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第17話 空の匂い、黒煙の心臓

いつもお読みいただきありがとうございます!

本日から【第2部 大陸の風、鉄の街】がスタートします。


ついに空へ飛び出したアルバトロス号。

ですが、ここは魔法の世界ではありません。

重力を振り切った彼らを待っていたのは、空の「厳しい現実」でした。

「うおおおおぉぉぉっ!! 見たかよ、あいつらの顔!」


風の音に負けないくらいの、割れんばかりの歓声。

僕は操縦桿を握りしめたまま、思わず叫んでいた。


「やった……やったぞ! 飛んだ! 本当に飛んだんだ!」


隣の副操縦席では、シェリルがバンザイをして跳ねている。

後ろの機関スペースでは、カイルとリゼが抱き合って

――いや、興奮のあまりお互いの肩を激しく揺さぶり合っていた。


「見ろよレオ! 高度計が振り切れてる! 僕の計算通りだ、いや計算以上だ!」

「もう追手なんて豆粒よ! ざまあみなさいってんだ!」


全身の血が沸騰するような高揚感。

無理だと言われた。ガラクタだと笑われた。大人たちは僕たちを小さな街の鳥籠に閉じ込めておこうとした。

それでも、僕たちは今、重力をねじ伏せて空にいる。

足元の床板――と言っても、廃材をまばらに打ち付けただけの隙間だらけの床だが――その継ぎ目から、遥か下の景色が透けて見える。

少しでも気を抜けばそのまま空中に放り出されてしまいそうな、足のすくむスリル。だが、それがたまらなく心地よかった。

いつもは見上げていた雲が、今は足の下をゆっくりと流れている。

家も、工場も、威張り散らしていた大人たちも、すべてがオモチャのように小さい。


「すごい……。レオ、見て。どこを見ても空だよ」


シェリルが身を乗り出し、細い手すりのパイプに掴まって下を指差す。

この船には、客室どころか壁一枚すらない。

剥き出しの鉄骨フレームに、最低限の板と機械を載せただけの、いわば「空飛ぶ足場」だ。

わざわざ窓を探さなくても、視界を遮るものは何一つない。

360度、上も下も、すべてが突き抜けるような群青。


ビョウウウゥッ!


