第2話 屋根裏の天文学者
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鉄屑を叩く音だけが響く下町に、一人、静かに星を数える少女がいました。
レオとは正反対の場所にいる彼女が、物語にどう関わってくるのか。
温かい目で見守っていただければ嬉しいです。
世界は、騒がしすぎる。
市場で怒鳴り合う商人の声、工場から吐き出される蒸気の音、大人たちの諦めに満ちた愚痴。
地上の音はいつだって、私の思考を邪魔する雑音でしかない。
だから私は、ここへ逃げ込む。
町外れの丘に建つ、壊れた時計塔。
針は十年前に止まったままだが、その最上階にある屋根裏部屋だけは、私だけの聖域だ。
ギィィ……。
錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、重たい鉄扉が閉じる。
途端に、地上の喧騒がふっ、と遠ざかる。
あとに残るのは、古紙特有の乾いた匂いと、インクのツンとする香り、そして何よりも愛しい静寂だけ。
「……こんばんは、シリウス」
私は埃を被った巨大な天体望遠鏡の覆いを丁寧に取り払い、夜空の「友人」たちに挨拶をする。
真鍮の冷たい感触が指先に心地よい。
レンズの向こうに広がるのは、沈黙した光の海。
地上よりもずっと静かで、ずっと冷たくて、そして残酷なまでに綺麗な世界。
町の人たちは私を陰でこう呼ぶ。
『時計塔の魔女』とか、『星狂いの娘』とか。
占いがどうだとか、明日の天気がどうだとか、彼らは星を「生活のための道具」としか見ていない。
違う。星は、この世界の地図だ。
私たちは、巨大な空という海原に浮かぶ、ちっぽけな島に過ぎない。その外側に何があるのか、誰も知ろうとしないなんて、私には信じられない。
私はアルコールランプに火を灯し、作業机に向かった。
そこには、一人の男が遺した膨大な計算用紙が、塔のように積み上げられている。
レオの父親。この町で唯一、私の話を馬鹿にせずに聞いてくれた変人の技師。
『シェリルちゃん、頼むよ。俺には数字がチンプンカンプンなんだ。この式が何を意味しているのか、翻訳してくれ』
彼はそう言って、病に倒れる直前にこの束を私に託した。
『狂気の天文学者・カッシーニ』の遺稿。
二百年前に実在し、学会から追放された異端の学者が遺した、意味不明な数式の羅列。
レオは「宝の地図だ」と無邪気に信じているけれど、私にとってこれは、解けるかどうかも分からない巨大なパズルだった。
私はもう三ヶ月も、この数式と格闘している。
睡眠時間を削り、視力が落ちるのも構わずに、インクと数字の海を泳ぎ続けてきた。
「……東経百三十度。観測値と計算値に、またズレが出てる」
羽ペンを走らせる音が、カツカツと部屋に響く。
おかしい。何度計算しても合わない。
私の計算ミスだろうか? それとも、カッシーニの理論自体が狂人の妄想だったのか?
特定の空域――東の海の遥か彼方だけ、星の位置が微妙に「ずれる」のだ。
ほんの〇・〇一度の誤差。普通の天文学者なら「観測ミス」として切り捨てる数字。
でも、カッシーニはこのズレに執着していた。数百ページにわたって、この誤差を証明しようとしていた。
私は痛む目をこすり、再び計算式を睨んだ。
もし、このズレがミスではないとしたら?
星の位置が間違っているのではなく、そこにある「空間」そのものが歪んでいるとしたら?
脳内で、数式が立体的に組み上がっていく。
質量。場の揺らぎ。光の屈折率。
既存の物理法則に、カッシーニが提唱した「未知の変数」を代入してみる。
――カチリ。
頭の中で、小さな音がした気がした。
バラバラだった数字の羅列が、突然、美しい旋律を奏で始める。
矛盾していた計算結果が、一本の線で繋がっていく。
「……嘘」
私は震える手でペンを走らせた。
解ける。解けるわ。
これは計算ミスじゃない。これは「地図」だ。
見えないものを見るための、逆算の航海図。
星の位置がずれるのは、その手前にある空間が、巨大な何かによってレンズのように歪んでいるからだ。
だとしたら、そこには何がある?
