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空はまだ設計途中だった ―浮遊石と未完成の飛行船―  作者: 空木 零
第1部 錆びついた翼と滑走路
3/7

第3話 逃げ水と、狂気の地図

いつも読んでいただき、ありがとうございます。

父が遺したノートと、少女が見つけた星の歪み。二つの点が重なるとき、少年の夢は「航海計画」へと進化します。

ここから物語が動き出します。

屋根裏部屋の作業机の上で、二つの地図が重なった。


カサリ、と乾いた音が、静寂に響く。

一枚は、私が夜ごと星を追いかけ、インクで染め上げた観測記録。

もう一枚は、レオの父親が命を削って遺した、ボロボロの研究ノート。

私の引いた黒い計算線と、ノートに記された赤いインクの(にじ)み。


別々の時間を生きた二人の人間が、別々の場所で描いたはずの軌跡。

それが今、東の海の果て――船乗りたちが「世界の終わり」と恐れる嵐の空域の一点で、ピタリと交差していた。


「……ここなのか?」

レオが、祈るように低い声で尋ねる。

私は眼鏡の位置を直し、震える指先を隠すように腕を組んだ。


「ええ。座標は完璧に一致してる。おじさんが目指していたのは、私が今夜見つけた『空の逃げ水』の中心よ」

「なぁシェリル、教えてくれ。……『空の逃げ水』って、なんなんだ? ただの蜃気楼じゃねえんだろ?」


レオの瞳が、私を真っ直ぐに見つめていた。

その熱量に押され、私は記憶の引き出しを開けた。アカデミーの図書館で読んだ、古い伝承と最新の理論。


「……レオ、真夏の道路を見たことあるでしょ? 遠くのアスファルトに、水たまりみたいなものが揺らめいて見える現象」

「ああ、あるな。近づくと消えちまうやつだろ?」

「そう。あれは熱せられた空気の層が光を屈折させて起きる現象よ。追いかけても決して追いつけない、幻の水。……昔の船乗りたちは、この現象を遥か彼方の空に見たの」


私は望遠鏡の接眼レンズを指先で弾いた。


「何もないはずの空の一角が、水底(みなそこ)のように揺らめいて、向こう側の星を歪ませる。船乗りたちはそれを目指して船を走らせたわ。あそこには何かがある、幻の島があるって信じてね」


私は息を吸い込み、残酷な事実を告げた。


「でも、誰も辿り着けなかった。近づけば近づくほど、空間が歪んで方向感覚を失い、あるいは強烈な嵐に弾き飛ばされる。まるで水が逃げていくように、永遠にその場所に到達できない。……だからついた名前が、『空の逃げ水(スカイ・ミラージュ)』」


それは、未到達の象徴。

人類が空へ進出して以来、数多の冒険家が挑み、そして飲み込まれていった「絶望の特異点」。


「でもね、カッシーニは証明したの。それは幻なんかじゃないって」


私はレオのノートの数式をなぞった。

「光をここまでねじ曲げるには、とてつもなく大きな『力』が必要になるわ。……つまり、あそこには想像を絶する大きさの『浮遊石の塊』が存在しているのよ」


「浮遊石……?」


「そう。浮遊石は空気を押しのけて浮く力を持ってるでしょ? その力が強すぎて、周りの空気や光までレンズみたいに歪めてるの」


私は、望遠鏡が見せた幻影を思い出しながら言葉を継いだ。


「ただの岩じゃないわ。いくつもの巨大な浮遊島が、空の上で複雑に折り重なって浮かんでいる……そんな『伝説の都』が、そこにあるのよ」


レオが息を飲んだ。


浮遊島が折り重なる伝説の都。神々の住む場所。

おとぎ話だと思っていた場所が、物理的な実体を持って、私たちの目の前に現れたのだ。

誰も見たことがない、空に浮かぶ新大陸。

そこには、地上の常識が通用しない生態系があるかもしれない。古代の超文明が眠っているかもしれない。あるいは、純度100%の浮遊石の鉱脈が山脈のように連なっているかもしれない。


