第八章 君が見えなくなった世界
王太子ウィリアルドを乗せた馬車が、遠足の目的地に静かに到着した。
だが、その場には、いつものような歓声も彼女の笑顔もなかった。
代わりに彼を迎えたのは――
重く沈んだ空気と、ざわめきに揺れる人の群れ。
そして、その中央には、地面に膝をつき、顔を覆って泣き崩れる少女の姿があった。
「クラリス様……クラリス様ぁ……っ……!」
声を震わせ、涙にくぐもった嗚咽を漏らしているのは、クラリス付きの侍女――メイリアだった。
普段は控えめで、笑顔を絶やさぬあの彼女が、今はまるで世界の終わりを前にしたかのように、肩を震わせて泣いていた。
「殿下……殿下……!」
出迎えに来た教師の顔は強張り、声には動揺がにじんでいた。
「何があった?」
ウィリアルドはすぐに気付いた。
これは――普通ではない。何かが、明らかに、違う。
振り返れば、同行していた侍女たちがざわざわと噂を交わしている。
「馬車が……崖から……」「クラリス様が……」
名前を耳にした瞬間、ウィリアルドの胸に、何かが鋭く突き刺さった。
「……クラリスに、何かあったのか? 報告を!」
足が、心より先に動いていた。
(嫌な予感がする。いや、違う。そんなはずが――)
だが、教師の口から告げられた言葉は、そのすべてを裏切った。
「…馬車の転落事故です。
お乗りになっていたのは
――クラリス嬢と思われます」
その知らせは、ウィリアルドの心に、冷たい刃のように突き刺さった。
「……なぜ……クラリスが?」
遠足の集合地に到着したばかりだった。
まだ懐には、緑の宝石の髪飾りがしまわれていた。
それを渡して、微笑む彼女を思い描いた、その直後に――
「事故現場には…燃え尽きた馬車の残骸が。
周囲には、花が散り…血痕と、ドレスの切れ端、そして…髪の毛が落ちていたと……」
「ふざけるな!!」
「……………。」
「…すぐにその場所に案内してくれ」
誰もはっきりと「亡くなった」と言えなかった。
遺体は、見つからなかった。
けれど、それでも人々は言った。
「――クラリス嬢は、もう……」
***
淡紫の花――星霞草が、火に焦げながらもそこに残っていた。
そして金色に近い髪が数本、風に吹かれて舞っていた。
ウィリアルドは、ただ立ち尽くしていた。
言葉を失い、思考が止まり、時間だけが遠ざかっていく。
(そんなはずがない。だって――
今日、僕は髪飾りを渡して、クラリスは笑って……)
気づけば、手が自然に髪飾りの箱を探っていた。
箱を開ける。
緑の宝石が、夕日に照らされて煌めいた。
それは――彼女のために彩られた光。
けれど、その髪に通すはずだった人は、どこにもいない。
「クラリス……」
名を呼んでも、風しか返ってこない。
「…また、隠れているのかい?」
「きみはかくれんぼが好きだから」
「頼む……お願い…だから」
「出てきて!!」
「クラ…リス……クラリス……っ!」
その場に膝をつき、緑の宝石を抱きしめるようにして、少年は嗚咽した。
それは王太子としての姿ではなかった。
ただひとりの、愛する人を喪った少年だった。
***
遠く、現場に咲き散った花の香りが、風に運ばれていた。
その香りだけが、まだ彼女の存在を証明しているように思えた。
けれど――
彼女の声も、笑顔も、温もりも、もう戻らない。