星の光さえもねじ曲げるほどの、圧倒的な質量を持つ「何か」が。
私は眼鏡の位置を直し、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
望遠鏡だ。確かめなければ。
計算で弾き出した座標。東の海の果て、誰もが行き止まりだと信じている「死の海域」。
ハンドルを回し、重たい鏡筒を旋回させる。
目盛りを合わせる指が震えて、なかな定まらない。
深呼吸。落ち着け、シェリル。
これはただの確認作業よ。二百年前の亡霊が見た夢の、正体を暴くだけ。
私は接眼レンズに目を押し当てた。
視界に飛び込んでくるのは、無数の光の粒。
ピントを合わせる。
さらに奥へ。もっと深くへ。
「……あ」
息が止まった。
心臓が早鐘を打つ。
全身の血が沸騰するような感覚。
見つけた。
違和感の正体を。
星が、泳いでいる。
まるで水底に沈んだコインのように、その空域にある星々だけが、ゆらゆらと不規則に揺らめいているのだ。
大気の状態? いいえ、今日は風もない快晴だ。他の星は針で突いたように鋭く輝いているのに、そこだけが、まるで水彩画のように滲んでいる。
「……『空の逃げ水』」
カッシーニの仮説だ。
【浮遊石】は特殊な波動で周囲の空気を歪める。もし、そこに山脈のような巨大な質量の浮遊石が存在すれば、その周りはレンズとなって、背後の星の光さえも屈折させる。
震える手で、机の引き出しから航海日誌の切れ端を引っ張り出す。
これもレオの父さんが拾ってきたものだ。腐りかけた羊皮紙に残された、名もなき船乗りの走り書き。
『海は荒れているのに、空の一部だけが凪のように静かだ。あそこに、何かが浮いている』
日誌の記述と、今見ている「揺らぎ」の座標。
ピタリと重なる。
「……あるんだ」
鳥肌が立った。
浮遊島が折り重なる伝説の都。神々の住む場所。
おとぎ話だと思っていた場所が、数式と観測によって、物理的な実体を持った「場所」へと変わった瞬間だった。
美しかった。
何も見えない暗闇の中に、確かに「それ」が存在しているという事実が、どんな宝石よりも美しく思えた。
私は知ってしまった。世界の秘密を。
誰も知らない、空の向こう側の景色を。
誰かに伝えたい。
この興奮を、この戦慄を、喉が張り裂けるほど叫びたい。
でも、誰に?
町の人たちは私を笑うだけだ。「また魔女が妄想に取り憑かれた」と蔑むだけだ。
この発見の価値を分かってくれる人は、もうこの世には――
バンッ!!
