第44話 震える指と星の座標
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絶対の孤独の中で星を見つめ続けた天文学者、カッシーニ。
氷点下の廃墟の中で、二百年の時を超えた「出会い」と「継承」の時が訪れます。
氷点下二十度の静寂の中、僕が振り下ろしたスレッジハンマーの打撃音が、鋭く、そして不気味なほど響き渡った。
ガキンッ! という甲高い音と共に、分厚い氷の層に亀裂が走る。
二度、三度と全力で叩きつけると、二百年間この場所を封じ込めていた氷の封印が砕け散り、重たい木製の扉がギギギ……と悲鳴を上げながら開いた。
途端に、内部から淀んだ空気が流れ出してきた。
カビや埃の匂いではない。それは、完全に時間が停止した「古い紙と乾いた冷気」の匂いだった。
「……ランタンを点けるわ。足元に気をつけて」
リゼがカチリと携帯ランタンに火を灯し、先頭を切って廃墟の中へと足を踏み入れた。
後に続く僕たちも、息を呑んだ。
外から見るよりも、ドーム状の観測所内部は広かった。だが、その空間の異常さに、僕たちは言葉を失った。
「これは……なんだ……?」
カイルが、ランタンの明かりに照らされた『壁』を見て、震える声で呟いた。
石造りのドームの壁、床、そして高い天井に至るまで。
ありとあらゆる隙間が、黒い煤や、赤茶けた何かの染料――おそらくは彼自身の血――で書き殴られた、無数の「数式」と「幾何学模様」で埋め尽くされていたのだ。
「カッシーニの計算式……」
シェリルが、壁の文字を指でなぞりながら圧倒されたように言った。
「私たちが下町の時計塔で解読した遺稿なんて、ほんの序章に過ぎなかったのね。彼はここで、一人で狂ったように星の軌道を計算し続けていたんだわ……」
「狂ってる。一人の人間の脳で処理できる情報量じゃない」
理論を愛するカイルだからこそ、その数式の異常な羅列に戦慄していた。
「地上の大気による屈折率を排除し、純粋な星の光だけを観測し、さらにその光が『巨大な質量』によってどう歪むかを、何十年もかけて逆算し続けたのか……? たった一人で、この凍える死の世界で?」
その時、ランタンの光が部屋の中央を照らし出した。
そこには、真鍮製の巨大な天体望遠鏡が、天窓の開いたドームの天井に向けられて鎮座していた。
そして、その望遠鏡の接眼レンズを覗き込むようにして、備え付けの木製の椅子に『誰か』が座っていた。
「……!」
リゼが短く息を呑み、僕の背中の後ろに隠れるようにコートを掴んだ。
分厚い毛皮のコートに包まれたその人物は、ピクリとも動かない。
近づいてみると、コートの隙間から見えたのは白骨ではなく、極度の乾燥と冷気によって水分を奪われ、そのまま凍りついた「ミイラ」だった。
異端の天文学者カッシーニ。
彼は二百年前、この絶対の孤独と極寒の中で、最期の瞬間まで星を見つめ続け、そのまま氷の彫像になったのだ。
「……見つけた」
シェリルが、彼の干からびた両腕の間に、大事そうに抱え込まれているモノを見つけた。
革で装丁された、一冊の手帳だった。
「失礼するぜ、先輩」
僕はカッシーニの遺体に一礼し、慎重にその手帳を引き抜いた。
手帳は長年の極度な乾燥と冷気で、化石のようにカチカチに凍てついていた。無理に開けば、中のページごと砕け散ってしまうだろう。
「リゼ、頼む」
「ええ、任せて。絶対に燃やさないように温めるわ」
リゼは素早く工具袋から小型のアルコールランプを取り出し、火力を最小に絞った。僕たちは息を殺し、リゼが炎の熱でゆっくりと、慎重に手帳の凍結を解いていくのを囲んで見守った。
やがて、ボロボロにひび割れた革の表紙から霜が溶け落ち、リゼが崩れないよう慎重にページを開いた。
「すごい……インクがまったく滲んでいないわ」
リゼが感嘆の声を上げる。
極度の低温と乾燥で瞬時に凍りついたことが、幸いして中の紙とインクを完璧な状態で保存していたのだ。
シェリルが手帳を受け取り、震える指でページをめくる。
「……あった。これが、『空の逃げ水』への座標……! 私たちが探していた、完璧な星図よ!」
シェリルの声が、歓喜で上ずった。
カイルも身を乗り出し、ランタンの光を手帳に近づける。
「東の果て……雲海を越えた先の空域か。季節と時間によって、目印となる星の位置が特定されている。……なんだこの軌道は? 直線じゃないぞ」
「ええ……。すごい……! カッシーニの計算、私の仮説のさらに先を証明してる! ここの重力干渉の解法なんて……っ!」
シェリルは歓喜に頬を紅潮させ、手帳のページに顔がくっつくほどの勢いで読み耽り始めた。
あまりの熱中ぶりに、僕たちも声をかけるのをためらったほどだ。ランタンの炎が揺れ、時間がどれだけ経過したのかも忘れたかのように、彼女は二百年前の天才と無言の対話を続けていた。