隙間風なんて生易しいものじゃない。壁のない船体を強烈な風が吹き抜け、僕たちの髪を、服を、バタバタと激しく叩く。

その暴力的なまでの風圧さえも、今は愛おしい。


「……動いてる。僕たちが締めたボルトが、繋いだパイプが、空に勝ってるんだ」


僕はスロットルレバーに手を添えた。

鉄の振動が、掌を通して骨の芯まで伝わってくる。

ドッドッドッ……という力強いエンジンの鼓動。

これは、ただの機械じゃない。僕と、カイルと、シェリルと、リゼ。四人の意地と技術が組み合わさって生まれた、新しい命だ。

僕は肺が痛くなるほど、思い切り空気を吸い込んだ。


「……匂いが、ないな」

ふと、気づいた。


故郷の街は、常に石炭の煤煙と、路地裏の湿った土の匂いに満ちていた。それは「生活」の匂いであり、僕たちを地面に縛り付ける「重力」の匂いだった。

けれど、ここは違う。無臭だ。

鼻孔を突き抜けるのは、刃物のように乾いた冷気と、微かなオゾンの刺激だけ。

生命の気配がない。下界の泥臭さをすべて置き去りにしたような、神聖で、少し恐ろしいほどの清潔さ。

僕たちは、圧倒的な自由の中にいた。

しかし。

その無機質な「自由」が牙を剥くのに、時間はかからなかった。


「……っくしゅ!」


シェリルが身を縮めてくしゃみをしたのが、合図だった。

歓喜の熱が引いていくにつれ、今度は物理的な「冷たさ」が容赦なく肌を刺し始めたのだ。

地上は初夏の陽気だったが、ここは高度三千メートル。

計算上、気温は地上より二〇度近く低い、一〇度前後まで下がっている。

それに加えて、吹きっさらしの猛烈な風が体感温度をゴリゴリと削り取っていく。半袖のシャツ一枚では、巨大な冷凍庫の真ん中に立たされているようなものだった。


「さ、寒い……! ちょっと、何なのこの寒さは!」


リゼが悲鳴を上げ、慌てて積荷から分厚い毛布を引っ張り出し、ミノムシのように頭からすっぽりと被る。


「おいレオ! 感傷に浸ってる場合じゃないぞ!」


カイルの切羽詰まった声が、風の音を切り裂いた。

振り返ると、彼は真っ青な顔でエンジンの計器を睨みつけていた。震える手で丸眼鏡を押し上げている。


「どうした、カイル」

「数値を見ろ、この馬鹿! 燃料計だ!」


僕はダッシュボードの端にガムテープで固定されたアナログメーターを見た。

出発前、最高級のエタノールを満載にしたはずだ。まだ数時間も飛んでいない。

だが、針はすでに赤いゾーン――「空っぽ()」の寸前を指して、痙攣するように震えていた。


「なっ……嘘だろ!? タンクに穴でも開いたか!?」

「違う! 空気が薄いんだよ!」


カイルが寒さと焦りで歯をガチガチと鳴らしながら叫ぶ。


「人間だって高い山に登れば息が切れるだろ? エンジンも同じだ! 空気が薄くて酸欠状態なんだよ。だから必死にパワーを出そうとして、燃料をガブ飲みしてるんだ!」

「つ、つまり?」

「つまり、次の街まで持たない! あと三十分もしないうちに、僕らはただの重たい鉄屑になって墜落するってことだ!」


吹きっさらしの甲板に、一瞬にして冷ややかな沈黙が落ちた。

無臭の空に、ふわりと死の気配が混じる。

眼下に広がる美しい雲海が、急に「落ちたら死ぬ高さ」という恐怖の象徴に変わった。


「冗談じゃないわよ! まだ冒険は始まったばかりなのよ!?」

リゼが毛布から顔を出して叫ぶ。


「リゼ! 何か燃やせるものはないか!? 酒とか、油とか!」

「そんなのないわよ! あるのは工房から持ってきたドラム缶だけ! 中身は暖房用の重油と、機械の廃油よ!」

「それでいい! 油なら燃える!」

「それが……ダメなんだよ」

カイルが絶望的な顔で首を横に振った。

「レオ、お前は整備士だろ? 見てみろよ」


プスン……ドッ……。


エンジンの回転が不規則になり、咳き込むような音を立て始めた。エタノールが尽きかけている証拠だ。

僕は操縦桿をシェリルに預け、強風に煽られながら機関スペースへ這うように移動した。

横倒しに縛り付けられたドラム缶の蓋を開ける。

中を覗き込み、僕は言葉を失った。


「……なんだ、これ」


そこにあったのは、液体と呼ぶにはあまりに無惨なものだった。

黒く、ねっとりと固まった、まるで水飴か冷えたラードのような塊。

寒すぎるのだ。

地上ならサラサラの油も、この上空の冷気で粘度が増し、泥のように固形化していた。


「こんなドロドロの塊、細いパイプを通るわけがない」

カイルが頭を抱える。


「無理やり押し込んだら、人間の血管が詰まるみたいにエンジンが壊れておしまいだ。……万事休すだ」


燃やすものがなければ、落ちる。

単純で、無慈悲な絶対的な物理法則。


「……熱だ」

僕は呟いた。


「え?」

「冷えて固まってるなら、温めて溶かせばいいんだろ?」


僕は視線を巡らせる。

冷え切った手すり。寒さに震えるリゼ。

そして――轟音を上げて回転し続ける、巨大な鉄の心臓。

エンジンの側面、排気管(マフラー)だけが、周囲の空気を歪ませるほどの陽炎を立ち上らせ、不気味に赤黒く変色していた。


「あるじゃないか。熱なら、捨ててるほどたっぷりと」


僕は工具箱をひっくり返し、銅パイプとワイヤーカッターを掴み出した。

