
僕は思わず、声を上げてガハハッと笑った。
「最高だぜ、リゼ! 一番ケチなお前が、一番デカい活路を開いてくれた!」
それは、朦朧とする意識の中で彼女が下した、マネージャーとしての最後の決断――『物資を捨てる』という最大の覚悟だった。
絶望の底に沈みかけていた僕の心臓が、再びドクンと大きく脈打つ。
「……分かった。お前の大事な荷物、全部空の彼方に投げ捨ててやるよ」
僕はニッと野良犬の笑みを浮かべ、スロットルレバーを強く握り直した。
シェリルが見つけた風。カイルの計算。リゼの覚悟。
四人の歯車が、この完全な絶望の中で再びガッチリと噛み合ったのだ。
仲間たちが繋いでくれたこの最後の希望を乗せて、僕は「一発勝負」の大ジャンプへと挑む覚悟を決めた。
お読みいただき、ありがとうございます!
推力ゼロの状態から、上空のジェット気流へどうやって届かせるのか?
ここでリゼが「荷物を全部捨てる」という、命を繋ぐための最大の覚悟を決めました。
シェリルが見つけ、カイルが計算し、リゼが身を削り、レオが飛ばす。
絶体絶命のピンチだからこそ輝く、4人の歯車の噛み合いに胸が熱くなります!
次回、命懸けの「大ジャンプ」です!
明日もお楽しみに!




