第45話 さよなら、大地
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準備は整いました。もう、安全な地面も、帰るための燃料もありません。
人類がまだ誰も踏み入れたことのない空白地帯へ、片道切符のフライトが始まります。
氷点下二十度の山頂。鼓膜を刺すような完全な静寂の中で、真鍮のダイヤルを回す『チキッ、チキッ』という硬質な音だけが響いていた。
助手席に座ったシェリルは、凍てついたカッシーニの手帳を膝に広げ、アストロラーベに新しい座標を弾き出している。
その横顔には、つい先ほどドームの中で見せていた震えや怯えは微塵もなかった。あるのは、未知の海路を切り拓こうとする航法士としての、静かだが確かな熱を帯びた眼差しだけだ。
「……うん。太陽の南中高度と、昼間でも見える一等星の瞬き。カッシーニの基礎方程式と完全に一致してる……」
シェリルが震えるような息を細く吐き出し、アストロラーベのロックレバーを下ろした。
「最初の針路は、東南東。俯角五度で、ゆっくり降下して。……まずは、空気が濃くなって、エンジンが息を吹き返す高度まで下がらないと」
「了解だ。カイル、エンジンのご機嫌はどうだ?」
僕は操縦桿を握り直し、後部座席で計器板に潜り込んでいるカイルに声をかけた。
「最悪に近い。極寒のせいで潤滑油が水飴みたいに硬くなってる。シリンダーが温まるまでは、規定の半分の回転数しか出せないぞ。無理に回せばクランクシャフトがへし折れる」
「分かった。リゼ、そっちは?」
「ジュラルミンの増槽タンク、凍結なし。配管のバルブもすべて正常よ」
リゼは分厚い手袋でタンクをバンバンと叩き、帳簿にペンを走らせた。
「ただ、ここまで登るのに予定の1・5倍は燃料を食っちゃったからね。この分だと、帰り道を探す余裕なんてないわよ。片道切符だと思ってちょうだい」
「上等だ。帰り道なんか、着いてから考えりゃいい」
僕はニヤリと笑い、メインコンソールのキルスイッチを解除した。
「それじゃあ、この息が詰まるほどお上品な静けさとも、お別れだ」
スロットルをわずかに開き、重たいスターターレバーを渾身の力で引き絞る。
キュルルルッ……! ボッ、ボボッ……!!
凍りついたエンジンが抵抗し、重苦しい音を立てる。
「かかれよ、クソ鉄屑……!」
僕は祈るような気持ちで、さらに力強くレバーを引ききった。
ドバォォォォォン!!!
その瞬間、山頂の絶対的な「無音」が、暴力的なトラクターの咆哮によって木端微塵に打ち砕かれた。
青白い炎が排気管から噴き出し、耐圧ガラスの中の浮遊石が、エンジンの強烈な振動に共鳴して眩い青の光を放ち始める。
ビビリ音を立ててジュラルミンのフレームが軋み、足の裏から内臓を揺さぶるような激しい振動が全身に伝わってくる。
うるさくて、油臭くて、荒々しい。
だが、今の僕たちにとっては、このやかましい騒音こそが「生」の証明だった。
「気嚢圧力、規定値到達! 浮力発生してるわ!」
リゼの叫び声が、エンジンの爆音にかき消されまいと伝声管から響く。
「アンカー、パージ!」
ガキンッ! という鋭い音と共に、岩肌に食い込んでいた四本の鋼鉄製アンカーのロックが外れた。
巨大なアルバトロス号の船体が、ギギギ……と音を立てて、分厚い新雪から足を引き剥がす。
重力を無理やりねじ伏せるような、特有の抵抗感。
「行くぞ!!」
僕はスロットルを押し込み、プロペラのピッチを深めた。
スーパーチャージャーの過給音が甲高く鳴り響き、アルバトロス号は岩の針のような山頂の平地から、何もない虚空へと一気に滑り出した。
「うおおっ!?」
足場が突然消滅したことで、強烈な落下感が胃袋を持ち上げる。
だが、浮遊石の青い光が最高潮に達し、巨大な気嚢が船体をガッチリと宙で受け止めた。
エンジンの唸りが安定し、プロペラが空気を強力に後ろへと掻き出す。
「降下姿勢に移行! カイル、油温は!?」
「上がってきた! 回転数、あと二千まで許容できる! ……抜けろ、レオ!」
僕は操縦桿を両脚で挟み込みながら、船体を東南東へと向けた。
山頂を取り囲んでいた分厚い猛吹雪の層に、アルバトロス号が突っ込む。
バラバラバラッ! と氷の粒がガラスを叩きつける音が数秒続いた後――。
スパンッ、と視界が開けた。
「…………っ!」
操縦席の四人が、同時に息を呑んだ。
猛烈な吹雪を抜けた先に広がっていたのは、文字通り「果て」だった。
眼下には、見渡す限りの真っ白な「海」が広がっている。
いや、それは水ではない。水面のように平坦に、しかし波のようにうねりながら地平線の彼方まで続く、分厚い雲の海だ。
島も、突き出した岩も、大地の欠片すら、そこには一つも存在しない。
ただ、群青色の空と、純白の雲海だけが、世界を真っ二つに分断している。