これは、船内で水道管として使う予定だったものだ。


「レオ? 何をする気?」

「血管バイパス手術だ!」


僕はニヤリと笑い、カイルに指示を飛ばした。


「カイル! この銅パイプを、あの熱々の排気管にグルグル巻きにするぞ! そこへあのドロドロの油を通すんだ!」

「はあ!? お前、まさか……排熱で燃料を溶かす気か!?」

「そうだ! 固まったラードだって、熱いフライパンの上なら溶けるだろ? それと同じだ! 溶かしてサラサラの液体にしてから、エンジンに流し込めばいい!」


カイルは一瞬呆気にとられた顔をしたが、すぐに知性の光を取り戻し、眼鏡を押し上げた。


「……なるほど、即席の予熱器にするのか! だが加減を間違えれば、パイプの中で油が沸騰して破裂するぞ!」

「そこはお前の計算頼みだ! 何回巻けばいい!?」

「くそっ、無茶苦茶な奴だ! ……ええと、パイプの長さと外気温からして、七周半だ! それ以上巻くと爆発する!」

「了解! リゼ、そこの手動ポンプを持ってこい! シェリル、高度を維持だ! 絶対に落とすなよ!」


作業は、戦場そのものだった。

エンジンは回ったままだ。止めたら終わりだ。

唸りを上げる鉄の塊にまたがり、僕は真っ赤に焼けた排気管に銅パイプを押し当てた。


「ぐっ……!」


分厚い革手袋越しでも、殺人的な熱がビリビリと伝わってくる。

背中から吹き付ける風は氷のように冷たいのに、顔と手のひらはオーブンに突っ込んでいるように熱い。感覚がおかしくなりそうだ。

ジリッ、と革手袋が焦げる不快な匂いが鼻を突く。

だが、手は止めない。

カイルの指示通り、パイプを強引に曲げ、排気管にグルグルと巻き付けていく。


「リゼ、ポンプ繋げ! 漏らすなよ、一滴でも排気管に垂れたら引火して火だるまになるぞ!」

「わ、わかってるわよ! あんたこそ死なないでよ!」


リゼが泣きそうな顔で、ドラム缶に突っ込んだホースを必死に抑えている。

パイプの端を、エンジンの吸気口に無理やりねじ込み、針金とガムテープで何重にも固定する。

正規のパーツなんてない。あるのはガラクタと、どうしても生きたいという意地だけだ。


「よし……準備完了! リゼ、ポンプ回せェェッ!!」


リゼが体重をかけてレバーを押し込む。

ドロドロに固まっていた黒い廃油が、ホースを通って銅パイプへと送り込まれる。

赤熱した排気管に触れた瞬間、パイプの中で油が激しく煮える音がした。ジュウウウゥッ!

熱交換。


ただ捨てられていた熱を吸い込み、固まっていた泥のような油が一瞬でサラサラの熱い液体へと変わる。

それが、絶えかけていたエンジンの心臓部へと噴射された。


一瞬の静寂。

全員が息を飲む。


ズドン!!


船体が、強風に煽られたわけでもないのに大きく跳ね上がった。

これまでのエタノールによる軽やかな回転音とは違う。腹の底を直接殴りつけるような、野太く、荒々しい爆発音。


ドッドッドッドッ!


まるで怒れる野獣の咆哮だった。


「回った……!」


カイルがへなへなと座り込む。


「無茶苦茶だ……あんなゴミみたいな燃料、いつ壊れてもおかしくない」

「でも、生きてる」


僕は顔中の煤と汗を袖で拭い、笑った。

排気管からは、空の青さを塗りつぶすような猛烈な黒煙が噴き出していた。

もくもくと吐き出される煤の帯が、僕たちの不格好な航跡を描いていく。


「ゲホッ、ゲホッ! ……臭い! 最悪!」


リゼが咳き込みながら顔をしかめる。

確かに、焦げた油と硫黄の混じった強烈な悪臭だ。

さっきまでの「無臭の清潔な空」は、僕たちの吐き出す排気ガスで、一瞬にして薄汚れた工場の匂いに変わってしまった。


でも。


「……暖かい」

シェリルが呟いた。


排気管に巻き付けたパイプが放熱器(ラジエーター)の代わりになり、エンジンのそばに身を寄せる僕たちの凍えた身体をじんわりと温め始めていた。

綺麗なだけの空では、生きていけない。

この煤の匂いこそが、僕たちが生きている証だった。

僕は黒く汚れた手を見つめ、拳を強く握りしめた。

スマートじゃなくていい。綺麗じゃなくていい。

空を泥で汚してでも、僕たちは前へ進むんだ。


「船長、見えてきたよ」


シェリルの声に、全員が手すりに掴まり、前方を見る。

黒い煙の尾を引いて飛ぶアルバトロス号の先。

雲海を突き破るようにしてそびえ立つ、巨大な岩の針。

その頂上に、無数の鉄骨とパイプが寄生するようにへばりついている街。


「あれが、最初の停泊地……『尖塔都市アイアンポート』か」


僕たちは、黒い煙をなびかせながら、その巨大な影へと降下を始めた。

財布の中身は空っぽ。燃料タンクにはヘドロ。

最高の冒険の始まりだ。



第2部も読みに来てくださり、ありがとうございます!

綺麗で無臭な空では生きていけない。泥臭い廃油を燃やしてでも前に進む。

レオたちらしい、黒煙を上げる初フライトでした。


次回は、雲海にそびえる最初の拠点『尖塔都市アイアンポート』に到着します。

しかし、そこでも彼らは「歓迎」とは程遠い扱いを受けることに……。

明日も夜にお待ちしています!

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