サラの過去(2)
妹は、もうじき4歳になろうかという歳。食事はサラと変わらないメニューを食べられるし、一人で立って歩くことができる。おむつも外れて一人でトイレも行ける。
ただ、歩き回れるせいでいたずら盛りの妹の面倒を見るのはとんでもなく大変だ。
ちょっと目を離すととんでもない事をやらかしていたりする。しかも、その事で怒られるのは妹ではなく、姉のサラなのだ。
姉が居れば別だが、今、妹の面倒を見ているのはサラ一人だ。
禁術を失敗した理由を調べ、この人の記憶を戻し、元居た場所に帰すにはどうすればいいのか、じっくり検討する必要があるのに、本に没頭すれば、その間に妹が何かしでかすかもしれない。
だからと言って何もしないでいてはあっという間に時間が過ぎ、両親が帰ってきてしまう。
カミラには姉の部屋のベッドを使ってもらい、妹を寝かしつけた後で、サラは睡眠時間を犠牲にして、必死に魔法書のページを捲った。
だが、どんなに調べてみても、失敗の理由が全くわからない。
人の記憶を操作するような魔法は、禁術の中でも特に難易度の高い術で、専門書の記述は半分以上何が書いてあるのかすらさっぱり分からない。
もちろん、自然に彼女の記憶が戻る――というような都合のいい展開になる気配も全くない。
何の成果もないままただ時間だけが過ぎていく――。
サラは、焦っていた。
そして、5日目の朝を迎えた日、サラはとうとうカミラに頭を下げた。
「あの、悪いんだけど、妹の面倒を見ていてくれないかしら? ちょっと遊び相手をしてくれればいいの。危ないことだけしないように、見ててくれたらそれでいいから」
彼女に妹の面倒を見てもらえれば、その時間も魔法書を読むことができる。――そう思ったから。
サラは、朝のうちにランチとディナーの仕込みまで終え、洗濯物を表に干してしまってから、自室にこもり、分厚い本との格闘を再開した。
時折居間の方からキャッキャとはしゃぐ妹の声が聞こたが、本に集中するサラの耳には届かない。
やがて陽が高く昇り、昼食時の頃合にようやくサラは本から顔を上げ、台所に顔を出した。
気分屋の妹は、珍しくご機嫌で、サラの足に絡みついてきた。
「あのねあのね、このお姉ちゃん凄いんだよ!」
目を輝かせて、自慢げにぴょんぴょん飛び跳ねる。
「いっぱい、色んな魔法が使えるの!」
サラの家は、モーガン一族。姉も自分もまだ見習いの身ながら、当然魔法が使える。母はもちろん、近所に住んでいる祖母も、一人前の魔女だ。
モーガン一族は完全なる女系一族だから、男である父は本当に簡単な術しか扱えない。
――魔女、といってもモーガン一族は普通の人間だ。……ただ、少し人外の存在に好かれやすい性質を持つだけの人間。
ただし、その性質は女性に現れやすく、逆に男性には現れにくい。
精霊や妖に力を借りて魔術を行使する一族にとって、その性質は知識や技術では補いきれない素質。
それでも、一般人よりは人外の者に好かれる性質は血に刻まれているらしく、小精霊や下位の妖程度の力でも扱える術なら行使は可能だが、やはりそれだとろうそくに火を灯すとか、焚き火の後始末をしたりといった程度がせいぜいだ。
しかし、それも魔法である。それこそ一般人には行使できない力を使う。
そんな人間に囲まれて育つモーガン一族の子どもにとって、魔法はごく身近な存在であり、特に驚く程珍しいものではない。
けれど――彼女は一族の人間ではないはず。それが、魔法を使ったとなれば話は別だ。
サラはカミラに視線を向けた。すると彼女は照れくさそうに微笑んだ。
「ええ、少しばかり手品を見せてあげたら、とっても喜んでくれたので、ちょっと調子に乗ってしまいました。大人相手に見せるほど上手なものではないから、ちょっと恥ずかしいわ」
