第1話 異能者を殴った日
――僕はこの日、異能者を、素手で殴った。
内場総士は、財布の中身を確認してから小さく息を吐いた。
千円札が二枚。あとは、じゃらつく小銭だけ。
(……あと、何日も持つかな)
どこか憂いを帯びた目元。
中肉中背で、無駄のない体つき。
線が細く、街中に紛れれば二度と目に留まらないような男。
ただ一つ、"異質すぎる"経歴を除けば。
防衛大学校を卒業し、そのまま自衛隊に入隊。
――そして今は、生活に困窮するただの無職だった。
自分から辞めたわけではない。
正確には、「辞めさせられた」。
同期との暴力沙汰。
理由を説明しても、「聞き間違いだ」「被害妄想だ」と切り捨てられた。
――聞こえてしまったのだ。
陰口も、嘲笑も。
両親のことを、過去を、面白半分に踏み荒らす音も。
耳を塞ぐことはできなかった。
結果は懲戒処分。
現在、無職。フリーター以下。
今日は公共料金の支払いと、口座残高の確認。
生きるためだけの、どうしようもなく現実的な“用事”だった。
◆◆
どこにでもあるような普通の銀行支店。
カウンターにはスタッフが三名。
入り口の自動ドアの横には一人の警備員が立つ。
待合の椅子には十人前後ほど。
そこそこ待ちそうだ。
内場は整理券を取り、待合の椅子に腰を下ろす。
「……この後、ハローワーク、か」
独り言が零れる。
やりたい仕事があるわけじゃない。
ただ、人の役に立つ仕事ができればいい――
そんな願いを、子供の頃から抱いていただけだ。
だが、防大卒で自衛隊をクビになった人間に、
世間は驚くほど冷たい。
(社会貢献なんて言ってる場合じゃないな)
そう思った、その時だった。
――違和感。
銀行のざわめきの中に、
ひとつだけ、不自然な"音"が混じった。
(……心拍数が、異常に速い)
反射的に視線を上げる。
ガラス張りの自動ドアの向こう。
黒いパーカーを着た男が、こちらへ歩いてきていた。
フードの奥で、男の目が淡く光る。
次の瞬間――
屋外に停められていたはずの車が、動いた。
「伏せろぉぉ!!」
怒号と同時に、
宙に浮き上がった車が、銀行正面を突き破った。
ドォォォン!
爆音。
ガラスの破砕音。
悲鳴が重なり、空気が一気に引き裂かれる。
内場は即座に柱の影へ滑り込んだ。
(なんだ!?何が起こった!?)
侵入してきた男が、右手を掲げる。
すると、突っ込んできた車のドア、ボンネット、天井が分解され、まるで生き物のように宙へ浮かび上がった。
「……異能者」
喉が、ひくりと鳴る。
理屈で説明できない力を持つ存在。
自衛隊時代、訓練で一度だけ耳にした“仮想の脅威”。
――ほぼ都市伝説。漫画やアニメでしかみたことがない存在。
実在するとは、思っていなかった。
男は愉快そうに笑った。
「騒ぐなよ。ちょっと金を借りるだけだ」
――バコォォォン
浮遊する車の部品が、
叩きつけられるようにカウンターを粉砕する。
警備員が吹き飛び、壁に激突した。
男はそのままカウンターの残骸を踏み越え、内側へ進む。
「……磁力への反応。金庫は、こっちか」
内場の背中を、冷たい汗が伝った。
だが――
耳は、絶えず情報を拾っていた。
呼吸の乱れ。
足の踏み込み。
能力発動の直前、心拍が跳ね上がる一瞬の癖。
(……いける)
理由は分からない。
だが身体は、すでに動いていた。
消火器を掴み、床を蹴る。
白煙が噴き上がり、視界が遮断される。
「――っ!?」
内場は距離を詰め、振り下ろす。
しかし――
消火器は、空中でぴたりと停止した。
「…えっ!?」
「無駄だ。金属だろ、それ」
消火器が弾かれ、内場の身体が吹き飛ぶ。
床を転がった瞬間、
高速で引き戻された消火器が、叩きつけられた。
ガン!
(――っ!!)
頭があった場所が粉砕され、消化器の白い煙が更に巻き上がる。
続けざまに、車のボンネットが迫る。
ドッッ!!
