第5話 天才は退屈している
いつも応援ありがとうございます。
本日は少し場所を変えて、アカデミーの研究室へ。
退屈を持て余した「天才」カイルが登場します。彼もまた、この世界の常識に縛られている一人です。
王立アカデミーの講義室は、死体安置所のように静かだった。
教壇に立つ老教授が、埃っぽい黒板にチョークで数式を書き連ねている。
『浮遊石の安全係数について』。
もう百回は聞いた話だ。石を鉛のケースに封印し、出力を制限し、波風を立てずに飛ぶ方法。
安全で、確実で、そして死ぬほど退屈な理論。
「……あくびが出るな」
カイルは一番後ろの席で、頬杖をついて窓の外を眺めた。
空は青い。だが、この教室から見る空は、ガラス一枚隔てているだけで、どこか作り物めいて見える。
周囲の学生たちは必死にノートを取っているが、カイルのノートは白紙だ。
書く必要がない。教科書に載っている理論など、入学時に三日で全て頭に入れた。
僕が知りたいのは「安全な飛び方」じゃない。
この世界を縛る物理法則の、その向こう側にある景色だ。
だが、そんな話をすれば、教授たちは眉をひそめ、同級生たちは「変人」と噂する。
ここは天才を育てる場所じゃない。優秀な管理者を量産する工場だ。
「……カイル君。聞いていますか?」
不意に名前を呼ばれ、カイルは気だるげに視線を戻した。
「この方程式の解を答えなさい」
「ゼロです」
「……計算もせずに?」
「計算するまでもありません。変数が相殺し合って無になります。……先生、その式は10年前の論文で既に否定されていますよ。前提条件の『エーテル密度』が間違っています」
教室がざわつく。教授の顔が赤くなる。
またやってしまった。
正解を言うと嫌われる。この学校の、いや、この社会の腐ったルールだ。
キーンコーン……。
救いの鐘が鳴る。カイルは誰よりも早く席を立ち、鞄を掴んで教室を出た。
背中で「可愛げのない奴だ」という囁き声が聞こえるが、知ったことではない。
***
放課後の図書室。
ここがカイルの唯一の居場所だった。古い文献の山に埋もれ、現代では否定された「狂気の科学者たち」の論文を読む時だけが、息ができる時間だ。
「……退屈だ」
本を閉じ、ため息をつく。
このまま卒業して、ギルドに就職して、安全な飛行船の設計図を引いて一生を終えるのか。
そんな人生なら、死んでいるのと同じだ。
ドタドタドタッ!!
その時、静寂を切り裂くような足音が廊下から響いてきた。
さらに、図書室の重たい扉が、遠慮なしにバンッ! と開け放たれる。
「カイル! いるかー!?」
怒鳴り込んできたのは、煤と油の臭いをプンプンさせた少年――レオだった。
かつての同級生で、今は町外れでクズ鉄屋をやっている落ちこぼれ。
カイルが最も苦手とする、「非論理的」な人種だ。
「……静かにしろ、野蛮人。ここは神聖な学びの場だぞ」
「おっ、いたいた! 探したぜ!」
レオはカイルの嫌味など聞こえていないかのように、ズカズカと歩み寄ってくる。
だが、その目は異様に輝いている。
「何の用だ。僕は忙しいんだが」
「嘘つけ、どうせ暇してんだろ? 頼みがあるんだ、知恵を貸してくれ!」
レオはニカッと笑い、カイルの机の上に一枚の汚れた紙を広げた。
それは、設計図だった。
いや、設計図と呼ぶにはあまりにも稚拙な、子供の落書きのような図面だ。
「……なんだこれは。農耕用トラクターのエンジンに、浮遊石を直結? 正気か? こんなことをしたら振動で石が砕けるぞ」
「そこなんだよ! 今、とびきりの燃料を手に入れたんだが、熱と振動がすごくてな。どうやったら石をなだめられるか、お前の頭脳で計算してほしいんだ」
カイルは呆れて眼鏡を押し上げた。
こいつは何も分かっていない。
浮遊石と内燃機関は、水と油だ。それを無理やり繋ぐなんて、物理法則への冒涜だ。
