第20話 屑鉄の老婆と無謀なクエスト
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空の上のスラム街、第4街区。
どん底の状況ですが、彼らは絶対に諦めません。裏掲示板で見つけた「ヤバい仕事」とは……。
「……寒っ」
氷のような鉄の感触と、骨の髄まで冷え切るような隙間風で、僕は目を覚ました。
アイアンポートの第4街区『臨時整備区画』での最初の朝。
空の上にいるというのに、爽やかな朝日なんてものは一切射し込んでこなかった。僕たちのいる区画は、岩峰の中腹からせり出した巨大な上層デッキの真下に位置しており、一日中、重苦しい日陰になっているのだ。
おまけに、上層の特権階級たちが垂れ流す生活排水の巨大な配管がすぐ頭上を通っているらしく、常にドブのような湿った臭いと、チョロチョロという不快な水音が響き続けている。
「うう……背中痛い……」
隣で、薄い毛布にくるまったリゼがうめき声を上げて寝返りを打った。
アルバトロス号には、風を防ぐ壁も、雨を凌ぐ屋根もない。あるのは廃材を打ち付けただけの硬い床板だけだ。昨夜は極度の緊張と疲労で泥のように眠ったが、いざ目覚めてみると、体の節々がギシギシと悲鳴を上げていた。
「おはよう、レオ」
シェリルが身を縮めながら起き上がり、可愛らしくくしゃみを一つした。彼女の細い肩が、寒さで小刻みに震えている。
「……こんなに空に近いのに、なんだかずっと深い地面の下にいるみたいだね」
「違いない」
僕は苦笑して立ち上がり、大きく伸びをして強張った筋肉をほぐした。
見上げれば、頭上の配管のわずかな隙間からは、確かに突き抜けるような青い空が見える。
だが、周囲をぐるりと囲んでいるのは、錆びたトタン屋根の不格好なプレハブ小屋や、油まみれの鉄骨、そして何年も放置されて赤茶色に朽ち果てたスクラップ船の残骸ばかりだ。
ここは文字通り、空の上のスラム街。
ギルドという絶対的な権力に弾き出され、飛ぶことを諦めた連中が吹き溜まる墓場だった。
「……最悪の朝だ」
カイルが、げっそりとした顔で機関スペースから這い出してきた。丸眼鏡の奥の目にはくっきりと隈ができている。
「寝てないのか、カイル」
「寝られるわけがない。昨日の『バイパス手術』で不純物だらけの廃油を燃やしたせいで、燃料を噴射するインジェクターが煤でひどく詰まっている。構造上の限界だ。一度バラしてオーバーホールしないと、次は空に浮かぶことすらできないぞ」
「分かった。すぐに取り掛かろう」
僕が工具箱を開けようとした、その時だった。
「やってられないわよ、あのクソギルドォォォッ!!」
ドカッ! と、アルバトロス号の床板を強く踏み鳴らして、リゼが怒髪天を衝く勢いで戻ってきた。
彼女は早朝から街の取引所へ、水と食料、そして何より新しい燃料の買い出しに行っていたのだ。だが、その手に提げられた買い物かごは、見事なまでに空っぽだった。
「どうしたんだよリゼ、買い出しは?」
「買えるわけないでしょ! あいつら、私たちが正規の許可証を持ってない『野良犬』だって分かった途端、これでもかってくらい足元を見やがって!」
リゼはかごを床に叩きつけ、頭を抱えて地団駄を踏んだ。
「コップ一杯の泥水みたいな水が、地上の三倍よ! 石みたいに固いパンの欠片が四倍! エンジンの燃料になるエタノールに至っては、定価の五倍の値段を吹っかけてきたわ!」
「ご、五倍!?」
僕とカイルの声がハモった。
「それだけじゃないわ。はい、これ!」
リゼが僕の胸ぐらにバシッと押し付けたのは、ギルドの紋章が仰々しく押印された一枚の羊皮紙だった。
「昨日のあの嫌味な査察官が、ご丁寧に使いっぱしりに届けさせてきた『臨時停泊料の請求書』よ!」
僕はその紙面を見て、目を剥いた。
「一日あたり、銀貨十枚……!? こんなドブ臭い日陰のスペースに、ただポンコツを置かせてもらってるだけでか!?」
「そうよ! ギルドはアイアンポートの物資と土地を完全に独占してるの。あいつらの言い値で買うしかないのよ!」
カイルが眼鏡を押し上げ、青ざめた顔で手帳のメモを睨みつけた。
