第26話 狂った羅針盤
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ついに突入した「迷いの峡谷」。
計器が完全に死んだ空間で、頼れるのはシェリルの「目」だけです。
アイアンポートを出航してから数時間。
アルバトロス号の船内は、これまでの過酷な空の旅が嘘のような平和な空気に包まれていた。
「……最高。壁と屋根があるって、本当に最高だわ!」
リゼがフカフカのラグの上に寝転がり、手作りのキャンバス屋根を見上げてうっとりと呟いた。
これまでは、ちょっと休むにも命綱を腰に巻き、冷たい風にガタガタと震えながら身を寄せ合うしかなかった。だが今は、断熱材の入った壁が暴風を遮り、トラクターエンジンの余熱が船内をじんわりと温めてくれている。
シェリルは持参した小さな鍋で温かいスープを作り、僕たちに振る舞ってくれた。
「ほらレオ、ちゃんと前を見て操縦してよ。はい、スープ」
「サンキュー。いやあ、極楽だな」
僕は温かいマグカップを受け取り、操縦席の背もたれに深く寄りかかった。
自作のスーパーチャージャーが押し込む空気のおかげで、金属プロペラは力強く安定した推力を生み出している。凄まじい振動と騒音を撒き散らしているが、船尾から中央の気嚢へと伸びる極太の冷却配管が、浮遊石を極低温に冷やして暴走を完璧に抑え込んでいる。
僕の組んだジャンク・ハックは、見事に機能していた。
だが、その平和な時間は、唐突に終わりを告げた。
「……おい、おかしいぞ」
隣で地図を広げていたカイルが、ダッシュボードの計器盤を叩いて顔をしかめた。
「コンパスの針が、さっきから北を指していない。グルグルとデタラメに回転し始めてる。高度計の針もマイナスを指したり、あり得ない速度で乱高下しているぞ」
「壊れたのか?」
「違う。僕たちが『異常な空域』に入ったんだ」
カイルが丸眼鏡の奥の目を細め、前方の窓を指差した。
僕たちは一斉に外を見た。
いつの間にか、突き抜けるような青空は消え失せ、どんよりとした鉛色の重たい空が広がっていた。
そして前方の雲海を切り裂くように、天を突くほど巨大な「黒い岩壁の群れ」が、まるで巨大な怪物の牙のように連なっているのが見えた。
岩壁と岩壁の間には、不気味な暗雲が渦を巻き、底知れない暗闇がぽっかりと口を開けている。
「あれが……『迷いの峡谷』」
シェリルが身震いして、マグカップを両手で強く握りしめた。
「特殊な鉱脈が発する磁気嵐のせいで、いかなる計器も役に立たなくなる『死の迷路』……。噂には聞いていたが、これほど禍々しい場所だとはな」
カイルの言う通り、計器盤の針は完全に狂い、完全に「死んで」いた。
ここから先は、数字や機械に頼ることは一切できない。
「行くぞ。しっかり捕まってろよ」
僕が操縦桿を握り直し、岩壁の巨大な入り口へと船を向けた、その時だった。
『待っていたぞ、野良犬』
峡谷の入り口のすぐ手前、乱気流が吹き荒れる空域に、一機の銀色の飛行艇がピタリと空中に静止していた。
ガレインの『シルフィード号』だ。
分厚い装甲も冷却装置も持たないその機体は、高効率エンジンで波動を完全にコントロールし、猛烈な向かい風の中でも微動だにせず浮かんでいる。
「お坊ちゃんのエリート船は速いな。逃げ出したのかと思ったぜ」
僕は窓を開け、負けじとアルバトロス号をシルフィード号の真横に並べた。
「冗談を。君たちが無事にここまで辿り着けるか、見届けてやろうと思ってね」
キャノピーを開けたガレインが、余裕の笑みを浮かべる。
「だが、ここから先は次元が違う。私の計算では、この峡谷内部の乱気流パターンは三〇〇〇通り以上。計器が使えない状況下で、岩壁に激突せずに抜けられる確率は――」
「御託はいい!」
僕はガレインの言葉を遮り、スロットルレバーを叩いた。
「どっちが先に抜けるか、勝負だろ! 行くぜ!」
ドバアァァァン!!