「すげえ……。やっぱりあったんだ。親父は狂ってなんか……」


レオの震える指が、地図上のその一点に触れようとする。

万感の思いがこもった指先。

だが、私はその手を、自分の手でパシッと払いのけた。


「痛っ! な、何すんだよ!」

「喜んでる場合じゃないわよ、バカ!」


私は声を荒らげた。

現実を教えなければならない。この発見が、どれほど絶望的なものなのかを。


「レオ、整備士なら分かるでしょ? 大気をここまで歪めるほどの強烈な『力』の中に、別のちっぽけな浮遊石を持ち込んだらどうなるか」


レオの顔色がサッと変わる。

浮遊石は、互いに干渉し合う性質を持つ。特に、強い石のそばに弱い石を近づけると――


「……『共鳴(ハウリング)』か」


「その通り。あそこにある巨大な『親玉』が発する力に当てられたら、私たちの船のちっぽけな石なんて、鼓膜が破れるみたいに悲鳴を上げて、一瞬で制御不能になるわ。……熱暴走して、空中で粉々よ」


私はレオの目を見据えて、宣告した。


「つまり、そこは『物理的に行けない場所』なの。嵐や風の問題じゃない。この世界の物理法則が、私たちを拒絶してる。……扉は開かないわ、レオ。鍵穴すらないのよ」


重苦しい沈黙が、屋根裏部屋に落ちた。

埃の舞う静寂の中、遠くでフクロウの鳴き声だけが聞こえる。

辿り着くべき場所は見つけた。

だが、そこは鉄の扉で閉ざされているどころか、扉そのものが高熱を発して誰も寄せ付けないような、絶対的な拒絶の領域だった。

諦めるしかない。

普通の人間なら、そう考える。賢い人間なら、ここで引き返す。

でも。


「……へへっ」

不意に、レオの喉から乾いた笑い声が漏れた。


「何がおかしいのよ」

「いや……やっぱり、すげえなって思ってさ」


レオはニヤリと笑い、私の目を見た。その瞳には、絶望の色なんて欠片もなかった。

あるのは、燃えるような好奇心と、子供のようなワクワクだけ。


「拒絶されてるってことは、その奥に『守らなきゃいけない大事なもの』があるってことだろ?」

「……はあ?」

「誰も行けないなら、俺たちが一番乗りだ。俺たちだけが、その『伝説の都』を拝めるんだぞ? これ以上のロマンがあるかよ!」


彼は作業着のポケットから、(すす)だらけのスパナを取り出し、(もてあそ)んだ。


「石が共鳴して暴れるなら、させない工夫をすりゃいい。嵐が吹くなら、突っ切ればいい。……要は、向こうの『親玉』が叫ぶよりもデカい声で、こっちが叫び返してやりゃいいんだろ?」