「……現在の僕たちの手持ち資金と、この街の異常な物価、そしてこの法外な停泊料。状況を整理すれば、答えは明白だ」
カイルは絶望的な顔で僕たちを見た。
「僕らが完全に破産し、この船を借金のカタとして差し押さえられるまでの猶予は、長めに見積もっても三日しかない。完全な経済封鎖だ。三日後の朝には、僕たちは空から放り出される」
「冗談じゃないわよ! せっかく大人の支配から逃げて空に上がったのに、今度はお金のせいで地上に叩き落とされるなんて!」
壁のない吹きっさらしの甲板に、重苦しい沈黙が落ちた。
理不尽な重力という絶対的な壁を打ち破ったと思っていた。
だが、空の上には「金」と「権力」という、目に見えなくて、重力よりもずっと厄介で重たいルールが張り巡らされていたのだ。
「……仕事を探そう」
僕は沈黙を破って言った。
「あんな連中に、俺たちの船を渡してたまるか。金がないなら、この街で稼ぐしかないだろ」
「分かってるわよ。だから、ギルドの『斡旋所』にも行ってきたわ」
リゼが悔しそうに下唇を噛み締める。
「荷運びでも、手紙の配達でも、船の甲板磨きでも何でもやるって言ったわ。でも、窓口の男は鼻で笑ってこう言ったの。『ギルドの許可証を持たないモグリの野良犬に回す仕事はない。さっさと落ちろ』って」
「完全に包囲されてる。真っ当な手段じゃ、私たちはこの街で生きていけないわ」
シェリルが不安そうに、僕の油まみれの袖をぎゅっと引いた。
「レオ……どうなっちゃうの? 壁もないこの船で、燃料も食べ物も買えなくなったら……」
「大丈夫だ」
僕はシェリルの頭をポンと撫で、スレッジハンマーの柄を強く握りしめた。
「空に上がってまで、大人の都合の良いルールに殺されてたまるかよ。真っ当な手段がダメなら、別の手を探すだけだ」
僕たちは少しでも安い部品や情報を求めて、第4街区のさらに奥、まるで迷路のように入り組んだジャンク街へと足を踏み入れた。
道端には、どこから拾ってきたのかも分からないようなガラクタの山が、そこかしこにうず高く積まれている。
そのガラクタの山に同化するように、一人の小柄な老婆が座っていた。
油とタバコのヤニで茶色く変色した分厚いコートを着込み、片目には年代物のルーペを嵌めている。口には火の消えたパイプを咥え、僕たちを見るなり「シッシッ」と手で払うような仕草をした。
「なんだい、よそ者のヒヨッコども。冷やかしなら他を当たりな。ここはギルドの温室育ちが来る場所じゃないよ」
しゃがれた声で、老婆が吐き捨てるように言う。
「冷やかしじゃないわ。少しでも安い燃料か、仕事の情報が欲しいの」
リゼが怯まずに歩み寄るが、老婆は鼻で笑った。
「情報ねぇ。タダで教えるお人好しが、このスラムにいるとでも思ってんのかい。とっととママの胸にでも帰るんだな」
完全に門前払いだ。ここでも大人は冷たい。
だが、その時。僕は老婆の足元に転がっているガラクタの山から、泥まみれの黒ずんだ金属の塊を拾い上げた。
「おい、勝手に触るんじゃないよ。それはただの鉄クズ――」
「ただの鉄クズじゃない」
僕は手元のウエスで、その金属の表面の泥を乱暴に拭き取り、匂いを嗅いだ。
「……かすかに甘い油の匂いがする。それに、この軽さと硬さ。叩いた時の音の響き。これは旧時代の航空機に使われてた、チタン合金のギアの欠片だろ。ギルドのエリート連中にはただのゴミに見えるかもしれないが、溶かして打ち直せば、金貨一枚にはなるぜ」
老婆はルーペ越しの目を大きく見開いた。そして、咥えていたパイプを外し、初めて僕の顔をまじまじと見つめた。
「ほう……。ギルドのエリート共はテスターの数字しか信じないが、お前さんは金属の『匂い』と『重さ』で価値が分かるのかい。温室育ちじゃないね」
「俺は現場の整備士だからな」
僕はそのチタン合金のギアを軽く放り投げ、老婆の膝の上に落とした。
「やるよ。その代わり、俺たちが凍え死なないための防寒具と、稼げる仕事の情報をくれ」
老婆はニヤリと、シワだらけの顔に深い笑みを刻んだ。
「アタシはマリア。このクソ溜めでジャンク屋をやってる。……いい取引だ。悪くない目利きだよ、お前さん」
