第55話 狂気と水の一滴
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幻覚に魅入られ、操縦桿を奪おうとするカイル。
甘い誘惑に抗うため、レオが下した痛絶な決断とは……!
「私を信じて……! 星は、あっちにはないわ!!」
シェリルの悲痛な絶叫が、オーブンのような船内に響き渡った。
その声に、僕はハッとして無意識に傾けかけていた操縦桿を強く引き戻した。
だが、限界を迎えた肉体と精神は、すぐには言うことを聞いてくれない。喉の奥はヤスリで擦られたように乾ききり、息を吸うたびに肺が焼け焦げそうに痛む。
眼下の鏡面雲海には、相変わらず水が豊かに湧き出す故郷の幻影が、ゆらゆらと甘く手招きをしていた。
「シェリル、君は間違っている!」
不意に、カイルが目を血走らせて助手席のシェリルに詰め寄った。
「君の観測データは、この異常な磁場と高温で完全に狂わされているんだ! 理論的に考えて、あそこに水がないわけがない! 見ろ、あの噴水の水しぶきの屈折率を! あれは本物の水だ!」
「違うわ! カイル、お願いだから落ち着いて!」
「落ち着いていられるか! このままじゃ僕たちは干からびて死ぬんだぞ!」
カイルは完全に論理を放棄し、力任せにシェリルのアストロラーベを奪おうと手を伸ばした。
「やめてっ!」
「カイル、てめえ何してんだ!」
僕が怒鳴りつけると、カイルは獣のような目で僕を睨みつけた。
「レオ、お前もだ! なぜあそこへ降ろさない! お前も喉が渇いているだろう!? あそこに行けば冷たい水が腹一杯飲めるんだぞ!」
「あれは幻覚だってシェリルが言ってんだろ! 目を覚ませ!」
「お前らこそ現実を見ろ! どけ、僕が操縦する!」
カイルは計器板を乗り越え、僕の握る操縦桿に強引にしがみついてきた。
「バカ野郎、離せ!」
「下に降ろすんだ! 水……水があるんだ!!」
狭い操縦席で、僕とカイルの激しい揉み合いが始まった。
天才的な頭脳で常に冷静だったカイルの面影はどこにもない。ただ「水が飲みたい」という狂おしい本能だけが、彼の理性をドロドロに溶かしていた。
ガコンッ!
カイルの体重が乗ったせいで、操縦桿が大きく前へ倒れ込んだ。
アルバトロス号が不気味な軋み音を立てて機首を下げ、一直線に眼下の蜃気楼へと向かって急降下を始める。
「やめろカイル! 雲海に突っ込むぞ!」
「あそこだ……あそこに行けば、楽になれる……っ!」
カイルの狂気じみた笑顔を見た瞬間。
僕の脳裏にも、『あそこに降りれば、全部楽になる』という甘い誘惑が、再び猛烈な勢いで広がった。
リーダーとしての重圧、熱気、痛み、喉の渇き。そのすべてから解放される。ただ操縦桿を倒したまま、あの涼しげな噴水に飛び込めばいいだけだ。
「……っ、レオ……」
その時、背後から微弱な声が聞こえた。
振り返ると、リゼが空になった木製の水樽を抱え込んだまま、床にパタリと倒れ込んでいた。
「リゼ!」
「……お水……冷たい、お水……」
彼女の目は半開きで、焦点が合っていない。異常な発汗で体内の水分を失い、完全に熱中症の限界を超えて昏倒してしまったのだ。それでも、彼女の細い指は、みんなに水を配るための小さなカップを死後硬直のように固く握りしめていた。
「高度が落ちてる! レオ、引き起こして! 幻覚に飲まれないで!!」
シェリルが涙と汗で顔をぐしゃぐしゃにしながら、必死に僕の肩を揺さぶった。
だが、僕の腕は鉛のように重く、カイルの狂気に抵抗する力が湧いてこない。視界が徐々に白くフェードアウトし、蜃気楼の水路がすぐ目の前まで迫ってくる。
(もう、無理だ……。水が、飲みてえ……)
意識が暗闇に沈みかけた、その瞬間。
――ガッ!!!
