第10話 渋谷重力事件
《特災対・コマンドセンター/浴場》
「……ふぅ……」
低く息を吐くと、湯気に声が溶けた。
内場はコマンドセンター内の浴場にいた。
白い湯気が天井近くで滞留し、照明の輪郭をぼかしている。
肩まで湯に沈めると、張りついていた疲労が、皮膚の内側からほどけていくのが分かった。
特災対に配属されて、十日ほど。
初任務を終えてからは、射撃、武器分解、対異能想定の基礎訓練、体力強化。
昼夜の区別なく詰め込まれるスケジュールの合間で、
この浴場だけが、思考を止めていい場所だった。
「今日も……疲れたな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
湯の熱がじんわりと体を包み、心拍がゆっくり落ちていく。
内場はこの時間が好きだった。
銃も命令も、判断もない、ただの“人間”に戻れる時間。
ーーその時。
ガラガラ……
引戸の立てる乾いた音が、浴場に響いた。
内場は反射的に視線を向ける。
湯気の向こうから現れた男は、ひと目で異質だった。
180cmを超える長身。
黒髪のオールバック。
無駄のない、鍛え上げられた体躯。
そしてーー
肩から背中、腕、胸に至るまで、びっしりと刻まれた刺青。
胸元から覗くのは、かすれた龍。
年季の入った線が、ただの装飾ではないことを物語っていた。
(……え?)
内場の喉が鳴る。
(ヤクザ……?
なんで、特災対に……?)
男は内場に一切の注意を払わず、
ドカドカと床を鳴らしてシャワーの前へ行くと、
どすん、と腰を下ろした。
蛇口を捻る。
「男ぁな、冷てぇ水で十分よ」
低く、太い声。
勢いよく噴き出した冷水が、周囲に飛び散る。
男は気にも留めず、
豪快に水を浴びながら体を洗い始めた。
「♪ 表で光る看板ぁ
裏で支える馬鹿がいらぁなぁ〜 ♪」
節の利いた演歌を、遠慮なく張り上げる。
音が浴場の壁に反響し、内場の鼓膜を叩いた。
(……うるさい……)
内場は顔を半分ほど湯に沈め、
わずかに眉を寄せた。
やがて男は洗い終え、
そのまま内場の真正面の浴槽へと入ってくる。
湯が揺れ、二人の間に波紋が走った。
男は肩まで浸かると、
ふぅ、と短く息を吐いた。
「……おい」
不意に、低い声。
「てめぇ、第3部隊の新入りだろ?」
鋭い眼光が、まっすぐ内場を射抜く。
刺青と相まって、圧が強すぎた。
「あ、は、はいっ!
第3部隊の内場です!」
内場は反射的に立ち上がり、
湯を跳ねさせながら一礼した。
男の視線が、水面から出た内場の下半身
ーー股座へと一瞬落ちる。
「……ふん」
鼻で短く笑う。
内場の表情が、固まった。
「あっしぁ、白柳百合平だ」
ぶっきらぼうに名乗る。
「まぁ……よろしくだ」
それだけ言うと、
白柳は天井を仰ぎ、目を閉じて湯に身を委ねた。
それ以上、言葉はない。
湯気の中、
水音と呼吸音だけが、気まずく流れていった。
◆◆
風呂を上がった内場は、まだ湯気の残る髪をタオルで拭きながら、着替えの袋を片手に廊下を歩いていた。
特災対施設、浴場付近の昼間の廊下は静かだ。夜間に比べ人の出入りも少なく、機械音と空調の低い唸りだけが耳に残る。
(昼は人が少ないから、好きだったんだけど……)
先程の男のせいで、今日のお風呂はどうにも落ち着かなかった。
(あんまり、疲れが取れなかったな……)
内場は小さく息を吐き、誰に聞かせるでもなく、心の中でひとつ悪態をついた。
ーーその瞬間。
ブーッ、ブーッ!
静まり返っていた廊下を引き裂くように、警報音が鳴り響く。
金属的で、耳の奥を直接揺さぶるような音。
反射的に、内場の背筋が伸びる。
続けて、無機質なアナウンスが流れた。
「ーー第3部隊、出動準備」
内場は足を止め、視線を上げた。
(……っ!)