「帰れ。時間の無駄だ。……そんなガラクタ、動くわけがない」
「動くさ! さっき五秒だけ浮いたんだ!」
「五秒? それは『浮いた』んじゃない。『事故の予兆』だ」
カイルは本を開き直し、彼を無視しようとした。
だが、レオは懐から小さなガラス瓶を取り出し、コトンと机に置いた。
「……なら、これを見ても同じことが言えるか?」
瓶の中には、無色透明な液体が入っている。
カイルは眉をひそめ、その瓶を手に取った。キャップを開けた瞬間、ツンとした鋭い揮発臭が鼻をつく。
「ッ……これは」
「『高純度アルコール燃料』だ。昔のレース用らしい。リゼの家の蔵から出てきた」
カイルの目が大きく見開かれた。
ただのアルコールじゃない。精製度が桁違いだ。これほどの純度の燃料は、現代の市場には出回っていない。理論値だけの幻の燃料だ。
「……どこでこれを?」
「だから、リゼの家だって。あいつがスポンサーになってくれたんだ。タンク一杯分はあるぜ」
レオはニヤリと笑った。
「燃料はある。目的地もある。シェリルって星読みが、『空の逃げ水』の座標を特定したんだ」
カッシーニ。空の逃げ水。
カイルの手が止まった。
その単語は、彼が今読んでいた古い文献の中に記されていた、未証明の仮説だ。
「……待て。君たちは、あそこへ行く気か? あの『死の海域』へ?」
「おう! 一番乗りだ!」
レオが即答する。
カイルは呆気にとられた。
無知な技師。落ちぶれた商家。引きこもりの星読み。
烏合の衆だ。成功率など万に一つもない。
だが。
カイルの視線が、レオの汚れた設計図に戻る。
稚拙だ。乱暴だ。
しかし、そこには教科書にはない「熱」があった。
幻の燃料を使い、安全係数を無視し、常識を嘲笑うかのような凶悪なエンジン配置。
もし。
もし仮に、このデタラメな設計が成立するとしたら?
既存の「静かな飛行船」では絶対に到達できない領域へ、物理の壁をこじ開けて行けるとしたら?
ドクン。
止まっていた心臓が、動き出した音がした。
「……貸せ」
カイルはレオの手からペンを奪い取った。
「え?」
「計算が雑すぎる。これじゃあ燃料のポテンシャルの半分も出せない。……吸気バルブのタイミングを遅らせて、圧縮比を限界まで上げろ。そうすれば、理論上は出力が1.5倍になる」
カイルの手が勝手に動く。
真っ白だったノートに、猛烈な勢いで数式が書き込まれていく。
楽しい。
答えの決まったテストなんかより、この「解けるかどうかも分からない難問」の方が、遥かに面白い。
「カイル……お前、やってくれるのか!?」
「勘違いするな! 僕はただ、あまりにもお粗末な設計図を見て、気分が悪くなったから修正してるだけだ!」
カイルは顔を真っ赤にして叫んだ。
だが、ペンは止まらない。
「いいか、条件がある。……僕も混ぜろ」
「へ?」
「君たちの実験だ。僕の計算通りに動くか、この目で確かめる権利がある。……僕の理論が正しいことを証明するためにな」
それは、天才が初めて見せた「ワガママ」だった。
安全な檻から出て、泥だらけの実験場へ降りるという宣言。
レオがニカッと笑い、汚れた手を差し出した。
「決まりだな! 歓迎するぜ、ひねくれ天才!」
「……触るな、油が移る」
カイルは悪態をつきながらも、ペンを回した。
退屈な時間は終わった。
ここからは、計算外の変数が支配する、カオスな時間の始まりだ。
「さあ、行くぞ。工房へ案内しろ。……僕の計算が正しければ、そのポンコツエンジンでも空を切り裂けるはずだ」
最後まで読んでいただき、感謝です!
「バカな設計だ。……だが、美しい」。
天才が「退屈な正解」より「面白い間違い」を選ぶ瞬間、書いていてとても楽しかったです。
次回、エンジンにとんでもない変化が……?
明日もまた、お会いできるのを楽しみにしています。




