1 The first day of that summer
初投稿です。物語自体は完結しているので、途中で放置するということはありません。安心して更新をお待ち下さい。よろしくお願いします。
海のことを想う。
ざわざわと絶え間ない潮騒。
潮風の運ぶべたついた香り。
なにもかも隠してしまう海水の暗い青さを思い出す。
部屋のなかは薬品の匂いが充満していた。夕暮れ時で窓からは西日が差している。僕の目の前には一人の白衣を着た男がいた。すらりとした背丈の青年で、まっすぐに僕をみている。
「初めまして。朝橋譲です。貴方が僕の案内をしてくれる荒井……海斗さん?」
初対面にしては意味ありげな間がその場に舞い降りていた。物珍し気にこちらを観察している彼に業を煮やし、僕はその沈黙を破った。
一瞬、不可解な緊張が過る。それから苦虫でも噛みつぶしたような表情で荒井海斗はゆっくりと頷いた。『優秀で面倒見はいいけれどともかく無愛想な学生らしい』という前評判を思い出す。この町への療養旅行を提案した僕のかかりつけ医からの情報だ。
それにしてもなんだろう。この彼が醸し出す物言いたげな緊張感は?
「僕は東京芸美大学の四年生です。荒井さんとは同い年だと伺っています。ところで、今日は教授はいらっしゃらないんですか?知人の伝手で旅行のサポートをお願いしたら、わざわざ学生の方を案内につけてくださって、一言お礼を申し上げたいと思っていたのですが」
再び舞い降りた沈黙を打ち破るべく、僕はにっこりと笑みを浮かべ、話を続けることにした。荒井海斗とは違って僕の愛想のよさには定評がある。小、中、高と転校を繰り返す中で身につけた処世術だ。
「教授は急な用事があって今日は外出している。忙しい人だから、ちょっとした用事は、それが例え私的なことでも僕たち学生が対応することがある。今回もそんな用件のうちの一つだよ。」
荒井海斗は穏やかな口調で話し始めた。漂っていた緊張感が霧散していき、僕はようやく肩の力を抜いた。
「宿泊先まで手配してくださったみたいで感謝しています。いざ泊まろうとしてもホテルもないようだし、ネットで検索してみても何の情報もでてこなくて」
「僕の伯父が細々とやっている民宿を紹介しただけだよ。大した手間じゃない。この町は自然は豊かだが、旅をするには不便なところだ。特に都会の人にとっては勝手が違うだろう。僕みたいな案内役はどうしても必要になる」
「たくさん――が、いるんだ」
ふいに窓の外から喚き声がきこえ、僕たちの会話は途切れた。
荒井海斗は怪訝な表情で窓を開ける。その瞬間、さあっと海風が入り込んで薬品の匂いを消し去った。同時に金切声がはっきりと聞こえた。
「たくさん幽霊がいるんだ」
道端で老年の男性が必死に叫んでいる。
「この町にはたくさん幽霊がいる。わたしを追いかけてくるんだ」
彼の声には尋常ではない焦燥感が混じっている。
「この町は――だ」
一瞬声量が落ち、よく聞こえない。次の言葉ははっきりと聞こえた。
「この町はくだらない町だ、幽霊がいっぱい、お前らも全員ごみだ。わたしはこんな町から早く出ていかなくてはならない」
荒井海斗が窓を閉めると、また薬品の匂いが静かに充満していく。
「幽霊が、幽霊が追いかけてくるんだ!」
窓の外からは男の喚き声が聞こえてくる。彼は必死に、腹の奥底を深く律動させて、彼の魂を震わせて叫んでいる。