2−4
「このまま一緒に小学校に行ってみないか」
岬から降りると、すぐにT字路にさしかかる。それを左に曲がれば海希たちの家に着き、右に曲がれば大学や駅のある通りにつながる。このまままっすぐ進めば、かつて僕たちが通った小学校があったはずだった。
「小学校?」
「家に戻っても、他にやることもないしさ」
ただの思いつきからの提案だったが、時間を潰すにはなかなか悪くない。それに小学校に行けば、僕が忘れているという海希との約束を思い出せるかもしれない。海希の様子から察するに大事な約束なのだろうが、直接聞いたところで、教えてくれそうな気配はない。
「行ってもいいけれど、今は夏休み中だろうし、中に入れるのかなあ。それに、新校舎になっているの。だから記憶とは違うかもしれないよ」
「建て替えたんだ?」
「数年前に、体育館だったところを潰して建てたの。だから旧校舎のほうもまだ建ってはいるんだよね」
「それなら、行ってみようよ」
かつて何度も通った通学路のことは、不思議と体が覚えていた。砂利だったところが舗装されていたり、田んぼだったところに家が建っていたりという変化に逐一驚きながら、けれど戸惑うこともなく歩く僕の様子を見て、海希は首を傾げた。
「この町のこと、あまり覚えていないって譲は言っていたけれど、十年近く思い出しもしなかった人とは思えないわね」
「僕も自分に驚いてるよ」
ひょっとしたら、僕の記憶はこの町の海底にひっそりと漂っていたのかもしれない。堆積していた汚泥が洗い流されるように、たくさんの記憶の断片が意識の表層に浮かんでくるようだ。
海希とふたりでだらだらと歩いていると、徐々に太陽が中天に登り、日差しがきつさを増してきた。海に近いからか、陽光が特に厳しく感じる。足元に落ちる影が濃い。今日は本当に暑くなりそうだと汗を拭った。額からも背中からも滝のような汗が流れ出て、洋服を濡らしていく。
赤い瓦屋根の住宅の前に自販機があった。立ち止まってコーラを買う。
「海希は何も飲まないの?」
「わたしは大丈夫」
熱中症にならないようにね、と言おうとしたが、僕とは違って海希は涼しげな様子だ。
「いいね。汗かかなくて」
「そう?」
「べたべたして気持ち悪い。帰ったらシャワー浴びなきゃ」
コーラを勢いよく飲み干す。それにしても、目の前の住宅は大きい。奥に母屋、手前には長屋と二軒の土蔵があった。庭が広々としている。生垣がきれいに刈り込まれ、その奥には赤い花をつけたはまなすが揺れているのが見える。感心して眺めていると、ふと思い出したことがあった。
「ここって、コッパの家じゃないか」
背が低くて声が大きく、意地の悪い少年が脳裏に浮かぶ。
「そうだよ。コッパもまだこの町にいるよ。海斗と同じ大学に通ってるの。いまでも二人でよく遊びにいっているみたい」
どうも僕は嫌われていたようで、なにかと因縁をつけられて嫌な思いをしたが、そういえばコッパは海斗とは仲が良かったのだった。
「海斗とコッパって合わなそうなのにね」
「コッパって人に絡むからね。海斗はいつも無口で仏頂面だから、コッパくらい絡むタイプじゃないと、付き合えないのかも」
コッパの家の前を通り過ぎると、大きな通りにぶつかった。その通りを五分ほど歩くと、見慣れない白さの校舎が目に入る。
「うわ。きれいになったなあ。こんなきれいな学校に通えるのは羨ましい」
「わたしたちが通ってた時は、ボロボロだったものねえ」
駐車場を開放しているのか、門は閉ざされていない。敷地内に入るのは難しくなかった。砂利が敷かれた駐車場を過ぎ、雑草が生い茂った裏庭をどきどきしながら歩いていくと、新校舎の影に黒ずんだコンクリートの建物が現れた。
「懐かしい」
等間隔に生えている桜の木に導かれながら、旧校舎の正面に向かう。正面玄関は立ち入り禁止の黄色いテープが張り巡らされていて、近寄れないようになっていた。分厚い曇りガラスの向こう側に、古ぼけた木造りの下駄箱が延々と並んでいるのが、かろうじて見える。
「中に入ってみたい?」
「入っていいの?」
驚いて振り返ると、海希がいたずらっぽく笑って、立ち入り禁止の札を指差した。
「もちろんダメだけれど、裏口から入れるんじゃなかったかな」
校舎をぐるりとまわって、うさぎ小屋の前にたどり着く。裏口の鍵は壊れていて、扉が半開きになっている。気兼ねなく出入りできそうだった。
「海希は優等生だったじゃないか。こういう悪いことはしないと思っていたのに」
からかうと、
「そうかな。昔から冒険は大好きだよ」
意気揚々とそういった。
校舎のなかは何を見ても懐かしい、の一言だった。無数の傷跡がある白い壁、今にも崩れてきそうなボード貼りの天井。教室は意外なほどに狭く、小さな机と椅子がごちゃごちゃと並んでいる。子ども達の賑やかな話し声や、先生が走らせるチョークの音。淡々と時間を区切っていくチャイム。それらが蘇ってくるかのようだ。
廊下の角を曲がると音楽室が現れた。ピアノは新校舎にあるのだろうか。楽器の類はなにもないが、ベートーヴェンやモーツァルトの肖像画がかかっている。
「海希はピアノが得意だったよね」
「わたしのお母さん、ピアノの先生だったの。小さい頃は海斗と一緒に、よくピアノを教えてもらったな」
工作室の前を通り過ると、美術室が現れた。その扉だけがタイル貼りになっているのを見て、僕ははっとした。
覚えている。
パステルカラーの三角形のタイルが、やや不器用に貼り付けられている。そのタイルのつやつやした感じとか、ごつごつとしたセメントの汚れ方とかをよく覚えている。
木曜日はサークル活動だ。それぞれの得意なことを、各学年ごちゃまぜになって活動する。その時間、僕はこのタイル張りの扉をあけて、この教室のお気に入りの位置に座る。
「ここからは海がよく見えるんだ」
お気に入りの場所にもう椅子はない。教室の片隅に片付けられている小さな椅子を持ってきて、座ってみた。
窓から見える景色は変わっていない。教室から眺める海原は穏やかで、悠然としている。さわやかな潮の香りと、絶えまない潮騒。
こんなに海が近い小学校に通うのはこの町に来て初めてだった。なかなかクラスメイトには馴染めなかったけれど、いつも漂っている海の香りや、広々とした海原が醸し出す開放感は好きだったことを思い出す。
「知ってる。譲はいつもこの席に座って、海原を眺めていたよね」
海希はあの頃のように僕の近くにきて、僕と同じものを見ようと視線を海原に走らせている。
美術を選択する生徒は大抵大人しめの子が多かった。だから本当は音楽クラスにいるべき海希が、こっそりと抜け出して僕の近くで僕の絵を覗き込んでいても、みんな見て見ないふりをしてくれていた。
僕たちをはやしたてるような男子もいない、いつもいる海斗もいない、ふたりだけの時間。
その時間を、僕はとても大切に思っていた。
海希はどうだったのだろう。
海原を見つめる海希はどこか遠い目をしていて、何を考えているのか推し量ることができない。強い陽光がその白い肌を輝かせている。今、海希はなにを考えているのだろう。僕と同じように、僕とのこの時間を、大切に思っていてくれたら。