第六章:別れの馬車
遠足二日目の朝は、前日と同じように晴れていた。
空はどこまでも澄みわたり、鳥たちは軽やかに歌い、春の風は希望の香りを運んでいた。
けれど、それはあまりにも静かで、美しすぎて――まるで、神がこの日を悼むために整えた舞台のようだった。
「クラリス、こっちよ。別便の馬車が用意されているの」
リアナが朝の支度を終えたクラリスに微笑みかける。
その声は柔らかく、そしてどこか弾むような調子で――、まるで、幸せな知らせを届けるかのように。
「別便?」
「ええ。殿下は先に目的地に向かわれたのよ。もう現地でお待ちになっている。
そこでクラリスには特別に便を用意したわ」
「そうなの!?
でもどうして?」
「昨日殿下に会えなくて落ち込んでたでしょう?
それで何かしてあげたくて…殿下からの手紙ももらったわ、ほら、これ」
リアナは、手紙の一節を取り出して見せた。
その筆跡は、確かにウィリアルドのものとよく似ていた。
偽造されたそれは、まるで本物のように優しく、愛を滲ませていた。
「ありがとう、リアナ。
私、あなたという親友を持って幸せ者ね」
「いいのよ…私達、親友じゃないの」
クラリスは穏やかに笑った。
青い瞳が嬉しそうに細められる。
リアナはその横顔を、じっと見つめる。
(あなたのその笑顔も、今日で終わるのだから)
***
馬車は、宿舎の裏手に静かに止まっていた。
他の生徒たちの馬車列とは少し外れた場所。
車輪には荷が軽く、整備が済んだばかりのように見えた。
御者台に座る男が、無言でクラリスに一礼する。
無精髭にくすんだ外套。
だがその眼には、冷たい何かが潜んでいた。
クラリスは、少しだけ違和感を覚えながらも馬車に乗り込んだ。
(ウィルに会える……どんな顔するかな、花束のお礼も、ちゃんと伝えなきゃ)
馬車の席に花束置いて、それを見て心がふわりと高鳴る。
恋する少女の胸には、疑いの影など差しこまない。
もう一度お礼を言おうとクラリスがドアに近づく
「リアナ、ほんとにありが 」
「もう閉めるわね」
リアナが馬車の鍵を外からしっかり閉ざした。
***
それを見た御者の男が、手綱を握る指に力を込める。
(……妻よ、娘よ、許せ。……生きてくれ、この代償で)
男の脳裏には、貧しい村に残した娘と妻の顔が浮かんでいた。
ルーデンドルフ公爵の部下から告げられた言葉――
「借金は帳消しにしてやる。代わりに、ある娘と“共に”沈んでもらおう」
御者は言葉を返さなかった。
ただ、無言で首を縦に振った。
この手綱が、命の鎖となる。
それを、静かに――引いた。
***
馬車が林の奥へと消えたその直後。
遠足の出発準備が整うなか、ひとりの侍女が軽く走ってきた。
「申し訳ございません、リアナ様。
クラリスお嬢様をお見かけになりませんでしたか?」
リアナは一瞬だけ表情を止め――すぐに、いつもの微笑みに戻った。
「えっ?クラリスがいないの?」
「はい、お部屋にも戻られていないようで…。昨日のように、またどこかに隠れていらっしゃるのかもしれません」
リアナは胸元に手をあて、小さく笑う。
「ほんとにあの子、時々ふっと姿を消すのよね。仕方ないから、私も探すわ」
「リアナ様にそんなご迷惑をおかけするわけには…」
「いいのよ。“一人で”散歩しているだけだし、
きっとどこかで、昨日みたいに木陰にでも座ってるんじゃないかしら?」
「本当に、リアナ様は友達思いなのですね」
「親友だから、特別よ」
そう言いながらリアナは、微笑みを崩さぬまま、侍女と歩き出した。
(演じるのよ、完璧に。誰よりも“心配している親友”を)
その足取りは軽やかで、振り返ることはなかった。
馬車がすでにこの場を離れていることを知っているのは――
今、王国でたった一人。
リアナ・ルーデンドルフだけだった。