第53話 風の死んだ海
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鉄の墓場を脱出し、順調に絶望の海を進むアルバトロス号。
しかし、空という怪物は新たな絶望「静的な恐怖」を彼らに突きつけます。
鉄の墓場を脱出してから、三日が経過していた。
僕が強引に削り出した真鍮のシリンダーは、トラクターのエンジンブロックに完璧に馴染み、アルバトロス号はかつてないほど力強く、安定した鼓動を響かせていた。
満タンの水と燃料。そして何より、シェリルが先人たちの記録から導き出した「完璧な星図」。
僕たちはついに迷いを断ち切り、伝説の都へ向けて真っ直ぐに東の空を突き進んでいた。
「……うん、いい音だ」
僕は操縦桿を握りながら、心地よいエンジンの振動に身を任せていた。
相変わらずコンパスの針は狂ったように回り続け、視界の半分は純白の雲海で埋め尽くされている。だが、絶望の海に漕ぎ出した初日のような空間失調の吐き気は、もう誰にもなかった。
「高度七千で安定。シェリル、現在の座標は?」
「『銀時計の座』の仰角から計算して……予定ルートを寸分違わず飛んでるわ。このペースなら、あと数日でこの空域を抜けられるはずよ」
助手席でアストロラーベを覗き込むシェリルの声も、明るく弾んでいる。
「水も食料も計算通りよ。レオ、あんまりエンジンをいじめないで、このままのペースで頼むわね」
後部座席で帳簿にペンを走らせるリゼも、どこか誇らしげだ。
すべてが順調だった。
僕たちはついに、この過酷な空を「乗りこなした」のだと、誰もが疑っていなかった。
だが、空という怪物は、僕たちが油断したその瞬間を待っていたかのように、まったく別の顔を見せ始めた。
――ピタリ。
三日目の昼。不意に、船体を常に小刻みに揺らしていた「風」の感触が、完全に消え失せた。
「……え?」
僕は思わず操縦桿を握る手に力を込めた。
ジュラルミンの装甲を撫でる風切り音が消え、気嚢の帆布がはためく音も止んだ。
トラクターエンジンは今まで通りに爆音を轟かせ、プロペラは全力で空気を掻いている。だが、操縦桿から伝わってくるはずの、空気を切り裂く「手応え」が、まるで泥沼にでも突っ込んだかのように、ひどく重く、鈍いものに変わっていた。
「レオ……外を見て」
シェリルが、震える指で窓の外を指さした。
「雲海が……止まってる」
「なんだと?」
僕は横を向き、眼下に広がる純白の海を見下ろして、息を呑んだ。
今まで、常に波打つように流れていた雲海が、完全に静止していた。風という動きを完全に失い、表面が恐ろしいほど平滑になっている。
それはまるで、世界を真っ二つに分断する「巨大な白い鏡」のようだった。
「風が、完全に死んだ……」
カイルが計器板から顔を上げ、焦燥感を滲ませた声で呟いた。
「この空域の気圧配置が異常だ。巨大な磁気嵐と磁気嵐の狭間……気流が完全に相殺されて、真空地帯のように風が一切吹かない『無風地帯』に突入したんだ!」
「無風地帯? でも、エンジンは回ってるわよ! なんでこんなに進まないの!?」 リゼが身を乗り出して叫ぶ。 「暑すぎるんだ! 異常な高温で空気が薄くなりすぎて、プロペラが空回りしてる! 前に進む推力がスカスカに抜けてるんだよ!」
「レオ! 星の瞬きがおかしいわ!」
シェリルがアストロラーベを握りしめ、パニックを起こしかけた声で叫んだ。
「私の観測データも計算式も間違っていないはずなのに、船の現在地が……予定より全然進んでいない! まるで、見えない壁に押し返されているみたい!」
「落ち着けシェリル! お前の目は間違ってねえ!」
僕は強引にスロットルレバーを押し込み、エンジンの回転数を上げた。
ドバォォォォン!! という咆哮が響く。だが、回転数を上げても、船が前に進んでいく感覚は一向に得られない。
ただ無駄に燃料を消費し、虚しく空気を掻き回しているだけのような、得体の知れない不安が僕の胸をざわつかせた。
嵐の壁を越える時の、あの荒れ狂う「動的な恐怖」とは全く違う。
これは、音がなく、動きもなく、ただじわじわと真綿で首を絞められるような「静的な恐怖」だった。
「……暑い」
不意に、リゼが首元のスカーフを引きむしりながら呟いた。
「なによこれ……急に、オーブンの中にでも入れられたみたい……っ」
彼女の額から、大粒の汗がダラダラと流れ落ちている。
僕も、自分が着ている防寒コートの中が、サウナのように蒸し返っていることに気がついた。
「まずいぞ……レオ、エンジンの水温計を見ろ!」
カイルの切羽詰まった声に、僕はサブコンソールに視線を落とした。
冷却水の温度を示す針が、安全圏を軽々と振り切り、レッドゾーンへとジリジリと這い上がっている。
「どういうことだカイル! 冷却水は満タンに入ってるはずだろ!」 「水があっても、それを冷やすための『風』がないんだよ!」
カイルは自分の髪を掻き毟り、血走った目で計器板を睨みつけた。 「エンジンが吐き出した熱が船の周りにまとわりついて、冷却水がただの熱湯になってる! このまま回し続ければ、確実に熱暴走を起こす! レオ、出力を絞れ! 限界までだ!」
熱を逃がせないということは、鉄の墓場で起きた「シリンダーの焼き付き」が、再び起こるということだ。
「出力を絞ったら、石を揺らす振動が弱まって浮力が落ちる! 雲海に真っ逆さまだぞ!」 「回したままでも、熱でエンジンが壊れて落ちるんだよ! くそっ、これじゃどう計算しても詰みじゃないか……!」
常に冷静に理論を弾き出していたカイルが、初めて計算尺を床に投げつけ、パニックの兆候を見せた。理論が通用しない大自然のバグ。それが、天才の強靭な精神を内側から崩し始めていた。
「ハァ……ハァ……っ、レオ、水筒を取って……」
リゼが荒い息を吐きながら、フラフラと水樽の方へ手を伸ばした。
彼女の顔は異常な暑さで真っ赤に茹で上がり、着ていたコートを脱ぎ捨てていた。
「ダメよ……この暑さじゃ、人間が先に干からびるわ……。水が、足りない……」
最も現実を見ているリゼが、異常な発汗による「水の枯渇」を誰よりも早く感じ取り、恐怖に震え始めていた。
窓の外は、変わらず真っ白な鏡のような雲海と、群青色の空。
波一つない静寂の中で、僕たちの船だけが、熱と狂気に包まれた密室と化していた。
「……冗談じゃねえぞ」
僕は汗で滑る操縦桿を力強く握り直し、まとわりつくような熱気の中で前を睨んだ。
船は進まない。空気が薄くて推力も抜ける。エンジンは悲鳴を上げ、仲間たちは見えない敵に心を削られている。
茹でガエルのように、じわじわと死が迫ってくる感覚。
地図のない絶望の海は、嵐のような牙を剥かなくとも、ただそこに「在る」だけで僕たちを簡単に殺せるのだということを、思い知らされていた。
お読みいただき、ありがとうございます!
風が死に、雲海が静止する無風地帯。
風がないだけで、船は排熱の逃げ場を失い、巨大なオーブンと化してしまいます。
嵐のように分かりやすい暴力ではなく、じわじわと茹でガエルのように殺しにくる大自然の恐ろしさ。
彼らはこの熱気から逃れることができるのでしょうか?
明日も夜に更新します!




