第43話 最果ての廃墟『カッシーニの観測所』
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本日から『第3部 地図のない海と嵐の壁』がスタートです。
立ちはだかる白銀の絶望。酸素も推力も足りない死の領域へ、アルバトロス号が挑みます。
限界突破のフライト、どうかシートベルト(ないですが)をしっかり締めてお読みください!
「高度八千! 外気温マイナス二十度! ダメだ、空気が薄すぎる! エンジンの吸気量が絶対的に足りない!」
猛吹雪がジュラルミンの装甲を機関銃のように叩きつける中、カイルの悲鳴にも似た絶叫が、狭い操縦席に響き渡った。
トラクターの心臓を無理やり繋ぎ合わせた『キメラ・ドライブ』が、酸欠にあえぐ獣のように、ゴホッ、ガハッ、と不吉な咳き込みを繰り返している。
船体全体が、まるで巨大な怪物に上下から激しく揺さぶられているかのように軋んでいた。操縦桿を握る僕の腕は、足の裏から伝わる暴力的な振動で完全に痺れ上がり、歯の根が合わずにガチガチと鳴り続けている。
「泣き言を言うなカイル! お前の頭の中にある限界値を教えろ! バルブの開度と燃料の混合比は!」
「混合比をこれ以上薄くしたら、異常燃焼でシリンダーが吹き飛ぶぞ! ……くそっ、レオ! サブコンソールの圧力計を見ろ!」
「見てる余裕なんか……っ、どれだ!」
「赤い針が『7』と『8』のメモリの間にある瞬間だけ、手動で吸気バルブのレバーを引け! 長すぎても短すぎてもエンジンが死ぬぞ!」
「……上等だ!」
僕は操縦桿を両脚で乱暴に挟み込んで固定し、空いた右手で強制吸気レバーを握った。
視界は猛吹雪で完全にゼロ。船体は上下左右に暴れ狂い、計器板の針も激しくブレている。
目で針を追うだけでは間に合わない。僕は圧力計の赤い針の動きと、足の裏から伝わるエンジンの唸り――そのわずかな周波数の変化を同調させ、全神経を右手に集中させた。
――今だ!
針が指定の領域を掠めた瞬間、感覚だけでレバーを引く。
一拍置いて、ガガガガガッ! と船の床下から金属同士が削れ合う不快な音が鳴り響き、排気管からどす黒い煙が吐き出される。だが、死にかけていたトラクターエンジンは再び荒々しい咆哮を取り戻し、強引にプロペラをぶん回し始めた。
カイルの完璧な限界値の計算と、僕の直感的な筋肉の反応。二つの歯車が噛み合った時だけ、船は死の淵から数メートルだけ上へとよじ登る。
「燃料消費率、規定の二倍を超えてるわよ! 予定より大幅に燃料を食ってるわ!」
後部座席で配管のバルブにしがみつきながら、リゼが顔を青くして叫ぶ。
極寒の空域だというのに、船内は冷却水と焦げた機械油の匂いが充満し、吐き気を催すほどの熱気に包まれていた。下町で嗅ぎ慣れた土や鉄錆の匂いはとうの昔に消え失せ、鼻を突くのは鋭いオゾンと、肺を凍らせるような乾いた冷気だけだ。
「シェリル! 頂上はまだか! この暴風雨の中じゃ、どこが上なのかも分からねえ!」
僕は隣の席でアストロラーベを抱きしめているシェリルに怒鳴った。
「待って……風の層が、変わる……!」
シェリルは揺れる船内で必死に目を凝らし、狂った羅針盤の針ではなく、窓枠の隙間から吹き込む冷気の流れと、雲の色のわずかな濃淡を見つめていた。
「右舷前方、仰角六十度! そこに一番強い風の『壁』がある! それをぶち抜けば、頂上よ!」
「仰角六十!? ほとんど垂直じゃねえか!」
「行けるわ、レオ! 私の目を信じて!」
「……分かった! お前が指す道なら、地獄の底だって飛んでやる!」
僕はスロットルレバーのストッパーを親指で外し、レッドゾーンの奥の奥まで限界突破で押し込んだ。
「全員、舌を噛むなよ!!」
ドバァァァァン!!
