第54話 鏡面雲海の蜃気楼
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無風地帯に閉じ込められ、異常な暑さと渇きに苦しむ4人。
限界を迎える彼らの眼下に、甘く冷たい「オアシス」の幻影が現れます。
無風地帯に閉じ込められてから、丸一日が過ぎようとしていた。
アルバトロス号は、まるで巨大なオーブンの中に放り込まれたかのように、息苦しい熱気に包まれていた。
廃船島で凍えていたのが嘘のように、直射日光がジュラルミンの装甲を焼け焦がすように熱し、船内に蓄積されたエンジンの排熱が逃げ場を失って淀んでいる。
「……っ、水……」
後部座席で、リゼが掠れた声を漏らした。
分厚い防寒コートはとうに脱ぎ捨てられ、汗で肌に張り付いたシャツをパタパタと煽っているが、まとわりつく熱気は一向に引かない。
彼女は震える手で木製の水樽から柄杓で水を掬い、小さな金属のカップに注ぎ分けた。
「はい、みんな……飲んで。少しずつよ」
リゼから回ってきたカップを受け取った僕は、生ぬるい水を一口だけ口に含み、舌の上で転がすようにして喉へ流し込んだ。
美味くはない。廃船島のタンクからかき集めた、鉄錆と泥の匂いがする水だ。だが、今の僕たちにとっては、どんな宝石よりも価値のある「命」そのものだった。
廃船島で限界まで補充したはずの水が、この異常な暑さと異常発汗のせいで、たった一日で恐ろしいスピードで消費されていた。
「……リゼ、お前は飲まねえのか」
僕が振り返ると、彼女は空になった自分のカップを見つめ、カラカラに乾いた唇を無理やり引きつらせて笑った。
「私は、平気よ。あんたたちは操縦と計算で頭と体を使ってるんだから。……私が、ちゃんと配分を管理しないと」
マネージャーとしての強い責任感が、限界を迎えている彼女の肉体を無理やり動かしている。僕は胸が締め付けられる思いで前を向き直り、汗でズルズルと滑る操縦桿を力強く握り直した。
リーダーである俺が、ここで弱音を吐くわけにはいかない。
僕の判断一つで、船の命運が決まるのだ。その重圧が、暑さ以上に僕の精神をじわじわと削り取っていた。
エンジンの出力は限界まで絞っているが、それでも水温計の針はレッドゾーンの縁にへばりついたままだ。推力がスカスカに抜けたプロペラは虚しく空気を掻き回し、船は人が歩くような速度でしか進んでいない。
「……カイル。現在の高度と、針路は」
「…………」
「おい、カイル!」
僕が声を荒らげると、計器板に突っ伏していたカイルがビクッと肩を跳ねさせた。
「あ、ああ……すまない。計算尺が、うまく滑らなくて」
カイルの目は虚ろで、焦点が定まっていなかった。彼の足元には、いつの間にか床に落とした計算尺が転がっている。常に明晰だった彼の頭脳が、熱中症と疲労によって著しく低下し始めている証拠だった。
「……現在高度、四千。針路は……合ってるはずだ。でも、進んでる気がしない。計算式が、どれもこれも矛盾してる……この空間は、間違ってる」
カイルはブツブツと呟きながら、両手で自分の頭を抱え込んだ。
圧倒的な静寂。変わらない景色。そして、逃げ場のない異常な暑さ。
波一つない鏡面のような純白の雲海は、太陽の光を強烈に反射し、僕たちの目を容赦なく焼き付けてくる。
下を見れば、真っ白な闇。上を見れば、群青色の空。
ここは、人間の存在を拒絶する、完全な「無」の空間だ。
その時だった。
「……あ、あれ」
リゼが、窓のガラスに縋り付くようにして、眼下の雲海を指差した。
「レオ、カイル……見てよ。あそこに、島があるわ……」
「島だと?」
僕は目をこすり、汗で霞む視界で眼下を見下ろした。
鏡のように平滑な純白の雲海の表面に、ぼんやりとだが、確かに「景色」が映り込んでいた。
緑の木々が揺れ、透き通った水路が走り、レンガ造りの家々が立ち並んでいる。