「これが……地図のない、海」
シェリルが、窓ガラスに手をついて圧倒されたように呟いた。だが、その瞳の奥には恐怖よりも、長年夢見てきた空の深淵に触れた歓喜が揺らめいている。「……でも、道は見える。星が教えてくれるわ」
僕はふと、船尾の窓から後ろを振り返った。
そして、ゾッとするようなスケール感に思わず身震いした。
僕たちが今まで死に物狂いで登ってきた『白い山脈』が、巨大な氷の壁となって、僕たちの背後にそびえ立っていたのだ。
右を見ても、左を見ても、その白い絶壁は地平線の端まで連なっている。
それは今まで、僕たちを「外」へ出さないために立ち塞がる障害だった。
だが今、あの山脈は僕たちを「内側の大地」から完全に切り離す、巨大な隔絶の壁へとその意味を変えていた。
「……匂いが、ないわ」
後部座席で、リゼがぽつりと呟いた。
いつもなら、船の隙間から入り込んでくる風には、何かしらの匂いが混ざっているものだ。
下町の石炭の煙。市場の香辛料。雨上がりの土の匂い。森の湿った草の匂い。
それらはすべて、「人間がそこで生活している」という安心感の象徴でもあった。
しかし、ここには何もない。
鼻を突くのは、高空特有の鋭いオゾンと、肺が凍りそうなほど乾いた冷気。そして、僕たちの船自身が放つ、焦げた機械油とエタノールの匂いだけだ。
生命の気配が、完全に途絶えている。
この空は、人間に対して完全に無関心なのだ。
「……ねえ、レオ」
リゼは、自分の両腕を抱きしめながら、震える声で言った。
「私、なんだか急に怖くなってきた。……ここから先は、私が今までやってきた交渉とか、お金の計算とか、地上のルールが……一切通用しないのね」
物資を管理し、現実的な問題を金と知恵で解決してきた彼女にとって、この「人間の価値観が及ばない大自然の圧倒的な無」は、果てしない恐怖として迫っていた。
土の匂いすらしないこの場所で、もしエンジンが止まれば、僕たちは誰にも知られることなく、この白い海に飲み込まれて消えるだけだ。
「大陸棚を完全に越えたな」
カイルも、いつになく強張った顔で計器板から顔を上げた。
「地質学的な意味でも、生態学的な意味でも、ここから先は『大地』じゃない。人類がまだ定義すらしていない、完全な空白地帯だ。……レオ、僕たちは文字通り、生命圏の外に放り出されたんだぞ」
彼らの言う通りだ。
振り返ればそびえ立つ死の壁。見渡せば果てのない雲の海。
僕たちは、大地の庇護を完全に失った。帰る分の燃料もない、片道切符の虚空。
だが。
「……最高じゃねえか」
僕はスロットルレバーを力強く握りしめ、前方の見えない地平線を睨みつけた。
「俺たちが、一番乗りだ」
「レオ……?」
リゼが信じられないものを見るような顔をした。
「誰も見たことがない景色。誰も飛んだことがない空。地上の常識も、ギルドの法律も、ここじゃクソの役にも立たねえ。……俺たちは今日、本当の野良犬になったんだ」
僕の言葉に、シェリルがふふっと小さく吹き出した。
「そうね。野良犬なら、自分の鼻と足で道を切り拓くしかないわ」
彼女はアストロラーベを胸に抱き、真っ直ぐに前を見据えている。
「高度六千で安定……風向きも良好。このまま東南東へ直進して、レオ」
「よっしゃ、任せとけ!」
僕はシェリルの指示に従い、操縦桿を微調整した。
カイルは小さくため息をつきながらも、すぐに油圧計と冷却水の温度チェックに戻る。
「まったく……狂ったロマンチストたちに命を預ける僕の身にもなれ。……冷却水循環、正常。キメラ・ドライブ、巡航出力で安定」
「……もう、しょうがないわね。野良犬どもが途中で飢え死にしないように、私がきっちり胃袋と残りの燃料を管理してあげるわよ」
リゼも引きつった笑いを浮かべながら、震える手で両頬をパンッと叩き、保存食の木箱の点検を始めた。現実の恐ろしさを誰よりも理解している彼女とカイルだが、それでも止まることは選ばない。
キュィィィィン!! ドバォォォォン!!
アルバトロス号は、大自然の静寂を無遠慮に引き裂きながら、一直線に進んでいく。
さよなら、大地。
さよなら、煤煙と鉄錆にまみれた僕たちの故郷。
羅針盤すら狂い始める見えない空の道を、十七歳の少女の目と、時代遅れのトラクターの爆音だけを頼りに。
僕たちはついに、浮遊島が折り重なる伝説の都へ向けて、地図のない海への第一歩を踏み出したのだった。
最後まで読んでいただき、感謝です!
「さよなら、大地」。
土の匂いすらしない、完全に人間へ無関心な大自然の領域。リゼやカイルが恐怖を抱くのも無理はありません。
しかし、野良犬たちにとっては、これこそが求めていた「本当の自由」への第一歩です。
次回、絶望の海が早くも牙を剥き、アルバトロス号の「目」が奪われます。
明日も夜に更新します!