青白い炎が排気管から吹き上がり、ガラス管の中の浮遊石が悲鳴を上げて明滅する。
空という巨大な怪物が、僕たちを地面に叩き落とそうと上からのしかかってくる重圧。それに抗う鉄の塊の、狂ったような上昇推力。
内臓が喉元まで持ち上がるような強烈な重力が四人を襲う。分厚い帆布の気嚢が限界まで張り詰め、縫い目からミシッ、ミシッ、と不吉な音が鳴った。
頼む、もってくれ。
親父の羅針盤がカタカタと震える中、僕はただひたすらに前を睨んだ。
そして――。
不意に、視界を覆っていた分厚い白い壁が、スパンッと弾け飛んだ。
「…………!」
荒れ狂う猛吹雪を抜けた先に広がっていたのは、突き抜けるような群青色の空だった。
嵐をもたらしていた分厚い雲海は、遥か眼下に絨毯のように敷き詰められている。ここは空気を遮るものが何一つない、成層圏の入り口。
そして正面には、氷河に削り取られた鋭い岩肌の「頂」が、ぽつんと突き出していた。
その頂のわずかな平地に、へばりつくようにして建っている石造りの廃墟。
「カッシーニの、観測所……!」
シェリルが感極まったような声を漏らす。
「見惚れてる暇はないぞ! 着陸用の平地が狭すぎる! 岩肌に激突する!」
カイルの警告で我に返った僕は、慌ててスロットルを引き戻した。
だが、薄すぎる空気のせいで舵の利きが極端に悪い。アルバトロス号は勢いを殺しきれないまま、石造りの廃墟の前の雪原へと突っ込んでいった。
「リゼ! アンカー落とせ!!」
「落としたわよ!!」
ガキンッ! という鋭い金属音と共に、後部から射出された四本の鋼鉄製アンカーが岩肌に食い込む。ワイヤーが限界まで張り詰め、バチバチと火花を散らした。
船底が雪と氷を激しく削り飛ばしながら横滑りし――廃墟の石壁まであと数メートルのところで、強烈な反動と共にアルバトロス号は完全に停止した。
「…………はぁ、はぁっ」
僕は荒い息を吐きながら、震える手でキルスイッチを叩き、メインエンジンの火を落とした。
プスッ、というくぐもった音と共に、巨大な金属プロペラがゆっくりと回転を止める。
その瞬間だった。
――キィィィン……。
耳の奥が痛くなるほどの、圧倒的な「無音」。
今まで船内を満たしていた、会話すら困難だった狂気の轟音と、身体の芯まで揺さぶる激しい振動が、嘘のように消え去った。
「……静か、ね。耳鳴りがするくらい」
リゼが、自分の両腕をさすりながら呟いた。白熊のコートを着込んでいるというのに、停止した船内にはあっという間に殺人的な冷気が忍び寄り、吐く息が真っ白に凍りついていく。
僕たちは無言のまま、それぞれ工具袋やランタンを手に取り、凍りついた船のハッチを蹴り開けた。
膝下まで新雪に埋まりながら、外に降り立つ。
そこで僕は、奇妙な違和感に気がついた。
――風が、無いのだ。
あれほど船を痛めつけていた猛吹雪は、眼下の雲海の中で荒れ狂っているだけで、この突き出した岩の針の頂上には、そよ風一つ吹いていなかった。雪が舞うこともなく、ただ絶対的な静けさと、凍てつくような冷気だけが支配している。
空という怪物に最も近い、孤立した特異点。
「だから……ここだったのね」
シェリルが、アストロラーベを抱きしめたまま、群青色の空を見上げて呟いた。
まだ昼間だというのに、空気が極限まで薄いこの場所では、黒に近い青空の奥に無数の星々がはっきりと見えていた。
「どういうことだ、シェリル?」
僕が尋ねると、彼女は震える息を白く吐き出しながら、空を指さした。
「見て、レオ。星が……『瞬いて』いないわ」
「瞬いていない?」
「ええ。地上の星がキラキラと瞬いて見えるのは、大気の揺らぎや水蒸気、気流の乱れが光を屈折させるからよ。でも、ここではそれらが一切ない。完全に静止した、純粋な星の光だけが届いているの」
シェリルの言葉に、カイルもハッとしたように空を見上げた。
「なるほど……。カッシーニが求めていたのは、天候に左右されない『絶対的な視界』か。地上の厚い雲も、大気の揺らぎも届かない、この完璧な静寂こそが、遠い海の向こうの微小な『星の歪み』を観測するための、唯一の条件だったんだ」
二百年前。
まだ飛行船も浮遊石もなかった時代に、一人の天文学者が、この狂気のような静寂を求めて、自分の足でこの死の山を登りきったのだ。
その執念の深さに、僕は背筋が凍るような思いがした。
「行こう」
僕は腰のベルトから重たいスレッジハンマーを引き抜いた。
目の前には、二百年もの間、極寒に耐え続けてきた半壊の石造りのドームがそびえている。
「この扉の向こうに、あいつが命を懸けて遺した、本当の空への地図があるはずだ」
僕は、分厚い氷で完全に封じられた観測所の扉に向かって、新雪を踏みしめながら力強く歩き出した。
第3部も読みに来てくださり、本当にありがとうございます!
猛吹雪と凄まじい轟音を抜けた先に待っていたのは、耳が痛くなるほどの「無音」と、二百年間放置された廃墟でした。
空という怪物のただ中にある、奇妙な静寂。
次回、氷漬けの観測所の扉をこじ開け、彼らは「過去の天才」と対面します。
明日も夜にお待ちしています!




