緋の軌跡
「お腹減ってない? よかったらこれ食べて」
彼女は卓の上の籠の葡萄を清士に勧めた。
「……って言ってもこれしかないんだけどね。でもこれ、最高級ワイン用に使うブドウだから、味は最高だよ!」
――死に損なった、人間。
その意味を清士が問いただそうとしたところ――
「こんな所で立ち話もなんだし、とりあえず中に入って座らない? あの娘にもそろそろ次の分のお薬を飲んで貰わないといけない頃合だし」
ようやく目の痛みから少し立ち直り、薄目をあけた清士の前にそれをかざして見せながら彼女は提案したのだ。
「それは……! 魔界の空気に含まれる毒の中和剤、だと? 娘、それをどこで……いや、どうやって手に入れた!?」
中和剤を作るには錬金術と言われる禁術の知識と技術が必要で、それは悪魔の得意分野の一つだ。“ただの人間”がそう易々と手に入れられる代物ではない。
清士は警戒を強めながらも、しかしそれ以上彼女に剣を向ける事はできなくなった。
潤の事を思えば、その薬は絶対に必要不可欠なものだ。清士にもそれを作る知識と技術はあるが、その材料が手元にない。……何しろ、色々入手が困難な代物ばかりなのだ。今、それらを一から揃えるなどほぼ不可能だし、出来たとしても時間が圧倒的に足りない。材料から薬を作る時間もそれなりにかかることを思えば、尚更に。
それが今、既に完成した薬がすぐ目の前にある。それを損なう可能性のある事は出来ない。
清士は彼女が少しでもおかしな真似をしたら即座に動ける用意をしながら、ゆっくりと刃を引き、剣を再び宙空へと消した。彼女に従い、家の中へと入り、例の粗末なテーブルの上に載っていた葡萄を勧められた。
「私ね、ここへ連れてこられる前は、貴族御用達の高級ワインを作る老舗のワイン倉に納める葡萄を作る、小さな農村に居たの」
少女は籠の葡萄から、一粒実をもぎ取り、皮もむかずそのまま頬張った。
「父は、その小さな村を纏める仕事をしていたんだけど、私は小さい頃から村の人たちと畑に出て、一緒に働くのが好きで、よく遊び半分に仕事を手伝いに行ったわ」
つるんと、薄緑色の瑞々しい果実だけを上手に吸い取り、残った皮をテーブルの端へ避ける。もぐもぐ数回咀嚼し、ごくんと飲み干した少女の手は、再び籠の葡萄へと伸びる。
「その頃は、村だけじゃなく国全体が荒れていて、どこも豊かな生活を送れる時代じゃなかったけど、私は構わなかった。……村の、男の子たちの中にね、好きな子がいたの。叶わない恋だと、最初から分かっていたのに、ついそれを忘れていつの間にか惹かれてた……」
もぐもぐむしゃむしゃと、次から次へと葡萄を頬張りながら、口を動かす。
「ふふふ、可愛い子だったのよ? 普段はあんまり目立つような子じゃないんだけどね、よく気の回る子で。……回り過ぎて、自分より相手を優先してしまうような優しい子だったの」
何処か遠くを見る様な――いや、実際記憶の中にしか存在しない過去の風景を見ているのだろう、焦点の合わない目で虚空を眺める。
「でもね、……結局、想いを打ち明けられないでいる内に、お父様が私の結婚相手を決めてしまった。……当時では珍しくない、というか当たり前の事ではあったんだけど。……二つ向こうの村長の息子でね、もちろん私の我儘で断れる話じゃなかったから」
少女は少し悲しげな苦笑を浮かべてみせた。
「いつか、彼以外の誰かに嫁がなくちゃならない事は、覚悟していたんだけど。……まさか、村を出なければならないなんて思わなくて。村に居さえすれば、少なくとも彼と言葉を交わす機会くらいはいくらでもあると思っていたのに……。一つ隣村へ行くのだって、馬で数刻はかかるっていうのに、二つも向こうの村だなんて……もう、彼の姿を目に留めることすらできない、……そう、思ったらね」
