第七章:崩れゆく約束
馬車は静かに、森の奥へと進んでいた。
春の木漏れ日が、ゆらゆらと幌の布の上を流れていく。
クラリスは膝の上に花束をそっと抱え、微笑んでいた。
昨日受け取った淡紫の星霞草はまだ瑞々しく、甘やかな香りを放っている。
(もうすぐ、ウィルに会える……)
馬車の窓から外を見ると、遠くに空の青がのぞいた。
金糸のような長い髪が、春風にふわりと舞い上がる。
「ありがとう、ウィル。視察で大変なのに、こんな素敵な花を…」
その瞬間だった。
馬車の進路が、ふいに大きく左に逸れた。
「きゃっ」
クラリスは驚いて体を支え、幌越しに御者に声をかけた。
「急がせてしまっているようですが、そんなに急がなくても大丈夫ですよ…?」
御者は、喉を鳴らしながら振り返らずに答えた。
「あんたは幸せな思いの中、死ねるんだな」
「えっ…?」
「娘がいるんだ。まだ十にもならねえ。
……女房は病床で寝たきりでな。
このままだと、借金で家ごと潰れる。誰も助けてくれねぇ…」
「なんの話を…しているのですか…」
男の声は震えていた。
だが、次の言葉ははっきりしていた。
「ルーデンドルフ様が言った。
“あんたと心中すれば、すべて帳消しにしてやる”――ってな
……俺だって、死にたくなんかない!」
叫びながら振り返った男の狂気を孕んだ瞳と目が合う。
「……やだ、やめて……っ」
「すまねえ…すまねえ…けど、俺は、娘だけは生かしたいんだ!!」
叫ぶようにして手綱を引いた。
馬車が道なき道を駆け出す。木の枝が車体を打ち、車輪が跳ね上がる。
「やめて!お願い、やめて!!」
クラリスは扉へと駆け寄り、必死に叩いた。
だが――外からすでに鍵が下ろされている。
崖が近づく。
恐ろしいほど静かな奈落――
馬車の車輪が、硬い地を打ち、跳ねる。
(やだ、だめ――このままじゃ……)
「助けて――ウィル!!」
それが、彼女の最後の叫びだった。
***
一方そのころ。
遠足の目的地へ向かう王太子ウィリアルドは、馬車の中にいた。
小さな箱を懐にそっと忍ばせ、
クラリスの笑顔を思い浮かべながら、静かに微笑んでいた。
緑の宝石があしらわれた髪飾り。
それは、自分の瞳と同じ色だった。
「ちょっと独占欲が過ぎるかな……
でも、きっと喜んでくれる。照れながら『もう、ウィルったら』って、笑うだろうな」
その瞬間を思い描くだけで、胸が熱くなる。
彼の世界では、彼女はすぐそこにいた。
未来も、笑顔も、隣にあると思っていた。