サラ・モーガン
ちりりん、ちろりろりん、りりりん……。微妙なリズムを刻むベルの音が、徐々に近づいてくる。
“彼女”の訪れは不定期で、魔界の月が昇って落ち、また昇るまでを一日と数えて約7日から30日おきにやって来るのだと、昨日リズは言った。
ちなみに前回の訪いがちょうど7日前で、つまり早ければ明日にも来るかもしれないが、遅ければひと月近く待たねばならない可能性もあった。
一日や二日ならばともかく、それ以上この狭い家に居候する訳にはいかない。
リズはまだしばらく大丈夫だと言っていたが、今日明日にもあの吸血鬼がリズの血を欲し戻って来ないとも限らないのだ。
……何があろうとも、潤の肌にあの吸血鬼の牙が穿たれる事態だけはあってはならない。純血種の牙というだけで驚異なのに、それが因縁のある牙となれば……。
清士は、未だ目覚める気配のない潤を見下ろした。
(……おかしい。薬は飲ませたんだ。もうとっくに目を醒ましていい頃合のはずなのに)
リズは、月が沈み、辺りが少し明るさを取り戻すとすぐ、ぶどうの世話をするため表へ出て行った。
世話になっている身だ、手伝いくらいするべきかとも思ったが、リズにそれを笑顔で断られた。
「潤ちゃん、って言うんだっけ、その娘。……心配なんでしょう? 目が覚めるまでついててあげたらいいわ。私は大丈夫、言ったでしょう、もう600年も毎日一人で作業をしているのよ、手伝いなんか要らないわ」
……確かに、社の仕事だと園芸作業を手伝わされた経験はあっても、本格的な農作業などとんと縁がない。素人が無理やり手伝っても、かえって邪魔になっては本末転倒だ。そう考えなおし、彼女の言葉に甘え、こうして潤の傍に付き添っているのだが――。
ちりりん、ちろりろりん、りりりん……。
表から聞こえてくるベルの音は、より一層大きくなる。例えば呼び鈴のような澄んだ高い音ではなく、ガラガラと賑やかなカウベルの音だ。
ふと顔を上げ、良く耳を澄ませてみると、ベルの音とは別に、がらごろと荷車の車輪が悪路を踏みしだき進む音と、四足の獣の足音が――
「セージ、セージ!」
それをかき消す勢いで、バタンと勢いよく扉が開き、リズが頬を上気させながら駆け込んできた。
『清士』、といういかにも日本風の名前は、田舎なまりのフランス語を喋る彼女が発音するには難しいらしい。まるでハーブの名前のような発音だが、まあ、それはいいとして。
「来た、来たよ!」
とぴょんぴょん飛び跳ねる元気な彼女に、清士は怪訝な顔をする。
「……少し、落ち着け。一体どうした、何が来たと言うんだ」
一瞬、あの好ましからざる顔が清士の脳裏をよぎったが、即座に否定する。もしもそうなら彼女の反応はもっと違ったものになるだろう。
「魔女様が、来た!」
目を輝かせながら、リズが表へ向かって手を振る。
「サラ様ぁ!」
がらごろ言う車輪の音と、カウベルの音はますます近づいてくる。――と、するとあれは魔女の……
清士は急いで立ち上がり、リズの後ろから外を覗き見た。
古き良き欧州の香りを強く感じる洒落た箱型の車を引くのは、角が4本、目玉が3つ、尾が6本ある魔界の牛。真っ黒なその身体は、荷物が山と積まれた車と同じ程に大きい。
その魔牛を操るのは、ほっそりとしたまだ若い女性――。腰まで届く艶やかな黒髪と、飾り気のない地味な黒ローブ姿のあれは……間違いない、モーガン一族の“民族衣装”とも言える出で立ちだ。
清士は思わず安堵のため息を漏らした。これで少なくとも、有益な情報の一つ二つは手に入るだろう。右も左もわからない、八方塞がりな現状は打破できるはずだ。
家の前で手を振るリズに気づいたらしいサラは、ふっと朗らかな笑みを浮かべ、リズに手を振った――が、しかしすぐにその彼女の後ろに立つ清士の姿を目にした途端、鋭い目つきで睨まれた。
