第50話 届かなかった星図の続き
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泥だらけのサルベージを続ける仲間たちの裏で、シェリルは一人の名もなき航法士の遺体と向き合います。
絶望の底で見つけた、一筋の眩い光とは。
鉄の墓場での略奪が始まって、丸一日が経過しようとしていた。
レオとカイルが下層の船の底へ潜り込んで使えそうな金属部品を探し、リゼが甲板でタンクからドロドロの燃料をかき集めている間、シェリルはただ一人、中腹に横たわる中型船の操舵室に留まっていた。
割れた窓ガラスから、ヒュー、ヒューと冷たい風が吹き込んでくる。
足元には千切れた配線や錆びた計器が散乱し、強い鉄錆の匂いと、古い紙の埃っぽい匂いが立ち込めていた。
外から微かに聞こえてくるレオたちの作業音だけが、ここが完全に死に絶えた世界ではないことを教えてくれる。
「…………」
シェリルは音を立てないようにそっと歩み寄り、操舵輪に突っ伏すようにして息絶えている白骨の前にひざまずいた。
白骨の主は、分厚いフード付きのコートを着ており、その骨張った両手は、今でも大事そうに一冊の革装丁のノートを抱え込んでいた。
「……読ませてもらうわね、先輩」
シェリルは小さく呟き、遺体を傷つけないよう、慎重にそのノートを引き抜いた。
表紙には『航海日誌』とだけ記されている。
ページをめくると、そこには見慣れた数字の羅列と、緻密な幾何学模様がびっしりと書き込まれていた。
「これは……星の観測データ……」
シェリルはランタンの明かりを近づけ、その数式を無我夢中で追い始めた。
読めば読むほど、この名も知らぬ航法士の優秀さが伝わってくる。彼らもまた、狂う羅針盤に絶望することなく、星の瞬きのズレを計算してこの磁気嵐の海を進んでいたのだ。カッシーニの理論をベースにしながらも、独自の天候補正を組み込んだその計算式は、シェリルから見ても息を呑むほどに美しく、正確だった。
だが、ページが進むにつれて、美しかった数式に焦りと乱れが混じり始める。
『――星の重力偏差に異常あり。カッシーニの計算式と実際の座標が合わない。』
『――風向は正常だが、目に見えない巨大な引力に船が流されている。』
『――脱出不能。磁場の網に捕まった。』
インクの掠れた震える筆跡から、当時の彼らの絶望が痛いほどに伝わってくる。
なぜ、これほど優秀な航法士がここに捕まってしまったのか。シェリルは最後の数ページを熟読し、ハッと息を呑んだ。
「そうか……『時間の経過』だわ」
カッシーニが山頂の観測所で星図を書き上げたのは、二百年も昔のことだ。
この空域の巨大な磁気嵐や重力異常のパターンは、不変ではない。二百年の歳月の中で、目に見えない磁場の波は少しずつうねり、カッシーニの時代には存在しなかった『局地的な磁場の吹き溜まり』を生み出していたのだ。
この航法士たちは、それに気づくのが遅すぎた。正しい星図を信じて飛んだ結果、存在しないはずの引力の網に捕まり、二度と抜け出せなくなってしまったのだ。
「……すごいわ。あなた、自分が死ぬってわかってから、これを書いたのね」
シェリルの目から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
ノートの最後のページに書かれていたのは、死の恐怖や誰かへの恨み言ではない。
彼らがこの海域に捕まってから、飢えと渇きで息絶える直前まで観測し続けた、『最新の磁場変動のパターン』と『カッシーニの計算式との誤差の修正値』だった。
彼らは自分たちの死を無駄にしないために、いつか自分たちと同じようにここへ辿り着く、見知らぬ『野良犬』たちのために、この決定的なデータを遺してくれていたのだ。
「無駄にはしないわ。絶対に」
シェリルは涙を袖で乱暴に拭い、自分のアストロラーベを取り出した。
真鍮のダイヤルを回し、彼らが命と引き換えに遺してくれた「失敗の記録」を、自分の計算式の中に組み込んでいく。
二百年前の天才の理論と、先人たちの命がけのデータ、そしてシェリルの観測が、この静かな鉄の墓場で一つに結びついた。
アストロラーベの歯車がカチリと鳴り、これまでに見えなかった、磁気嵐の網目を縫って進む『真の航路』が完全に浮かび上がった。
「ありがとう。あなたの星図の続きは、私が必ずあの場所へ届けるわ」
シェリルは航海日誌を自分の胸に抱きしめ、白骨となった先輩の航法士に向かって、深く、静かに頭を下げた。
彼女は弾かれたように立ち上がり、不安定な鉄屑の山を駆け下りて、急いでアルバトロス号へと向かった。
甲板に戻ると、泥と油にまみれたリゼが帳簿を叩いて歓声を上げているところだった。
「水、四十リットル確保! エタノールも予備タンクの半分まで満たしたわ!」
「これで、あと三日は飛べる! 三日あれば、この海を抜けられるかもしれない!」
レオとカイルも、泥のように重い身体を引きずりながら、深い安堵の息を漏らしていた。
「みんな! 見つけたわ、真の航路よ!」
シェリルが駆け寄り、アストロラーベを高く掲げた。
「過去の航海日誌から、この空域の磁場変動のパターンを割り出したの! もう絶対に迷わないわ!」
「本当か! すげえぞシェリル!」
レオが油だらけの手でシェリルの頭をガシガシと撫で回す。
「よし、水も燃料も確保した! 航路も完璧だ! 飛ぶ前に一度、エンジンのご機嫌を伺っておくか!」
レオは満面の笑みで操縦席に座り、重たい手動スターターのレバーを握りしめ、思い切り引き絞った。
――ガキンッ!!
船内に、鈍く、ひどく暴力的な金属音が響いた。
レバーがビクともしない。まるで岩の壁を引いているような、絶対的な抵抗感。
「……え?」
嫌な汗がレオの背中を伝う。慌てて機関室のカバーを蹴り開け、キメラ・ドライブの心臓部を覗き込んだ彼らの目の前が、真っ暗になった。
「嘘だろ……。ピストンが、シリンダーに完全に噛み付いてる」
「……無理に回し続けたせいで、本体の熱を逃がしきれなかったんだ。高温になった金属がパンパンに膨張して隙間がなくなり、内部で完全に焼き付いてしまっている。……金属同士が融合したみたいにくっついてるぞ」
カイルが血の気を失った顔で、僕たちを振り返った。
「ダメだ。この鉄屑の心臓は、完全に死んだ」
水がある。燃料もある。航路も見つけた。
だが、それを推進力に変えるエンジンが死ねば、すべては終わりだ。
見つけたばかりの眩い希望は、一瞬にして、逃げ場のない完全な絶望へと塗り潰されたのだった。
お読みいただき、ありがとうございます!
先人が命懸けで遺してくれた「星図の続き(磁場変動データ)」。
過去から現在へバトンが繋がり、ついに完璧な航路を手に入れた!……と思った直後の、あの音。
ジェットコースターのように感情が揺さぶられる展開ですが、この絶望感がたまらないという方もいらっしゃるのではないでしょうか(笑)。
最大のピンチ。この焼き付いた心臓をどう蘇らせるのか?
明日、レオの「神業」が炸裂します! 絶対にお見逃しなく!




