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「美しいブルーだ」
五月のある晴れた日、僕は近所の診療所の診察室で医師と向き合っていた。初老の医師は僕の友人の父親でもある。僕は彼のデスクに無造作に置かれたポストカードに目を引かれた。それにはコバルトブルーを纏った貝殻が大きく写り込んでいる。
「東北地方の一部に生息している貝だよ。古い付き合いの友人がその町で大学の教授をやっているんだ。町の名前はなんと言ったかな……」
「岬辺町」
脳裏に浮かんだその町の名を、僕ははっきりと口にした。
岬辺町。あの畝る海を囲む町。
「小学校五年生から六年生にかけて住んでいたんです。確かに海岸にきれいなブルーの貝殻がたくさん転がっていた。今まですっかり忘れていたな」
「そうか。わたしも行ったことがあるよ。海が透き通るような町だった。数日の滞在だったがとてもリフレッシュできた」
そういって彼は額の皺を深くして考え込んだ。
「譲くんもしばらく旅行してみたらどうだい。じきに夏休みだろう。そうすればきみの――その、しつこい偏頭痛も少しはなりを顰めるかもしれない」
「そうでしょうか」
僕はここのところ日増しに頻度が増す頭痛に悩まされていた。それは激痛で、一度発作が起こると寿命が縮むような痛みに苦しまなくてはならない。何種類もの痛み止めを試しても大して効かず、治療は暗礁に乗り上げていた。
「ストレスは万病のもと、というからね。きみには心当たりがないのかもしれないが、ストレス要因が全くないということがストレスになることさえあるんだ」
医師は行き詰った治療によい風穴が開いたと考えたに違いない。表情が明るくなり、饒舌になった。
「岬辺町は有名な観光地というわけでもないし、サポートが必要だな。よし、わたしの友人に相談してみよう」
数日後、かかりつけ医は意気揚々と、彼の友人である大学教授が快く引き受けてくれたこと、案内役として僕と同い年の生徒を手配できることなどを電話で伝えてきた。本当に旅行などでこの病気が治るのか疑問に思いながらも、この提案が、彼の医者としての職務を超えて、息子の友人を難儀な持病から救ってやりたいという好意からのものであることに気づいていたので、理由もなく断るようなことはしなかった。
そんな訳で僕は大学四年生の最後の夏休みに、この小さな田舎町に滞在することになったのだった。
教授のいる大学は町の中心部からいささか離れたところにある。行きは一時間に一本しかないバスに乗ってきたが、帰りは荒井海斗の車に乗せてもらうことになった。
窓の外には群青色の大海原が果てしなく広がっている。
この辺りの海岸線は半円状に窪んでいて、海を囲んでいるようにみえる。その北端には小さな岬があり、その岬を中心に広がっているのが、この岬辺町だ。車なら一時間程度で全周できる小さな港町で、駅前に広がる商店の多くは閉店し、かつて賑わっていたのだろう、デパート跡は解体もされず、廃墟となっている。生活には困らないだろうが活気はない、そんな寂れた田舎町だ。
荒井海斗はこの町のことを簡単に説明しながら、コンビニやスーパー、おいしいパン屋の場所まで教えてくれた。
「パン屋は少し遠いけれど、僕の家に自転車があるから貸すこともできる。コンビニも十分歩ける距離だよ。日用品に困ることはないと思う」
彼は初めて会った時から変わらず無表情で淡々と案内をしている。『優秀で面倒見はいいけれどともかく無愛想な学生』。なるほど、前評判はつくづく的を射ている。愛想のなさには戸惑うが、説明はとても丁寧だ。細やかで配慮ができるのだろう。僕の療養旅行は幸先がよさそうだ。
全開の窓からは潮風が爽やかに吹き込んでくる。すっかり安心しきって窓の外を眺めていると、
「それで、もしよければ僕の家に泊まらないか」
荒井海斗は出し抜けにそんな提案をした。
「へ?」
「親戚が営業している民宿を案内しようと思っていたのだけれど、…油絵をやるんだろう? 」
彼は僕が膝の上にのせているくたびれたポリエステルの鞄に視線を投げた。その鞄には赤や緑の絵の具がべっとりと付いている。
「そこはあまり景色が良くないんだ。僕の家のほうが海からも近くて見晴らしがいい。汚してくれて構わない部屋もある。」
「それは有難いけれど……」
先ほど知り合ったばかりの人間を家に入れることに抵抗はないのだろうか?
僕は戸惑いながら彼の表情を窺った。熟れたオレンジ色の陽光が青年を照らし出して、その表情に影を作っている。浅黒い肌に青みがかかった白目がくっきりと浮かび上がっていた。整った顔立ちの男だ。僕は首を傾げた。いつかどこかで、彼を見たことがあるような――。
「何もそんなに戸惑った表情をしなくてもいいじゃないか。僕たちは今初めてであったわけじゃあないだろ。…もしかして、忘れてしまっているのか?」
彼を見つめていると、ある情景がよぎった。
透明な海の水。瑠璃色の貝殻。日焼けした足。そして長い髪の少女。
「この町が転校先の一つだったことは覚えているのだけれど、そのほかのことはほとんど記憶にはないんです」
潮風が助手席の窓から吹き込んでくる。この時初めてよく嗅ぎなれた香りだと思った。懐かしいという感情だけが僕の胸に沸き上がる。
「記憶にない? 本当に? ミキのことも?」
荒井海斗はかなり驚いた様子で僕を覗き込んだ。
「ミキ?」
聞きなれない名前だ。ミキ。ミキ。
「覚えていないのか。こんな田舎町に転校生なんて珍しいことだったから、僕は譲のことをよく覚えているけれど。それにしてもミキのことを覚えていないとは」
荒井海斗は怪訝な表情でしばらく押し黙った。どうにも納得できないでいるようだ。僕の記憶がないことはそんなにおかしなことだろうか?
「譲はうちの近所に越してきたんだ。双子の妹がクラスメイトで、僕たちはすぐに仲良くなった。三人でよく遊んでいたよ」
(よく遊んでいた?)
――約束だよ。
少女の声が鮮やかに蘇る。潮騒の音が迫ってくるようだ。僕はこめかみを抑えた。拍動するような痛みが側頭部に響く。