リズにほほ笑みかけた優しげな表情から一転、仇敵でも見つけたような顔で睨まれ、清士は無意識に腰を引いた。
――サラは、今こうして遠目に見ても美しい外見をしていた。ファティマーのような妖艶さは無いが、どちらかといえば精悍な女騎士、といった雰囲気が漂う。
ローブマントで体型ははっきりとしないが、どちらかといえばスレンダータイプに見える。
その細い体で、いかにも獰猛そうな面構えの大きな魔牛を危なげなく操る術は、さすがモーガン一族の娘と言うべきか。
……しかし、美女のひと睨み、というのはいつの時代どこの場所でもその威力は凄まじい。
何も悪い事をしていないのに、つい謝ってしまいたくなる。ましてや今の清士は実際に後暗い事情を抱えているのだから、つい余計なことを口走ってしまいそうになる。
清士は手で口を塞ぎ、強烈な視線から目を逸らす。
「やあ、リズ。息災なようで何よりだ。……見ない顔だが、そちらは?」
手綱を引き、家の真ん前で牛車を止め、意外と高い御者台からひらりと身軽な身のこなしで飛び降り、綺麗な着地を見せる。
慣性の法則でふわりと広がった長い黒髪が、その動きに合わせて艶やかになびく。
同じ服装に同じ髪型。肌の色も瞳の色も、ファティマーと全く同じ。顔の造作もどことなく似通ったものを感じる、というのに。
こうして間近に見てみると、受ける印象がまるで違う。
「えっと、セージさん、ていうの。聞いて、凄いのよ、元天使様なんだって!」
にこにこ嬉しそうに報告するリズに、彼女は微笑みかけた。
「へえ、そうなの」
だがその直後、清士の目をまっすぐ見ながら、声音に殺気を隠してサラは尋ねた。
「――元、というからにはつまりは堕天使様、よね? それがこんな魔界の辺境に何の御用があっていらっしゃったのかしら? もしかして道にでも迷われたのかしら? もしも貴方がシェムハザ様の城をお探しならば、ここから西へ……あの森を抜ければすぐに見えてくるわよ?」
口調こそ大変丁寧だし、表情も優しげな微笑みをたたえているが――駄目だ、目がちっとも笑っていない。目をそらした瞬間に殺られる、そう思わせるだけの迫力があった。
清士は、瞬時に干上がった喉から必死に声を絞り出し、こちらもなんとか無理やり笑顔を張り付け答える。
「あ、ああ。道に迷ったのは確かだが、行きたいのはそこではない。吸血鬼の王が棲まう王城へ参りたいのだ。そなた、地図などあれば我に譲ってはくれぬだろうか?」
するとサラは、サッと右手の手のひらを差し出した。
「――お代、100クラウン」
その一言に、清士は素っ頓狂な声を上げた。
「何? 地図一つが1万円だと?? いくらなんでもそれはぼったくりが過ぎるだろう! 本屋に並ぶ地図はどんなに高くとも5000円以下だぞ!?」
と、いうかそもそも。
「……何より、今我は魔界の通貨の持ち合わせがない。……円での支払いに替えては貰えぬだろうか?」
円とて、持ち合わせは相当に心許ないが、1万円なら払えない金額ではない。
だが、彼女は一気に怪訝な顔になった。
「――円、だと? ……確か、人間界の、小さな島国の通貨だったか。特にキリスト教圏、という訳でもなかったように記憶しているが、何故堕天使のお前が魔界の金を持たずに人間界の金だけ持ってこんな場所に居るのだ」
その声音に、ひやりと冷気が漂う。清士は、ひやりと背に冷たい汗をかきながら答える。
「……その、話せば長い、複雑な事情があってだな。だが、我は決して怪しい者ではないのだ。そう、吸血鬼の王とは互いに恩ある関係でな、そなたの一族の魔女、ファティマー殿とも縁があって……」
と、ファティマー、という名を耳にした途端、サラの眉がぴくりと跳ね上がった。
「ファティマー姐さまの知り合い?」
鋭い眼光が、清士の蒼い瞳の奥を射抜く。まるで尋問でもされている気分になりながら、清士は全力で顔面の笑みの維持に努める。
