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空はまだ設計途中だった ―浮遊石と未完成の飛行船―  作者: 空木 零
第3部 地図のない海と嵐の壁
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第47話 星明かりのシチューと回し続ける理由

いつもありがとうございます。

絶望の海へ出て三日目の夜。

いつ落ちるか分からない極限状態のフライトの中、リゼの作ってくれた温かい「シチュー」の匂いが船内を満たします。

絶望の海へ飛び出してから、三日目の夜が訪れていた。

狂った羅針盤と、全く変わらない白と青の景色に苛まれる昼間が終わり、世界は完全な暗闇へと沈み込む。

月の光と、凍りつくように澄んだ星明かりだけが、眼下に広がる分厚い雲海を銀色に照らし出していた。


ドバォォォォン……!


アルバトロス号は、夜の静寂の中でも容赦なくトラクターエンジンの爆音を轟かせ、機体を激しく振動させながら飛び続けている。

この孤独な暗闇の空において、皮肉なことに、このやかましい騒音と不快な振動だけが、僕たちが「生きている(飛んでいる)」唯一の証明だった。


「はい、今日の配給よ。こぼさないように気をつけてね」


狭い船内を満たす機械油とオゾンの匂いの中に、ふわりと、食欲をそそるスパイスと肉の匂いが混ざり込んだ。

後部座席で火の気を遣わず、キメラ・ドライブから伸びる高温の排熱パイプにアルミの鍋をワイヤーで固定し、リゼが夕食を作ってくれたのだ。


「おおっ! 今日はシチューか!」


僕は操縦桿を片手で押さえながら、リゼから熱いブリキのカップを受け取った。


「シチューって言っても、カチカチの干し肉とレンズ豆を水で戻して、塩漬けの香草で煮込んだだけよ。パンも石みたいに硬いから、よくスープに浸して食べて」

「十分すぎるぜ。このクソ寒い中で温かいメシが食えるだけで、天国だ」


僕はカップに口をつけ、火傷しそうなくらい熱いスープを胃の奥へと流し込んだ。強烈な塩気と肉の旨味が、強張っていた内臓に染み渡り、思わず「ぷはぁっ」と息が漏れる。


「カイル、計算尺を置いて食べなさい。頭ばっかり使ってると、そのうち栄養失調で倒れるわよ」

「……ああ、わかってる。すまない」


リゼに小言を言われ、カイルは目の下に濃いクマを作った顔で計器板から視線を外し、スープのカップを受け取った。

この三日間、カイルはほとんどまともな睡眠を取っていなかった。シェリルが十分ごとに読み上げる星の観測データを元に、狂ったコンパスの代わりに現在地を割り出し、さらに外気温と気圧からエンジンの最適な燃料混合比を計算し続けているのだ。


「カイル、燃料の残りはどうだ?」


硬いパンをかじりながら僕が尋ねると、カイルは少しだけスープを啜ってから、重い声で答えた。


「……あまり良くない。昼間の高高度飛行でエンジンを酷使したせいで、エタノールの消費が予定をはるかに超えている。このペースだと、この雲海を抜ける前にタンクが完全に空になるぞ」


「冗談でしょ!?」

リゼが顔を青くして、手元の帳簿をめくった。


「燃料だけじゃないわ。私たちの飲み水だって、もう予備の樽の底が見え始めてるのよ! 残りは三十リットル……無駄遣いしなければ数日は持つだろうけど、もしこのまま迷子になったらどうするのよ!」

「わかってる。だから、夜の間は極限までエンジンの出力を絞って、燃料を節約しながら飛んでいるんだ。ただ、エンジンを弱めれば前へ進むプロペラの回転も、石を共鳴させる振動も弱まる。結果的に推力も浮力も落ちて、少しずつ高度が下がっていく。……朝までに、雲海に突っ込まないことを祈るしかない」


