第23話 黎明の名の下に
――その男は、かつては"異能"を持たない、ただの貧しい少年だった。
昼でも薄暗い部屋。
隣家の影が深く差し込み、障子越しの光はいつも濁っていた。
障子の紙は何度も貼り替えられ、ところどころに指の跡が残っている。
天井からぶら下がる裸電球が、かすかに唸りながら揺れていた。
布団の上で、少女が浅い息を繰り返している。
胸が上下するたび、喉の奥で、ひゅ、と湿った音が鳴った。
少年は、黙ってそのそばに座っていた。
湯気の抜けた茶碗。
煎じ直しの薬草の匂い。
開け放した窓の向こうから、鋼鉄が擦れるような音が、一定の間隔で遠ざかっていく。
外の世界は、今日も動いている。
この部屋の苦しみなど、知らぬ顔で。
「……にい、ちゃん」
か細い声だった。
少年は、すぐに身を屈める。
「どうした」
少女は、笑おうとして、うまくできなかった。
「ね……もう……いい、かな……」
少年は、答えなかった。
否定もしなかった。
ただ、少女の手を、両手で包んだ。
冷たく、骨ばっている。
「……つらいか」
「……うん」
「……そうか」
それだけだった。
励ましも、希望も、祈りもなかった。
だが、少年は立ち去らなかった。
咳き込むたびに背中をさすり、息が乱れるたびに、呼吸を合わせるように黙ってそばにいた。
夜が更け、外の音が消えても、少年はそこにいた。
闇は、部屋を満たしていた。
だが少年は、それを恐れていなかった。
闇は、痛みを隠さない。
苦しみを誤魔化さない。
ただ、そこにあるものを、あるがままに示す。
やがて、少女の呼吸は、ふっと軽くなった。
苦しそうに歪んでいた顔が、ほどける。
「……らく、だ……」
それが、最後の言葉だった。
少女は、静かに動かなくなった。
少年は、しばらくそのまま、手を握り続けていた。
泣きはしなかった。
ただ、小さく息を吐いて、呟いた。
「……もう、苦しくねぇな」
「だから……もう、いいんだ」
その言葉に、母は言い返せなかった。
ただ、声を殺して泣きながら、少年の袖を掴んだ。
◆◆
葬列は簡素だった。
石畳の道。
黒い布に包まれた棺。
俯いたまま歩く大人たち。
泣き崩れる母の背を、少年は黙ってさすっていた。
「……私が悪いんだ
……働かせてたから、結核なんかにかかるんだ」
母は何度も、そう繰り返した。
少年は、首を振る。
「違うよ」
幼い声だったが、不思議と揺れていなかった。
「灯は、がんばった」
母は、縋るように顔を上げる。
「……でも……」
「苦しかったろ。でも、もう終わった」
少年は、母の目を、真正面から見た。
「だから……もう、いいんだ」
その言葉は、慰めではなかった。
赦しでもなかった。
肯定だった。
母は、その場に崩れ落ちた。
泣き声は、やがて嗚咽に変わり、最後には、静かな呼吸だけが残った。
周囲の大人たちも、何も言えなかった。
誰もが、その言葉を否定できなかった。
やがて母は、強い眼差しを少年に向けた。
「灯の分まで、私達も生きよう」
少年は、このとき知った。
人は、救われたいとき、
正しい言葉ではなく、否定されない場所を求めるのだと。
◆◆
それから、少年の周囲には、自然と人が集まるようになった。
病を抱えた隣家の男。
帰らぬ家族を待ち続ける女。
明日の仕事も知れぬ者たち。
少年は、助言をしなかった。
未来を語らなかった。
ただ縁側に座り、話を聞き、頷き、こう言った。
「つらかったな」
「それでいい」
「間違ってねぇ」
人々は、深く息を吐き、少しだけ背筋を伸ばして帰っていった。
少年は気づいていた。
闇の中では、人は迷ってしまう。
自分の苦しみを否定されたときに、人は絶望する。
ならば――
照らす光は、裁くためのものではなく、
そのままでいいと示すためのものでなければならない。
少年は、まだ祈らなかった。
まだ神の使徒でもなかった。
ただ、人の暗がりに立ち、
小さな光を掲げることを、選んだだけだった。
――苦しみを終わらせることは、間違いじゃない。
――生き続けることだけが、正解じゃない。
妹の灯が、苦しみから解放されたように。
その考えは、絶望ではなかった。
逃げでもなかった。
人の闇を、否定せずに照らしたい。
それが、
後に“光”と呼ばれるものの、
最初のかたちだった。
だが――
人の心を掬い上げるその少年が、報われることはなかった。
制度は彼を救わず、
社会は彼の存在を視界に入れなかった。
少年は商家に丁稚として入っていた。
運び、掃除し、叱られ、名を呼ばれることもない日々。
それでも手に入るわずかな銭と薬草が、家を繋いでいた。
そうして懸命に働き、家計を支え、
人の痛みに寄り添い続けても、
彼の家は、昨日と同じ貧しさの中にあった。
人の闇を照らす才は、確かにあった。
だが――
そこに立つ場所だけが、どこにもなかった。
少年は思った。
自分に話を聞いてもらうために足を運ぶたくさんの人達。
そして、自分の境遇。
この世は――不条理だと。
◆◆
ある夜、少年は黒衣の男に会った。
闇に溶けるような存在。
暗がりそのもののような男。
男は言った。
「お前もまた、“報われぬ者”か」
少年は、なぜか否定しなかった。
「……ああ」
「――ならば、渡そう」
裁くためではない。
救うためでもない。
肯定を、拡張するための力。
少年は思った。
――嗚呼。神様だ。
その後。
異能を手に入れた少年は、人々の夜を明かす存在になりたいという願いを込めて
――「黎明」と名乗ったのだった。
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