それは、僕たちが見慣れた故郷――スラムの下町の風景によく似ていた。路地裏には、冷たい井戸水が湧き出す泉があり、屋台には瑞々しい果実が山のように積まれているように見える。
「水……あそこに行けば、冷たい水が、ある……」
リゼの虚ろな瞳が、その景色に完全に釘付けになっていた。
「違う、あれはただの下町じゃない」
カイルが弾かれたように立ち上がり、窓ガラスに顔を押し付けた。
「完璧な幾何学模様の都市区画……水路が放射状に張り巡らされ、中央には巨大な噴水が……。そうだ、あれはカッシーニの文献にあった、伝説の都の構造図そのものだ!」
カイルの血走った目が、異様な光を放ち始めた。
「計算外の現象だが、理屈は通る! この無風地帯の底に、僕たちが探していたオアシスが隠されていたんだ! レオ、あそこに降りれば水がある! 助かるんだ!」
カイルの言葉に、僕は思わず操縦桿を押し込みそうになった。
あそこへ行けば、この地獄のような暑さと渇きから解放される。冷たい水が飲める。
僕の脳裏にも、冷たく冷やした果実水を一気に飲み干す幻覚がフラッシュバックし、強烈な誘惑となって襲いかかってきた。
「ダメよ!! 下を見ちゃダメ!!」
不意に、助手席からシェリルの金切り声が響いた。
彼女は両手でアストロラーベを顔の前に掲げ、決して眼下の雲海を見ようとはせず、上空の星だけを血の滲むような目で見つめていた。
「あれは蜃気楼よ! この空域の特殊な磁場と、大気の温度差が引き起こす『磁気蜃気楼』! 人間の願望を、深層心理から引きずり出して見せているだけの幻覚よ!」
「幻覚なものか!」
カイルが激昂して叫んだ。
「あの水路の反射光も、植物の陰影も、光学的に完全に理にかなっている! 論理的に考えて、あそこに水がないはずがない!」
それは、カイルの明晰な頭脳が、過酷な現実から逃避するために「論理をねじ曲げて幻覚を肯定しようとする」恐ろしい狂気の始まりだった。
「降りて、レオ……お願い、あそこに降ろして……喉が、渇いて……死んじゃう……」
リゼが僕の背中にすがりつき、泣きそうな声で懇願する。
背中から伝わる幼馴染の弱り切った声。隣で論理的な狂気に囚われた親友の叫び。
そして、僕自身の喉を焼き焦がすような極限の渇き。
操縦桿を握る僕の腕が、無意識のうちに少しずつ前へと傾き始めていた。
「……レオ?」
シェリルが悲痛な声を上げた。
わかっている。彼女の言う通り、あれは幻覚だ。雲の底には何もない。だが、肉体の限界と「楽になりたい」という本能が、僕の理性をドロドロに溶かそうとしていた。
(もし本物だったら? あそこに降りれば、リゼを、みんなを救えるんじゃないか……?)
甘い誘惑が、逃げ道として耳元で囁く。
「レオ、私を見て! 下を見ちゃダメ!」
シェリルがアストロラーベを握りしめ、ボロボロと涙をこぼしながら絶叫した。
彼女とて、喉は渇ききっている。あの幻覚のオアシスに飛び込みたい衝動と必死に戦いながら、自分一人が「何もない虚空の星」という真実を主張し続ける孤独な恐怖に耐えているのだ。
もし自分の観測が間違っていれば、彼女の言葉がみんなを干からびさせて殺すことになる。その圧倒的な重圧に圧し潰されそうになりながらも、彼女は決して星から目を逸らさなかった。
「私を信じて……! 星は、あっちにはないわ!!」
彼女の絞り出すような悲鳴が、僕の頭の中でガンガンと響き渡る。
仲間を救うという名目の甘い幻覚か。孤独で過酷な星の真実か。
眼下の鏡面雲海に映るオアシスは、引き裂かれそうな僕たちの精神を、甘く、冷たい絶望の底へと誘い込もうとしていた。
読んでいただき、感謝です!
鏡のような雲海に映る、水と緑に溢れた故郷の景色。
あまりの渇きに、常に冷静だったカイルの頭脳すら論理をねじ曲げて狂気を肯定し始めてしまいます。
「下を見ちゃダメ!」と一人で孤独に星を見つめ続けるシェリルの悲痛な叫び。
極限状態の彼らの運命は、レオの操縦桿に託されました。
明日、この蜃気楼との決着です!