「う、うむ。……いや、正確には知り合いの知り合いなのだが。その、今の吸血鬼王の奥方の出自を、そなたは知っておるか?」
「ええ、元人間――それも大昔にうちの一族からさらわれた娘の血を引くらしいと聞いたわね。それが何か?」
「そう、そうだ。その、彼女を一時期預かった縁で、吸血鬼王やファティマー殿と面識があるのだが、その預かった場所、というのがまさに日本、そなたの言う人間界の小さな島国のとある場所で……」
清士は必死に説明するが、その間もサラの瞳の温度はどんどん急低下していく。
「……ファティマー姐さまが、悪魔のあなたに一族の娘を預けた? とてもじゃないけど信じられないわ。確かにうちの一族は妖や魔獣を操る術に長けているけれど、悪魔と契約を結ぶのは一族の禁忌。……ありえないわ」
そして、サラは一歩前へと足を踏み出すと、左手を伸ばし、リズを下がらせた。彼女を己の背に庇うように立ち、改めて清士を正面から睨み上げる。
「悪魔は人を惑わす存在。まやかしの言葉で私を籠絡しようとしても無駄よ。彼女には指一本触れさせないわ」
――何やら、どこかで聞いた覚えのあるセリフだ。
「ま、待て。そ、そなた今ここでファティマー殿と連絡を取る手段などは持ち合わせておらんのか? 彼女に聞けば分かる、……どちらにせよ彼女にも頼みたいことがあるのだ、頼む、待て……!」
片手を掲げ、呪文の詠唱を始めようとするサラに、清士は慌てて叫ぶ。だが、彼女の手に小さな炎が生じる方が早かった。
「彼女は、既にドラク伯の呪いを受けている。あなたの餌にはなり得ない。さあ、今すぐここから立ち去りなさい。さもなくば私が手ずからたたき出してやる」
「……何、ドラク伯、だと? まさか……ドラクリア伯爵の事か!?」
清士は驚愕のあまり、それまでの恐怖をも忘れ、思わずサラに詰め寄らんばかりに迫った。
――ドラクリア伯爵。日本風に言えば、ドラキュラ伯爵。……そう、かの有名な吸血鬼伯爵だ。その名がイコールヴァンパイアの代名詞の如く定着し、おそらくその名を知らないものなど居ないのではないかと思わせる日本一有名な吸血鬼。
「奴が……、晃希を咬んだあいつが、ドラク拍……?」
清士は、半ば呆然と呟いた。シェムハザだけでも厄介極まりないのに、それにかしずく吸血鬼は、なんとあのドラキュラ伯爵ときた。――到底、清士一人の手に負える相手ではない。早く、一刻も早く援軍を呼ばねばならないのに。
「……離れろ! 悪魔!!」
頭の中がようやく正体の知れた敵の事でいっぱいになり、一瞬、目の前にある現状を清士は見失った。サラの手にある炎の行く末を――。
「サラ、駄目! 中にまだ人が居るの……!」
だから、そう叫んで止めようとしたのはそれまで訳も分からず2人のやりとりを眺めるばかりだったリズだった。
その叫びに清士はハッと我に返ったが、もう遅い。自分に向かって飛んでくる炎を避ければ小屋が焼ける。小屋が焼けたら、潤が……
清士は反射的に避けようとするのを抑えようとするも、間に合いきらない。炎は、清士の半身を焼きながら掠め、背後の壁に燃え移る。よく乾燥した木材は、あっという間に真っ赤な炎を吹き上げ、チリっと清士の白い翼を焦がす。
「潤……!」
清士は、叫んだ。……だが、昨日から一度も目を覚まさない彼女からの応えはない。
潤は、半人半妖だが、その血の半分は人間であり、もう半分は吸血鬼のものだ。
――そして、お伽話ではない本物の吸血鬼の数少ない真の弱点の一つが……火、つまり炎なのだ。彼らの魔力の源である血を焼き干上がらせてしまうそれは、彼らにとって致命的なダメージを与えることができる数少ない武器で――。
ましてや、無力な人間が炎に巻かれたらどうなるか。……最早言わずもがな、だ。
「潤!」