無茶苦茶だ。

理論もへったくれもない、ただの根性論。

科学者である私なら、「非論理的だ」と鼻で笑うべきところだ。

でも――私の胸の奥で、冷え切っていた何かが熱くなるのを感じた。


私はただの観測者だ。

安全なここから、遠くの光を眺めて、計算して、それで満足していたつもりだった。

でも、彼は違う。

その光の中へ、泥だらけの手で掴みかかろうとしている。

羨ましいと、思った。

その無鉄砲さが。その、世界を信じ抜く強さが。


「……レオ、本当にどうしようもないバカね」

「褒め言葉として受け取っとくよ。……なぁシェリル」


レオが私に向かって、グイと顔を近づけた。

油と煤の混じった匂いがする。それは、私が避けてきた「外の世界」の、生きた人間の匂いだ。


「俺が連れて行ってやる」


「え?」


「この望遠鏡じゃ、ここまでだろ? レンズ越しじゃ、風の匂いも、雲の冷たさも分からねえ。……ここから先は、行って確かめるしかねえんだ」


レオは分厚い職人の手を差し出した。

傷だらけで、油が染み付いていて、ゴツゴツとした手。


「場所は分かった。でも、俺には空の道が見えねえ。俺が翼を作る。……だから、お前の『目』を貸してくれ」

それは、勧誘というよりは取引だった。

私の知識と、彼の技術。

互いに欠けているピースを埋めるための契約。


「……正気?」

「大マジだ」

「死ぬかもしれないのよ」

「ここで腐ってるよりマシだ」


私は自分の手を見た。

インクで汚れた、か細い指先。

私はこの塔の中で、一生、数字だけを追いかけて終わるのだろうか。

本物の空の色も知らずに、「理論上はこうだ」と語るだけの老婆になるのだろうか。


――嫌だ。


心の奥底で、何かが叫んだ。

見たい。

あの「歪み」の正体を。私の計算が正しいことを、この目で証明したい。

そして何より、この少年が見ようとしている景色を、隣で見てみたい。

私はため息をつき、眼鏡を押し上げた。

そして、その汚れた手を、恐る恐る握り返した。


「……勘違いしないでよ。レオのためじゃないわ。私の仮説を証明するためには、どうしても現地観測が必要なだけ」


私は精一杯の虚勢を張った。

レオの手は、驚くほど熱かった。エンジンの熱か、それとも彼自身の熱量か。

その熱が、私の冷たい指先に伝播してくる。


「よし! 交渉成立だ!」


レオが破顔する。

その笑顔を見ていると、本当にどこへでも行けるような気がしてくるから不思議だ。


「で、どうするの? 今のレオの船じゃ、庭先から出るのもやっとでしょ」


私が痛いところを突くと、レオは「うっ」と言葉を詰まらせ、頭をかいた。


「まあ、そうなんだよな……。エンジンはオーバーヒートするし、そもそも今のパーツじゃ限界がある」

「計画性ゼロね」

「もっといい部品が要る。それに、燃料だ。普通の軽油じゃパワーが出ねえ。もっと爆発力のある燃料があれば……」


レオが天井を仰いで唸る。

技術的な課題(オーバーヒート)はまだ解決策が見えない。

だがそれ以前に、私たちには先立つものがなかった。

良い部品も、良い燃料も、すべて金がかかるのだ。


「金さえあればなぁ……。最高のパーツと、腹一杯の燃料があれば、なんとかなるんだが」

「レオ、貯金は?」

「今日の晩飯代もない」

レオがポケットを裏返して見せる。空

っぽだ。埃しか出てこない。

夢を見るには、金がかかる。それが、この世界のシビアな現実だ。


「……誰か、金持ってそうな知り合いはいないの?」

「そんな都合のいい奴、いるわけ……」

レオが腕組みをして考え込み、ふと顔を上げた。


その視線が、窓の外――街の大通りに面した一角に向けられる。

そこには、古びているが立派な看板を掲げた、一軒の商店がある。


「……あそこだ」

「え? アルジェント商会?」

「ああ。リゼの家だ。あいつの家は腐っても貿易商だ。倉庫には、俺たちの知らない『お宝』が眠ってるかもしれねえ」


レオの顔が、悪巧みをする子供のように輝き出す。


「そうだよな! リゼならなんとかしてくれるかも! あいつ、口は悪いけど頼りになるし!」

「……借金の取り立てに来てる相手に、さらに金をせびりに行く度胸があるならね」


私が釘を刺すと、レオはニシシと笑った。


「借金じゃないさ。『投資』の話を持っていくんだよ。世界一の冒険への招待状だ」


レオは勢いよく立ち上がり、屋根裏部屋の扉を開け放った。


「行くぞシェリル! 善は急げだ! 次はリゼの店へ殴り込みだ!」

「ちょ、ちょっと待ってよ! こんな夜更けに迷惑でしょ!?」

「あいつならまだ起きてる! 帳簿とにらめっこしてるはずだ!」


私は慌てて地図を抱え、駆け出した少年の背中を追った。


静かな夜は終わった。

止まっていた時計の針が、ガチリと音を立てて動き出した気がした。


ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました!

「連れて行ってやる」――レオのまっすぐな言葉で、二人の旅が決まりました。


本日の更新はここまでです。

明日からは毎晩1話ずつ更新していきます。


次回、第4話「黄金時代の忘れ形見」。

夢だけでは空は飛べない。物語の現実的な支柱、リゼがいよいよ登場します!


もし「レオたちの冒険を応援したい!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、

ぜひブックマークや、ページ下の【☆☆☆☆☆】評価で応援していただけると、執筆の何よりの励みになります。

明日もまた、この空でお会いしましょう!

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