スーパーチャージャーが甲高い咆哮を上げ、アルバトロス号は猛然と黒い岩壁の裂け目――迷いの峡谷の内部へと突入した。
直後。
ガンッ!! という凄まじい衝撃と共に、船体が真横に吹き飛ばされそうになった。
「うわあああっ!?」
「キャアアッ!」
カイルとリゼが床に転がる。
外の風とは桁違いだった。岩壁にぶつかり、複雑に跳ね返った風が、見えない巨大なハンマーとなって四方八方から容赦なく船を殴りつけてくる。
ゴオオオォォォッ! という風の悲鳴が、壁と屋根のキャンバスを激しく震わせる。
「くそっ、どっちが上でどっちが前だか全然分からない!」
僕は必死に操縦桿をねじ伏せるが、視界は渦巻く暗雲に遮られ、計器は狂ったままだ。
ふと横を見ると、ガレインのシルフィード号が、まるで氷の上を滑るスケーターのように、滑らかな動きで乱気流を躱して先行していくのが見えた。
「なんて機動性だ……! 計器が死んでいるのに、あの極限の姿勢制御……あいつ、化け物か!」
カイルが這いつくばったまま絶叫する。
ガレインの腕は本物だ。風の抵抗をゼロにする流線型のボディと、彼の卓越した予測能力が、あのデタラメな動きを可能にしているのだ。
「このままじゃ置いてかれるぞ! レオ、岩壁が迫ってる! 右だ!」
「分かってる!」
僕は慌てて右に旋回しようとした。
「ダメ、レオ! 左に思い切り引いて!!」
その時、助手席に座っていたシェリルが、悲鳴のような鋭い声を上げた。
右には広い空間がある。左には黒い岩肌が迫っている。
だが、僕は一瞬の迷いもなく、シェリルの声に従って操縦桿を左へ限界まで引いた。
ギュオオオオッ!!
アルバトロス号が左に傾いた瞬間。
さっきまで船が進もうとしていた右側の空間を、下から上へと突き上げるような『目に見えない竜巻』が凄まじい勢いで通り抜けていった。
もしそのまま右に進んでいれば、間違いなく船体ごと空の天井に叩きつけられ、バラバラに砕け散っていただろう。
「……っ!!」
僕は冷や汗を拭い、隣を見た。
シェリルは目を固く閉じ、両手を胸の前で組み、全神経を「外の空間」に集中させていた。
「見えたのね、シェリル!」
リゼが立ち上がり、手すりにしがみつきながら叫ぶ。
「うん……! 岩の形と、雲の渦巻き方。それに、風がぶつかる音の高さで分かるよ。あっちの銀色の船は『風を避けて』飛んでるけど……私たちは違う」
シェリルは目を開け、僕を真っ直ぐに見つめた。
「私たちは、風に乗るの! レオ、スロットル全開! 真っ直ぐ行って、三秒後に機首を斜め下へ!」
「分かった! お前の目を信じるぜ、シェリル!」
僕は躊躇なくスロットルレバーを一番奥まで押し込んだ。
冷却システムが浮遊石を強引に凍らせ、スーパーチャージャーが限界の推力を叩き出す。
アルバトロス号は、猛烈な乱気流のど真ん中へと加速した。
「一、二、三! 今!」
シェリルの合図と共に、操縦桿を斜め下へ押し込む。
フワッ、と一瞬だけ無重力のような感覚に包まれた直後、強烈な追い風が船の背中をドカン! と押し出した。
「うおおおおぉぉぉっ!!」
僕たちは、ガレインが避けた「危険な突風」のど真ん中をサーフィンのように乗りこなし、爆発的なスピードで暗雲の峡谷を突き進んでいく。
計器の死んだ絶望の迷路。
だが、僕たちには「世界一正確なコンパス」と、どんな無茶にも耐える「ジャンクの心臓」がある。
「さあ、泥臭い野良犬の追い上げだ! 待ってろよ、エリートさん!」
お読みいただき、ありがとうございます!
シルフィード号の華麗な機動に圧倒されながらも、シェリルの風読みで反撃開始です。
風を避けるのではなく、風に乗る。
レオたちらしい飛び方で、エリートさんを追いかけます!
明日も夜にお待ちしています!