「ぐあぁっ!?」
カイルが短い悲鳴を上げて、操縦桿から手を離した。
僕は腰のベルトから整備用のナイフを引き抜き、自分自身の左腕を、ためらいなく浅く斬り裂いたのだ。
「レ、レオ……!?」
シェリルが息を呑む。
鮮血が滴り落ち、焼きゴテを当てられたような強烈な『痛み』が、僕の脳髄をガンガンと殴りつけた。
その激痛が、頭を覆っていた甘い幻覚の霧を一瞬にして吹き飛ばした。
「……はぁっ、はぁっ……!」
僕は血を流す左手でカイルの胸ぐらを掴み、思い切り顔面に鉄拳を叩き込んだ。
ドゴォッ!
「がはっ……!」
カイルが後部座席まで吹っ飛び、計器のフレームに頭をぶつけて蹲る。
「目を覚ませ、この大バカ野郎!!」
僕は血走った目でカイルを睨みつけ、船内に響き渡る声で怒鳴り上げた。
「俺たちは野良犬だ! 飢えと渇きには下町で嫌ってほど慣れてただろ! 誰かが用意してくれたような、あんな小綺麗な『偽物の骨』に、尻尾振って飛びついてんじゃねえ!!」
「レオ……っ」
カイルが口から血を流しながら、呆然と僕を見上げた。
「シェリル!! 座標を読め!」
僕はナイフを放り投げ、血まみれの両手で操縦桿を力任せに引き絞った。
「あ……、仰角維持! 針路、そのまま真っ直ぐ!」
シェリルが弾かれたようにアストロラーベを掲げ、涙声で叫ぶ。
「真っ直ぐだな! 上等だ!」
アルバトロス号は蜃気楼の水面に激突する寸前で猛烈に機首を跳ね上げ、幻覚の景色をバリバリと引き裂きながら、何もない虚空へと再び急上昇した。
甘い水の匂いは一瞬で消え失せ、再び肺を焼くような乾燥した熱気が船内に充満する。
「……死ぬなら、俺が選んだ空で死ぬ」
僕は荒い息を吐きながら、気絶しているリゼと、床にへたり込んでいるカイルを見た。
「幻覚なんかに殺されてたまるか。絶対に、お前らを本物の海に連れてってやる」
「……あ、あぁ……」
殴られた痛みと、自傷してまで自分たちを引き戻した僕の姿を見て、カイルはようやく完全に正気を取り戻した。
彼は自分が犯そうとした狂気に気づき、顔を両手で覆って、子供のように声を上げて泣き崩れた。
リゼは倒れたまま、微かに苦しそうな寝息を立てている。
「高度四千、安定したわ……」
シェリルが震える手で僕の左腕に止血の布を巻きつけながら、安堵の涙をこぼした。
「……ありがとう、シェリル。お前が叫んでくれなきゃ、全員あそこで死んでた」
「ううん。レオが、私たちを繋ぎ止めてくれたのよ」
血と汗と、極限の渇き。
僕たちは狂気の淵からギリギリで這い上がった。だが、現実の絶望は何も解決していない。
水はない。熱気は引かない。そして、限界まで出力を絞ったエンジンの水温計は、依然として致死ラインを指し示したままだった。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
自らの腕を切り裂き、その激痛で正気を繋ぎ止めたレオ。
「誰かが用意してくれた偽物の骨に、尻尾振って飛びついてんじゃねえ!」
この野良犬の魂からの叫びが、カイルの狂気を吹き飛ばしました。
しかし、幻覚を振り切ったところで現実の水不足と熱暴走の危機はそのままです。
明日、彼らの鉄屑の心臓がついに限界を迎えます。