その時、突然、屋根裏部屋の重たい鉄扉が乱暴に開け放たれた。
静寂が砕け散る。
ドタドタという無遠慮な足音と共に、油と鉄の焦げた強烈な臭いが、聖域になだれ込んできた。
「シェリル! いるか!?」
大声で名前を呼ばれ、私はビクリと肩を跳ねさせた。
驚いて振り返ると、そこには顔中を煤だらけにした少年が立っていた。
レオだ。
私の聖域を土足で踏み荒らす、唯一の闖入者。
「……ちょっと、レオ。ノックくらいしてよ。星が逃げちゃうでしょ」
「星は逃げないって! それよりシェリル、頼みがある! これを読んでくれ!」
レオは悪びれもせず、資料の山をかき分けて私の作業机にドカッと腰を下ろした。
彼の服から漂う機械油の匂いが、古紙の香りを塗り替えていく。
不思議と、嫌ではなかった。
この匂いは、彼が現実と戦ってきた証拠だから。
「さっき、エンジンが回ったんだ。五秒だけ浮いた」
「えっ……本当に?」
「ああ。でも、すぐに熱を持って落ちた。……まるで、ここの空気が石を拒絶してるみたいだった」
レオは悔しそうに拳を握りしめ、作業着の懐から一冊の分厚いノートを取り出した。
彼の父親の遺品である、研究ノートだ。
彼はそれを、祈るように私の目の前に広げた。
「親父は言ってた。『本当の空は、嵐の向こうにある』って。……俺のエンジンが悪いんじゃない。飛ばす『場所』が間違ってるんだ」
「場所?」
「ああ。このノートに書いてある座標だ。親父はずっと何かを計算してた。エンジンの設計図じゃない、もっと別の……天文学の計算を」
レオが私を見る。
その目は縋るようでもあり、確信に満ちてもいた。
彼もまた、見ているのだ。
今の現実ではない、もっと遠くの景色を。
「俺は整備士だ。機械のことは分かるが、この数式の意味はさっぱり分からない。……でも、お前なら分かるだろ? 親父が俺に遺したこの『×』印が、空のどこを指しているのか」
私は息を飲んだ。
レオが指差しているノートのページ。
そこに走り書きされた数式。
それは、私が今まさに解読し終えたばかりの、カッシーニの計算式と全く同じものだった。
そして、その答えである「×」印の座標は――私が今、望遠鏡で捉えた「星の揺らぎ」の中心と、恐ろしいほどに一致していた。
「……うそ」
あまりの偶然に、背筋が震える。
いいえ、偶然じゃない。
彼もまた、行き詰まりの中で必死に答えを探して、もがいて、そしてここへ辿り着いたのだ。
別々の道を歩いていた二人の迷子が、同じ星の下で出会ったように。
「……レオ、本当にバカね」
「はあ? 人が真剣に頼んでるのに……」
「違うわよ。……悔しいくらい、タイミングが良いって言ってるの」
私は自分の手元にある星図を、レオのノートの横に並べた。
そして、赤いペンを取り出し、二つの地図の同じ場所に、力強く丸をつけた。
「ここよ」
「え?」
「私が今、見つけた場所。……おじさんが目指していた『約束の空』と完全に一致してる」
レオが目を丸くして、望遠鏡と地図を交互に見た。
言葉を失っている。
自分の信じてきたものが、妄想ではなかったと知った瞬間の顔だ。
「見つけたの。おじさんの言ってた場所」
「……本当か?」
私は無言で頷き、彼の手を引いて望遠鏡を覗かせた。
「中心を見て。星が揺れてるでしょ?」
「……ああ、なんか滲んでるな。レンズが汚れてるのか?」
「違うわよ、鈍感。あれは『重力の歪み』なの。あそこに、とてつもなく巨大な浮遊石の大地が隠れてる」
レオが息を飲む気配がした。
彼は望遠鏡からゆっくりと顔を上げ、私を見た。
その瞳に、私の知らない「熱」が灯るのが分かった。
冒険者の目だ。
「あるんだな。……そこに」
「ええ。私の計算に間違いはないわ」
胸が高鳴る。
見つけた。二人で見つけたんだ。
これでもう、ただの妄想だなんて誰にも言わせない。
でも。
その光景の意味を、観測者として冷静に理解した瞬間、私の体は恐怖で強張った。
喜びが、冷や水のように引いていく。
「……でも、レオ」
私は震える声で告げた。
それは、残酷な真実だった。
「そこは……私たち人間が、絶対に行っちゃいけない場所よ」
お読みいただき、ありがとうございます!
「星が揺れる空域」。ロマン派のシェリルが提示した謎が、レオの熱量と交わります。
次話、第3話もすぐに読めます。
伝説が「目的地」へと変わる瞬間、ぜひ見届けてください。