だが、最後の数ページに差し掛かった時だ。
不意にシェリルの手がピタリと止まり、その顔からスッと血の気が引いていった。
「幻の空域は、絶えず強力な磁気嵐に覆われているわ。コンパスは方向を見失うし、気圧で天候補正をかける高度計もデタラメな数値を示す。計器が完全に信用できなくなるの。唯一の道標は……特定の星の光が、重力の歪みによって『瞬く』リズムだけ」
シェリルは顔を上げ、怯えたような目で僕たちを見た。
「ほとんどの日が分厚い雲海に覆われていて、目印になる島も海面も見えない空間よ。この星図の通りに、星の瞬きのズレだけを見て、船の角度を一度単位で修正し続けなければならない。……もし計算を間違えれば、私たちは永遠に出口のない雲の迷路を彷徨って、燃料が尽きて落ちる」
ドームの中に、重い沈黙が落ちた。
地上の常識が一切通用しない世界。そこへの水先案内人は、十七歳の少女であるシェリルの「目」と「知識」だけになるということだ。
「私に……できるの?」
シェリルが、手帳を持ったままガタガタと震え始めた。
「もし私が、星の瞬きを見落としたら? もし計算を一つでも間違えたら……レオの船を、みんなの命を、私が終わらせてしまう……!」
彼女は不安に押しつぶされそうになり、後ずさった。
ずっと憧れていた空の真実。しかし、それをいざ自分の手で掴み取らなければならないという現実は、あまりにも重すぎた。
「シェリル……」
リゼが心配そうに声をかけようとした、その時だ。
僕は無言のまま歩み寄り、シェリルの両肩をガシッと力強く掴んだ。
「っ……レオ……?」
分厚い手袋越しでも伝わる僕の握力に、シェリルがビクッと肩を揺らす。
「いいか、シェリル。俺の目は、スパナのサイズがミリかインチかを見分けるくらいしか役に立たねえ」
僕は、不安で揺れる彼女の真っ直ぐな瞳を覗き込んで言った。
「俺は機械の声を聴いて、強引に船を飛ばす。カイルはエンジンの限界を計算して、船が空中分解しないようにする。リゼは俺たちが死なないように、燃料とメシを完璧に管理する」
僕は彼女の肩から手を離し、今度は彼女が握りしめている手帳――二百年の時を超えた星図の上に、自分の手を重ねた。
「そしてお前は、星を読む」
「…………」
「俺たちのアルバトロス号は、そういう風に設計されてるんだ。お前がいなきゃ、俺たちはあの煤まみれの下町から一歩も飛び出せなかった」
僕はニッと笑い、彼女の震えを力で押さえ込むように言った。
「だから、何も怖がらずに星だけ見てろ。お前が『あっちだ』って指差した方角なら、そこがたとえ地獄の底だろうと、俺がエンジンを限界までぶん回して、お前をそこへ連れて行ってやる」
シェリルの目が、大きく見開かれた。
僕の根拠のない、けれど絶対的な信頼。それは、時計塔の屋根裏部屋でずっと一人で星を見続けてきた彼女の世界を、暴力的なまでの熱量で肯定する言葉だった。
「……ばかね。本当に、バカな設計士なんだから」
シェリルはぽろりと涙をこぼし、それでも力強く手帳を抱きしめ直した。
「地獄の底になんて、連れて行かないわよ。私が、あなたたちを絶対にあの『浮遊島が折り重なる伝説の都』へ導いてみせる」
その言葉に、カイルがやれやれと肩をすくめた。
「安心しろ、シェリル。もしお前の観測データに誤差が出ても、僕の頭脳が瞬時に軌道計算を修正してやる。一人で全部背負い込むな」
「そうよ。あんたが弱音を吐きそうになったら、私が横からひっぱたいてあげるから安心して」
リゼも腕組みをしながら、少しだけ寂しそうに、けれど誇らしげな笑顔を見せた。
幼馴染としての執着を持つリゼにとって、レオがシェリルに寄せる絶対的な信頼は、少し胸がチクリと痛むものだったかもしれない。けれど、彼女もまた、この四人でなければ空は飛べないことを誰よりも理解していた。
「よし、決まりだ」
僕は再びスレッジハンマーを肩に担ぎ上げ、外の群青色の空へと振り返った。
「星図の座標をアストロラーベに組み込め。……さあ行こうぜ。ここから先が、俺たちの本当の冒険だ」
二百年の孤独を慰めるように、カッシーニのミイラに一礼し、僕たちは観測所を後にした。
目指すは東の果て。
大地という安全なゆりかごを完全に離れ、地図のない絶望の海へと、アルバトロス号はついにその舳先を向けたのだった。
お読みいただき、ありがとうございます!
手に入れた完璧な星図。しかしそれは、シェリル一人に仲間の命を預けるという、あまりにも重い事実の突きつけでもありました。
不安で震えるシェリルに、力任せの絶対的な信頼をぶつけるレオ。この不器用な励まし方が、レオらしくて大好きです。
羅針盤(4人の役割)は再びガッチリと噛み合いました。
次回、いよいよ大地の庇護を捨て、地図のない海へ出航します!
明日もお楽しみに。