そう言って、彼女はサラに、手に持ったハンカチの色柄を次々変えてみせるという手品を見せてくれた。
次から次へと見せられる布地の色柄は、どれも見覚えのあるものばかり。全て妹の持ち物だ。
彼女の手はとても器用で、サラの目ではそのタネを見抜くことは出来なかったが、成程、確かにポピュラーな手品だ。
モーガン一族の者なら誰でも魔法を使えるが、それらは全て精霊や妖から力を借りて行使するものであるがため、必要に応じて使うべきものとされ、楽しみや見世物のために魔術を使うことはあまりない。
今、彼女が見せているような事を魔法で行うことは可能だが、実際にそれをする者はモーガン一族には居ない。
だから、妹の目にはとても珍しく、驚くべきものとして映ったのだろう。
サラはそう考え、深く考えることもなく軽く流してしまった。
……この時、もう少し突っ込んでいれば、あんな事態になることはなかったかもしれないのに。
機嫌よくカミラに懐いた妹を昼食後に再び彼女に預けたサラは再び作業に没頭した。
さっきまできゃっきゃとはしゃいでいた妹の声が一転、泣き声に変わる。
……まあ、幼い子供の機嫌がころころ変わるのは珍しいことではないし、そもそも妹は元々気分屋だ。
作業に集中していたサラは特に気に留めることもなかった。
やがて、家の中が静かになる。
――妹は昼寝の最中だろうか? しかしそれにもサラは気づかない。
そして、扉がノックされる音がサラの部屋に響いて初めて、サラは本から顔を上げた。
太陽はだいぶ傾いていたが、それでも西日が赤く染まるにはまだ間がある時間。だが、そろそろ外に干した洗濯物は取り込んだほうがいい時間だ。
きっと、カミラがそれを気にしてくれたのだろうと思ったサラは躊躇いもなく扉を開けてしまった。
ひたり、ひたりと、水滴が落ちるような音が、ドアノブを回してほんのわずかに開いた隙間から聞こえた。
つん、と鼻についたのは、鉄錆の匂い。
もしかして、母の使い魔である黒猫のノアが野鳥かねずみでも捕まえてきたのだろうか?
しかしそれにしては血の匂いが濃すぎるような……?
猫の姿を求め、床に目を落としたサラの視線の先に、ほたほたと滴り落ちていく赤い雫と、床に落ちて溜まった赤黒い何かが映った。
――血!?
こんな水たまりになる程の出血、いったい何をしたというのか。
サラは慌てて扉を押し開けて――その目の前に広がった光景に息を飲んだ。
一階建ての木造の家の中、チョコレート色をした床板が、普段に増して赤黒い色で斑に染まっていた。
真っ白い壁紙が貼られた壁は尚更、鮮烈な赤がバケツいっぱいの赤い絵の具をぶちまけたように、ひたひたと赤い涙を流し、床に血だまりを広げていく。
鼻につく、濃厚な血の匂い。鳥やねずみの血を一滴残らず搾り取ったって、こんなにはならない。
それこそ、人一人分の血が必要だろう。
「……カミラ、さん?」
見上げた先で、彼女は軽く微笑んだ。
「ごちそうさま。……あなたの妹さんの魂、ね、とぉっても甘くて美味しかったわぁ」
「たま、しい……?」
「でも……あなたのはもぉっと美味しそう。私たちを惹きつけてやまない、極上の輝き……。噂には聞いていたけどまさかこれ程とは思わなかったわぁ」
ぺろりと、お菓子を前にした子供のように下で唇を舐め、彼女は身をかがめてサラと目線の高さを合わせてにやりと笑った。
「それもご丁寧に喚び出してくれた上に、お家に招いてくれるなんて、至れり尽くせりよねぇ?」
ぞくりと、背筋が寒くなるような微笑み――。
「お礼に、あなたの魂も美味しくいただいてあげるわ……。大丈夫、痛くしないから……じっとして」
細く冷たい指が、サラの顎にかかる。
「さあ、目を閉じて……」
彼女の親指が、サラの唇をなぞった。
そして――。