マリア婆さんは、傍らの木箱から分厚くて少し油臭い、だが確かに暖かそうな羊毛の毛布を引っ張り出し、寒さに震えていたシェリルに向かってポンと投げ渡した。
「ひっ……!」
「お嬢ちゃん、唇が真っ青だ。空の上の寒さを舐めると、あっという間に凍え死ぬよ。持っていきな。特別にタダにしてやる」
「あ……ありがとう、ございます」
シェリルが毛布をぎゅっと抱きしめ、顔を綻ばせる。
「それから、仕事を探してるって言ったね」
マリア婆さんは、僕たちに手招きをした。
「ギルドが回さないなら、ギルドが『手を焼いてる仕事』を奪い取ればいいのさ。この通りの一番奥に、『錆びた錨亭』っていう底辺の酒場がある。そこに、正規の船がやりたがらない『割に合わない汚れ仕事』の張り紙が集まる裏掲示板があるよ」
「裏掲示板……」
「お前さんたちのその腕と度胸なら、ギルドの鼻を明かすような仕事が見つかるかもしれないね。せいぜい、死なないように稼いできな」
ぶっきらぼうだが、その声には確かに、同じくギルドに属さない「野良犬」へのエールのような響きがあった。
僕たちはマリア婆さんに深く頭を下げ、彼女が教えてくれた酒場へと向かった。
***
酒場『錆びた錨亭』の扉を押し開けると、安酒とタバコの煙、そして汗の饐えたような臭いがドッと押し寄せてきた。
店内には、昼間から強い酒を呷る薄汚れた男たちがひしめいていた。彼らの目には希望などなく、ただ空から落ちるのを待っているような、どんよりとした光しか宿っていない。
「なんだぁ? ガキの来る場所じゃねえぞ」
「迷子か? それともギルドのお偉方の犬か?」
男たちの刺すような視線が僕たちに突き刺さる。カイルがビクッと肩をすくめ、シェリルが僕の背中に隠れた。
「無視して、奥よ」
リゼだけは堂々と胸を張り、男たちの間を縫って店の奥の壁へと進んでいく。
そこには、マリア婆さんの言った通り、ヤニで茶色く変色したコルクボードがあった。
無数の画鋲で留められているのは、ちぎれた紙切れや裏紙に書かれた非公式のクエストだ。
『逃げた飼い鳥の捕獲:銅貨五枚』
『借金取りの護衛《暴力沙汰あり》:銀貨三枚』
『違法カジノの掃除:銀貨一枚』
「……どれも、法外な停泊料の足しにもならない小銭ばかりだ」
カイルが紙切れをめくりながら深いため息をつく。
「これじゃあ、三日のタイムリミットを伸ばすどころか、今日の食費にもならないぞ」
僕も掲示板の端から順に見ていく。
その時、一番隅の、埃を被って誰も見向きもしない場所に貼られた一枚の色褪せた張り紙が目に留まった。
『第4街区南端、第三揚水風車の暴走停止および修理』
『基本報酬:銀貨五枚』
『※特記事項:風車の完全停止に成功した場合のみ、ギルドの特別災害予算より危険手当として金貨五十枚を支給。ただし死傷時の補償一切なし』
「これだ……」
僕はその張り紙を力強く剥がし取った。
「金貨五十枚! これなら停泊料を払っても、壁の材料や燃料がたっぷり買えるぞ!」
「待てレオ! その下の特記事項を読め!」
カイルが血相を変えて張り紙を指差した。
「基本報酬がたったの銀貨五枚に対して、危険手当が金貨五十枚? 異常な乖離だ! つまりこれは、『誰も止められないから、ダメ元で懸賞金をかけて放置している』という事だぞ!」
カイルは張り紙の文面から、論理的に状況を分析し始めた。
「過去に何人もの死傷者が出ていて、しかもギルドの正規班が匙を投げている。つまり、既存の整備マニュアルが通用しない、構造的な欠陥か致命的な暴走状態に陥っているってことだ。まともな方法じゃ直せない!」
「まともな方法じゃ直せないなら、ちょうどいい」
僕は張り紙をポケットにねじ込み、スレッジハンマーを肩に担ぎ直してニヤリと笑った。
「型破りな仕事なら、俺たちの得意分野だ。誰もやりたがらない難攻不落の仕事。俺たちの腕を証明するには最高じゃないか」
お読みいただき、ありがとうございます!
マリア婆さんという頼もしい(そして怖い)スポンサーを得て、風車止めの作戦が動き出しました。
ギルドが投げ出した「鉄の断頭台」に、どうやって立ち向かうのか?
次回、彼ららしい最高に狂った作戦会議が始まります。
明日もお待ちしています!