カイルの言葉に、船内に重い沈黙が落ちた。

温かい食事で少しだけ和らいだ空気が、再びヒリヒリとした「死」の気配に塗り潰されていく。

燃料をケチれば高度が下がる。だが、回し続ければ燃料が尽きる。どちらに転んでも、タイムリミットが来れば僕たちは落ちる。


「……難しい話は、メシを食い終わってからにしろ」


僕はわざと明るい声を出して、スープの最後の一滴まで飲み干した。


「リゼのシチューが冷めちまうだろ。こんな美味いもん残したら、バチが当たるぜ。なあ、シェリル」

「え? あ、うん! とっても美味しいわ、リゼ」


ずっと窓に張り付いてアストロラーベを覗き込んでいたシェリルが、ビクッと肩を揺らして振り返り、慌ててスープを口に運んだ。

彼女もまた、この三日間、一度も休むことなく星を読み続けていた。彼女の「目」がなければ、僕たちは五分で方向を見失うからだ。


「……あんたたちねえ。もう少し危機感を持ちなさいよ」

リゼは呆れたように溜息をついたが、その表情は少しだけ和らいでいた。


「ほら、お代わりあるわよ。カイルも、残さず食べなさい」

「……ああ、いただくよ」


轟音と振動が支配する狭い船内で、僕たちは身を寄せ合うようにして食事を終えた。


「カイル、リゼ。お前らは少し寝ろ。交代まであと四時間だ」

「でも、軌道計算が……」

「今夜は風が安定してる。細かい修正は俺とシェリルでやるから、お前は脳みそを休ませとけ。エンジンは俺が絶対に止めねえから」


僕が強引に言うと、カイルは限界だったのか、力なく頷いてキャビン後方に設えられた二段の簡易ベッドの下段へ潜り込み、毛布にくるまった。リゼもまた、帳簿を抱えたまま上段のベッドによじ登り、すぐに寝息を立て始めた。

船内に、トラクターの単調なエンジン音だけが響く。

僕は操縦桿を両手で握り直し、計器板の淡い光の中で前を睨んだ。

月明かりに照らされた純白の雲海が、すぐ下をものすごいスピードで後ろへと流れていく。もしエンジンが止まれば、五分と経たずにあの海の底へ一直線だ。


「……ねえ、レオ」

不意に、助手席から静かな声がした。


シェリルが、アストロラーベを抱きしめたまま、僕の横顔を見つめていた。


「レオは、怖くないの?」

「怖い? 何がだ」

「だって……コンパスも狂って、いつ落ちるかもわからないのよ。もし私が星の計算を一つ間違えたら、レオを巻き込んで死んじゃうかもしれないのに。……レオは、ずっとスロットルを握って、笑ってくれてるから」


彼女の声は、微かに震えていた。

何日も変わらない景色と、仲間の命を預かっているという重圧。それが、十七歳の少女の心を少しずつ削り取っているのは明らかだった。


「……怖いさ」


僕は操縦桿から片手を離し、自分の手のひらを見た。

油汚れと、じっとりと滲んだ冷や汗で真っ黒に汚れた手。


「俺だって、このクソうるさい振動が止まって、機体がフワッと沈み込む瞬間を想像すると、胃液を吐きそうになるくらい怖い。俺の手が滑れば、全員が死ぬんだからな」

「レオ……」

「でもさ」


僕は再び操縦桿を力強く握り込み、前方の暗闇を見据えた。


「止まったら、落ちるんだろ。なら、回すしかねえじゃんか」

「…………え?」

「複雑なことはカイルに任せる。難しい道案内はお前に任せる。リゼがメシを食わせてくれる。なら、俺のやることは一つだけだ」


僕はニッと笑って、シェリルを見た。


「この鉄屑の心臓が止まらねえように、ひたすらご機嫌を取りながらスロットルを開け続ける。ただそれだけだ。……お前が指した道なら、俺は何も疑わずについていくぜ」


僕の言葉に、シェリルはしばらくぽかんとしていたが、やがて「ふふっ」と小さく吹き出した。


「ほんと、単純なんだから」

「整備士の頭の構造はシンプルにできてるんだよ」


シェリルは窓の外の星空を見上げ、深く、静かに息を吸い込んだ。


「……『銀時計の座』の針から、『風見鶏の星群』への重力偏差、マイナス2度。風向き変化なし」


彼女の声から、先ほどまでの迷いと震えが消えていた。


「現在の針路、完璧よ。このまま飛んで、レオ」

「おう、任せとけ!」


僕はスロットルレバーをわずかに押し込み、エンジンの回転数を微調整した。

狂った羅針盤はグルグルと回り続け、相変わらず僕たちの現在地を教えてはくれない。

それでも、腹の底には温かいシチューがあり、隣には星を読む目がある。

僕たちは、轟音を上げて夜の雲海を切り裂きながら、ただ愚直に前へと進み続けた。

読んでいただき、ありがとうございます!

こんな死と隣り合わせの状況だからこそ、塩気のある熱いスープと、仲間の存在が何よりも五臓六腑に染み渡りますね。

恐怖を押し殺してスロットルを握り続けるレオと、彼を信じて星を読むシェリル。夜の星明かりの下での二人の静かな対話、いかがだったでしょうか。

燃料と水の残量は限界に近づいていますが、彼らの鉄屑の心臓はまだ止まりません。

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