葡萄を食べる手を一旦止め、少女は俯く。
「色々、良くない事ばかり考えてしまって……。その、罰が当たったのかしらね……。その彼が突然病に罹って……重い病だったみたいで、畑に出るどころか、寝台からもろくに起き上がれない程だって、人から聞いて」
葡萄の汁で葡萄色に染まった手を見下ろしながら、少女は静かに自嘲の笑みを浮かべた。
「……それまでだって、決して真面目な信者ではなかったけれど。……その時だけは、本気で神様を恨んだわ。何でこんなにも理不尽なことばかりなさるのかって」
そして、少女は天井を仰いだ。
「そして、その不神信が招いたのか……。それから程なくしたある日……。村は、突然大火事に見舞われて……父も、母も、兄弟も、村の人も皆……炎に飲まれて……」
「そして、私も例外なくその炎の犠牲になって、死ぬはずだったの」
少女は、最後に軽く言った。
「でも、……それこそが、神様の本当の罰だったのかもしれない。大やけどを負って、殆ど息絶える寸前だった私の前に、とても綺麗な男の人が立っていた……。もちろん、村人じゃない。たまにやってくる行商人でも、ワイン倉の人間でも、国のお役人でもない。……明らかに、人とは違う雰囲気の、男の人。黒髪に、赤い瞳をした――吸血鬼が」
「その吸血鬼は、死にかけた私に言ったわ。――生きたいか? って。火事で負った傷も全部治して生かしてやる代わりに、隷属を誓え、と。……その時の私は、とにかくどこもかしこも痛くて苦しくて、……死ぬのが怖くて、つい、それに頷いてしまったの。そしたら突然、鉄臭くて生臭い生暖かい液体を口へ流し込まれて……」
不快そうな表情を浮かべながら、少女は再び苦く笑った。
「そうしたら、本当に怪我があっという間に治って、痛いのも苦しいのもなくなった。……けど、そのあとすぐにここへ連れてこられて」
少女は椅子から立ち上がり、玄関扉を大きく開け放った。その先に広がる景色は、広大な葡萄畑――。
「ここの、葡萄畑の世話を命じられました。……私の主となったその吸血鬼が仕える悪魔へ献上するためのワインに使う葡萄です。……以来、私はずっとここで葡萄の世話をして暮らしているの、もう600年近く、ずうっとね」
言いながら、少女は服の襟元を寛げ、首筋を清士の前に晒して見せた。まだ若い娘の艶やかな肌に、痛々しく残る傷。……吸血鬼の咬み跡が、まだ治りきらないままかさぶたになっている。
「私をここへ連れてきた吸血鬼は、普段は彼の主の城へ詰めているから、滅多にここへは戻ってこないけれど……。時折、私の血を吸いに戻ってくるの。あの薬を補充しがてら、ね。……彼に飲まされた彼の血のせいで、歳を取らなくなって、この世界の空気の毒に多少耐性がついたけれど、でも、やっぱり私は人間だから。……この薬は欠かせないの」
そして、少女は黙ったまま固まる清士にくるりと身体ごと向き直り、悲しげに微笑んだ。
「それが、私が人間でありながらこんな場所で暮らし、この薬を持っている理由よ。……信じて貰えるかしら?」
だが、清士は押し黙ったまま答えを返すことができなかった。
――彼女の話が、真実だとするならば。彼女は……
「名は……」
掠れた声で、それだけの言葉をようやく喉の奥から絞り出す。
「お前の名は、何という?」
問われた少女は少し慌てた様子で頬を赤らめた。
「やだ、そう言えば忘れてた! 私は、エリザベートよ」
彼女の答えに、清士はもう一度息を飲み込んだ。
「……皆にはリズ、って呼ばれていたけれど」
その言葉に、清士は確信した。間違いない。彼女は……