胸の奥が、ぐっと締めつけられる。
ロジェ戦の時の銃声が記憶に蘇る。
(…異能者か)
考えるより先に、体が動いていた。
◆◆
《特災対・コマンドセンター/ブリーフィングルーム》
第3部隊の隊員たちが整列している。
正面の壁一面には大型モニターが並び、薄暗い室内に映像の光が揺れていた。
その前に立つのは荒屋。
鋭い視線で隊員全体を見渡し、低く、迷いのない声で口を開く。
「渋谷にて異能災害発生。カテゴリー4相当の異能者による通り魔事件だ。異能は重力操作と見られる」
モニターが切り替わり、一人の男の顔が映し出される。
金髪。細身の体格。血の気の薄い、どこか焦点の定まらない目。
「マイナンバーデータベースより、ターゲットの顔をTSUGUMIが照合した」
荒屋は視線を外さず、淡々と続ける。
「犯人は斑目紫勇、28歳。借金の返済滞納者。世間への強い反感があると見られる」
事実だけが、無駄なく積み上げられていく。
その冷静さが、かえって状況の深刻さを際立たせていた。
「今回は真昼間の市街地だ。人も多い。」
荒屋の声が一段低くなる。
「情報局、庶務局、特殊監理局が政府と共同でメディア統制と隠蔽工作を実施。庶務局危機対応調整室が警視庁と連携し、民間人の避難誘導を行う」
内場は、息を呑んだ。
——出てくる部署が多い。
それだけ重大な事件ということか…。
それもそうだ。現場は、あの渋谷だ。
隊員一人ひとりに、視線が配られる。
「俺たちは被害を最小限に抑え、いち早く異能者を制圧する」
一拍。
荒屋は息を吸い、声を張り上げた。
「以上。第3部隊、出撃!」
「はっ!」
鋭く揃った返答が、部屋に響いた。
◆◆
《都内・渋谷区》
渋谷スクランブル交差点。
いつもなら人の流れとネオンに満ちた、東京を象徴する場所。
その光景は、すでに地獄に変わっていた。
十数名の通行人と、数台の車両が、一斉に宙へと浮かび上がる。
「キャーーーッ!」
「な、何が起こってるんだ!」
悲鳴と混乱の声が交錯する。
浮かび上がった人と車は、まるで“上空に落ちる”かのように、ビルの中層に迫る高さまで投げ出された。
——直後。
重力が、牙を剥く。
ドーン!!
人と車が地面へと叩きつけられる。
鈍い衝撃音と、砕ける金属音。
鮮血と破壊の痕が、交差点を一気に惨状へと染め上げる。
訳も分からぬまま、逃げ惑う人々。
悲鳴が波のように広がっていく。
その中心。
交差点の真ん中に、一人の男が立っていた。
金髪。すらりとした体躯。
血色の悪い顔に、歪んだ興奮が浮かんでいる。
斑目紫勇。
「俺は……」
男が叫ぶ。
「手に入れた力で、俺を重圧で押し潰そうとしたこの世界…普通に生きてる奴ら、全員"沈める"!」
その瞳が、淡く光を帯びる。
「重力偏向!」
——次の瞬間、空気が軋む。
◆◆
男が暴れている地点から、山手線の線路を挟んだ道路脇。
黒のハイエースが三台、静止していた。
ドアが一斉に開き、二十名ほどの隊員が迅速に降車する。
ブーツがアスファルトを踏み鳴らし、構えられた武器が、混乱の中に静かな威圧感を放つ。
特災対戦術局。第3部隊。
高架越しに、異能者の暴走がはっきりと見えた。
車が宙に浮き、落ち、砕ける。
あまりにも、派手で、無秩序な反抗。
内場は歯を噛み締め、無意識に拳を握る。
胸の奥で、緊張が鋭く研ぎ澄まされていく。
隊列の先頭に立つ荒屋が、スクランブル交差点を見据えた。
「行くぞ」
短い一言に、全てが詰まっていた。