直撃。
「かはっ!」
内場は壁に叩きつけられ、膝をついた。
「弱ぇくせに、よくやるなぁ!」
男が吼える。
男は消化器の煙を掻き分け、内場の元へと歩みを進める。
だが、その視界に――
内場はいなかった。
「……どこだ?」
次の瞬間。
煙を切り裂き、
内場が男の背後に現れる。
「おらあああああ!」
顎へ、渾身の一撃。
異能者は吹き飛び、床に叩きつけられた。
内場は膝をつき、荒い呼吸を繰り返す。
額からは血が流れる。
鉄の塊をぶつけられたのだ。
ただでは済まない。
だが男は血を口から吐き、怒りに歪んだ顔で立ち上がる。
「一般人風情が!この俺を殴るとはぁ!!」
車の部品が、一斉に内場へ向かって飛来した。
(……あ、これ)
パン。
乾いた音――"銃声"。
同時に、視界が闇に沈んだ。
◆◆
「……生きてる?」
遠くで、誰かの声がした。
内場は、重たいまぶたを薄らと押し上げる。
視界に入ったのは、低い天井と赤いランプの光。
(……車、か)
身体が揺れている。
振動が、意識の奥を叩いた。
見知らぬ車内。
壁際に固定されたシート。
その周囲を囲むように、黒い戦闘服の男たちが座っていた。
無言。
無駄な動きは一切ない。
その落ち着きが、異様だった。
「確認。一般人一名、意識回復」
無線に向かって、淡々とした声。
「バイタル安定。外傷は想定内」
「よし。引き上げる」
短い指示が飛ぶ。
内場の視界の端で、
拘束された誰かが運び込まれるのが見えた。
――黒のパーカー。あの男だ。
力なく垂れた腕は手錠。
フードは下ろされ、露になった頭に装置を取り付けられている。
(……捕まったのか)
そこで、低く通る声が響いた。
「こちら特災対戦術局・第3部隊隊長、荒屋」
名乗りは簡潔だった。
「異能者を確保。これより連行する」
“異能者”。
その単語を聞いた瞬間、
胸の奥が、ひやりと冷えた。
何かを考える間もなく、
後頭部に鈍い圧が走る。
視界が、再び暗転した。
◆◆
次に目を覚ました時、
内場は白い天井を見つめていた。
無機質な光。
消毒薬の匂い。
医療施設――だが、病院とは違う。
壁も床も、音を吸い込むように静かだった。
身体を起こそうとすると、
痛みが遅れてやってくる。
「無理しない方がいい」
声がした。
向かいの椅子に、スーツ姿の男が座っている。
がっしりとした体格。
短く刈った髪。
日に焼けた肌。
一見すると、どこにでもいる中年のビジネスマン。
だが――目だけが、妙に軽かった。
背後には、黒い戦闘服の男が一人。
壁にもたれ、腕を組んで立っている。
鋭く切れ込む目元。
刻まれた皺。
無精髭と、浅黒い肌。
歴戦の軍人。
そう形容する以外、言葉が浮かばない。
「目が覚めたようだね」
スーツの男が、柔らかく声をかける。
「……ここは」
「極秘施設。説明は省くね」
笑顔のまま、あっさりと言い切った。
内場の喉が、無意識に鳴る。
「君、異能者の存在を知ってしまったね」
心臓が、わずかに跳ねた。
「しかも――
一般人なのに、勇敢に立ち向かい、痛手を負わせた」
男は感心したように、軽く手を叩く。
「興味が湧いてね。少し調べさせてもらったよ」
指を一本、折る。
「自衛隊経験あり」
もう一本。
「聴覚が異常にいい。公式レポートにも残ってた」
さらに一本。
「そして現在、無職。職探し中」
指を折り終え、男は笑った。
「完璧なタイミングだと思わない?」
背後の戦闘服の男が、一歩前に出る。
「荒屋」
スーツの男が呼びかける。
「使えそうかい?」
荒屋と呼ばれた男は、内場を一瞥しただけで答えた。
「はい。使えるかと」
それ以上の言葉はない。
スーツの男は満足そうに頷く。
「俺は久我宗一郎。特災対戦術局長」
――特災対。
自衛隊に所属していたため日本の組織には精通している方だ。
そんな内場でも、聞いたことのない組織名だった。
だが、本能が警鐘を鳴らしていた。
関わってはいけない場所だ、と。
「選択肢は二つ」
久我は、にこやかなまま告げる。
「ここで働くか」
一拍置いて、
「それとも……口封じか」
室内の空気が、凍る。
「……冗談、ですよね」
内場は、かろうじてそう返した。
「半分くらい?」
久我は楽しそうに首を傾げる。
内場は天井を見上げた。
出口はない。
逃げ道も、交渉の余地も。
「……拒否権は」
「ないない」
久我は立ち上がり、内場に手を差し出した。
「ようこそ、特異災害対策統合指令部――
通称、“特災対”へ」
内場総士は、その手を見つめた。
掴めば、戻れない。
だが、掴まなくても――選択肢はない。
ゆっくりと、手を伸ばす。
その瞬間から。
彼の日常は――
完全に、終わった。




