空飛ぶ逃避行
――そう。今でこそ狛犬をやっているが、彼は元天使だ。
天使、と聞いておそらく殆どの人が頭に思い浮かべるのは、やはり頭に輪っかを乗せ、白い翼を背負った姿だろう。
その通りに、彼の背には真っ白な翼がある。
こうして抱えて貰って空を飛ぶのも、実は初めてではない――どころか、割とよくある事だ。
最早勝手知ったる、で、普段であればこんな間抜けな声を上げることはまずない。
……だが。
彼の背後は、一見すると巨大なカラスにも見える、真っ黒な翼を持った悪魔たちで空が真っ黒に染まって見えた。
翼だけは立派だが、醜悪な面構えの小さな体躯のあれらは、下級悪魔だ。
一体一体の能力などたかが知れ、数体であれば清士の敵ではない。
聖剣をひと振りすれば、即座に片付くはずだ。
だが、あれほどの数……一体の大きさなどせいぜい大きめの猛禽類程度しかないくせに、空を黒く染める程の数を相手に、荷物を抱えたままでは立ち向かうことすらできない。
ひたすら逃げの一手で飛び続ける。
「ひぇ!」
――潤の耳のすぐ側で、ヒュン、と風を切る音がして。真っ黒でやけに艶やかな羽根を矢羽根につけた矢が潤の頬を掠めていった。
「……チッ」
清士が舌打ちをし、僅かに後ろを振り返る。
ヒュン、ヒュン、ヒュン、
矢羽根が風を切り、矢尻が空を裂く音が、続けざまに潤を掠めていく。
――正直、狙いの精度はイマイチだ。
だが、『下手な鉄砲も数打ちゃあたる』、とばかりに次から次へと矢が放たれる。
なにせ、射手の数が半端ではない。
潤を抱えて両手の塞がった清士は、それを急上昇と急降下、急旋回を繰り返し、なんとか避けている状態だ。
……そんな事を言っていられる状況でないのは百も承知だが、しかし――彼に抱えられている潤はたまったものではない。
ひたすら、振り落とされないよう必死にしがみつきながら、間抜けな悲鳴を上げる。
「ひ、ひぇ、うひゃ、ぎゃぁ」
遊園地の絶叫マシンの数々を全部一度に体験しているかのような振り回され具合に、頭も胃もなくぶんぶん揺さぶられ、だんだん気分が悪くなってくる。
酔う、などという言葉など甘っちょろい。胃の中身どころか胃ごと口から飛び出ていきそうなのを、必死に堪える。
この状況、到底途中下車など許されない。
だんだん、頭も痛くなってきた。
手足が、凍え、しびれてくる。
――地上より、上空の方が空気が冷える。それは当たり前のことで、だから空を行く時はいつも普段より暖かい格好をするのに。
運悪く、今の人間界は真夏のさかりだった。
豊生神宮は、山中にあり、近くに川も流れているから、比較的涼しいのだが、真夏であることには変わりない。
当然、潤も薄手の半袖シャツに、夏用のズボンといった出で立ちだ。だが、たとえ真夏でも、普段であれば空を飛ぶならこんな格好はしない。
少し厚手の長袖シャツに上着をはおり、ズボンだってあえて初冬に履くようなすこし厚めの生地を使用したものを身に着ける。
なのに、地上に居てさえ、少し肌寒かったここで、この格好。
……寒くないはずがない。
でも、そんな事にかかずらっている猶予など、今はない。
例えどんなに頭がくらくらしても。呼吸がだんだん息苦しくなってきても。だんだん手足の感覚が失われてきたとしても……
「……チッ」
清士が再び舌打ちをした。
「おい、潤。しっかりしろ!」
潤の身体をよりしっかり抱え込み、自分の身体に添わせながら、清士は苦い表情を浮かべた。
「……くそ、魔界の空気の毒気に当てられたな」
潤の、焦点の合わない目を見て、清士はもう一度舌打ちをした。
魔界の空気は、耐性の無い者には等しく毒となる。
ただの人間、それも身体の弱い者であれば即死する可能性すらある。
潤は、上級悪魔であった兄の力を継ぎ、神龍の血を引いている分、並の人間より遥かに強い耐性を持っているから、この程度で済んでいるのだ。
それをすっかり失念していた清士は、舌打ちを繰り返す。
「おい、潤。……まだ、腕は動くか?」
――とりあえずの応急処置、正直気休めにしかならないが……
「我の羽を何枚か毟れ」
清士は潤に命じた。
「え……?」
天使の翼というのは、生身のものだ。
羽毛自体に感覚はないが、翼を支える軸や、羽の芯には痛覚も通っている。
それを毟れば、それなりに痛みがある。
だが、清士は潤に強く命じた。
「いいから、早く抜け」
宙を滑空しながら、風を捕まえなびくそれを、潤はままならない手で無造作に掴み、ひと思いに引き抜いた。
ブチッと、嫌な音がした。
清士は平静を装おうとしたようだったが、さすがに相当痛かったようで、僅かに眉間に皺がより、目尻が一瞬ひくついた。
「……っ、抜いたな? そしたらそれを一枚、飲み込め」
清士は、元天使で、今は堕天使の身だ。
だが、“餞別”と称して、天使の能力がそっくりそのまま残っている。
――天使の羽は、聖なるものの象徴だ。
魔に属する力を退ける力を持つアイテムとしてはかなり強力かつ希少価値の高いレアアイテムと言えよう。
……とても繊細で、まるで綿菓子のようなそれだが、羽毛には違いない。舌にのせても甘く溶けることなくしっかり主張してくる味のないけばけばを、潤はかなり苦労しながら飲み込んだ。
喉を通り過ぎるまでは、はっきりとその存在を主張し続けていたそれが、すぅっと体の中で液体に変わり、それが全身に浸透していく。
潤はそんな感覚をはっきり感じた。
それに触れたところから、手足の感覚が徐々に戻り、呼吸も少し楽になる。頭はまだ少しぼぅっとするけれど、目眩は治まった。
「残りは、しばらく持っておけ」
少し、潤の顔色が戻ったのを見て、清士は小さく息を吐きだした。
天使の羽は、魔除けとしては最上級クラスのアイテムだが、対する魔の力が並ではない上、今も常にそれにさらされ続けている状態、――焼け石に水なのだ。早く、根本的な処置を施してやらねばならない。
清士は、眼下に広がる鬱蒼と茂る樹林を見下ろした。
「……潤、しっかり掴まっていろ。――振り落とされるなよ」
「へ……?」
清士は、もう何度目か分からない急降下のなかでもとびきりの、まさに垂直落下と言うに相応しい軌道を凄まじい速度でなぞる。
「ひ、ひぇぇぇぇl!」
悲鳴を上げる潤をしっかり抱え込み、清士は真緑の中へとダイブした。